第58話 肝属川の激震――帳面に書かれぬ防波堤
3話更新祭りは昨日で取り敢えず終わりです。
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元亀四年(一五七三年)三月。 南九州の冬を吹き抜けていた乾いた風が止み、大隅半島には湿り気を帯びた春の生温かい雨が降り続いていた。 飯隈総会所の広間に、濡れた筵の匂いと、張り詰めた殺気が満ちていた。
「肝付兼亮、動きました」
板敷きの影から音もなく進み出た道純が、低く絞り出すような声で告げた。その濡れ透けた墨染めの衣からは、肝属川の泥の臭いが立ち上っている。
「根占の禰寝重長殿が島津への内応を約し、肝付への軍役を拒絶した報せが、昨晩、高山城へ届き申した。兼亮様は激昂し、城下の評定柱を太刀で切りつけたとのこと。今朝未明、高山城の全軍に対し、禰寝討伐ならびに当高須港の完全破壊を命じる陣触れが出されました」 「敵の総数は」
崇清は手元の絵図から視線を上げずに問うた。
「陸路、西俣を経て高須の砂浜へ押し寄せる歩兵が八百。さらに肝属川の河口を埋め尽くすように、関船八隻、小早三十隻余りの船団が川を下りつつあります。都合、千二百を超える大軍にございます」 「千二百……!」
壁際で算盤を抱え込んでいた弥三郎の喉から、ひゅっと空気が漏れるような悲鳴が上がった。
「千二百って、うちの飯隈と高須の全人口より多いじゃないですか! 終わった! 根占の領主に紙切れ一枚送りつけて儲け話を持ちかけたツケが、最悪の形で跳ね返ってきたんですよ! だから言ったのに、あんな怪鳥の嘴だの竹の骨帆だの作ってるから、肝付の逆鱗に触れたんだァッ!」 「喚くな、弥三郎」
崇清は平然と薄板を指先で弾いた。
「敵が来るのは計算通りだ。禰寝がこちらの経済圏に傾けば、錦江湾の喉首を握られた肝付が軍事行動に出るのは至極当然の物理反応だ。問題は、どこで受けて、どう流すかだ」 「受けるだと?」
重厚な足音とともに、広間の入口から濡れた草摺を鳴らして入ってきたのは、本家より軍奉行として派遣されている樺山忠助だった。 その日焼けした精悍な顔には、歴戦の現実主義者特有の、冷徹な陰りが張り付いている。
「忠助殿」 「崇清殿、気は確かか」
忠助は崇清の前に膝を突くと、厳しい視線で机上の絵図を睨みつけた。
「敵は千二百、対する高須の防備兵力は、能野の水主どもをかき集めても百余り。大姶良の警固を引き抜いたところで二百に届かぬ。国分・加治木の本隊へ急使は立てたが、義久公の本隊詰衆がこの泥濘を越えて到着するまで、最短でも三日はかかるぞ」
忠助は太い指で、高須の浜を指でなぞった。
「軍奉行として進言する。高須の造船所を焼き払い、船材と白塩を破棄して、飯隈の山中へ一時退却せよ。山へ引き込めば、木崎原の時のように隘路で敵を支えられる。平地の浜で千二百を受け止めようなど、正気の沙汰ではない」
本家の重臣として、一点の落ち度もない、極めて真っ当な定石の判断だった。 だが――その進言を、嘲笑うかのような破砕音が座敷を揺るがした。 ガアンッ! 広間の引き戸を素手で押し破るようにして乱入してきたのは、島津又七郎家久だった。 肩に担いだ大太刀の鞘が、鴨居を削って木の粉を降らせる。十七歳の猛将の瞳は、血を求めてギラギラと輝いていた。
「退却じゃと!? 忠助兄上、寝言を言うな!」
家久は床板を踏み鳴らし、崇清の机の前に仁王立ちした。
「向こうから千二百もの獲物が、わざわざ首を揃えて湿地へ飛び込んできてくれたのじゃぞ! 焼き払って逃げる暇があるなら、高須の砂浜に一列に並ばせて、端から首を叩き落としてやればよいわ!」 「又七郎殿、兵の多寡が見えぬか!」
忠助が一喝する。
「木崎原とは違うのだ! あの時は義弘公の神がかりの采配と、地形の罠があった。この平坦な砂浜と川口で、十倍の敵の突進をどうやって止めるというのだ!」
二人の視線が火花を散らす中、崇清は静かに立ち上がり、壁際の道純に視線を向けた。 脳裏に蘇っていたのは、木崎原の合戦直後、焚き火の向こうで道純が語ったあの言葉だった。 『帳面に名を書かれ、扶持をもらって槍を担ぐ者だけが兵ではござらぬよ』 『山も、川も、寺も、百姓も、すべてが牙を剥く。それがこの三州の土着の理でござる』――。 あの時、崇清は己の浅薄な近代軍隊コンサル思想の傲慢を思い知らされたはずだった。 三州において、兵力比とは武士の頭数の足し算引き算ではない。
「忠助殿の仰る通り、侍だけでまともに平地でぶつかれば一刻で踏み潰されます」
崇清の静かな声が、二人の怒号を割った。
「ですが、家久兄上の言う通り、高須を捨てる必要もありません。高須は、ただの武士の出先砦ではないからです」 「なに……?」
忠助が怪訝そうに眉を寄せる。
「高須の湊は、あそこで暮らす船大工、製塩の竈を焚く女たち、魚を獲る網元、そして獅子目から荷を運ぶ駄賃付けの馬借たちが、自らの汗と生活を注ぎ込んでいる『生きて飯を食う場所』そのものです」
崇清は手元の薄板を叩いた。
「彼らは武士ではありません。ですが、肝付に湊を焼かれれば、明日から全員が干上がって野垂れ死ぬ。彼らにとってこの戦は、武士の面子の奪い合いではなく、命と生活を懸けた自衛戦争です」
崇清は広間の入口へ向けて声を張った。
「甚兵衛爺様、入ってもらえ!」
板戸が開き、広間へぞろぞろと入ってきた者たちを見て、忠助と家久は息を呑んだ。 先頭に立つのは、樫の丸太を肩に担いだ蒲生甚兵衛。 その背後には、製塩竈の煤で顔を真っ黒にした塩焚き衆の頭、能野水軍の網元たち、そして獅子目から荷馬を引いてきた屈強な馬借の代表が、血走った眼光でずらりと並んでいた。
「若君!」
塩焚き衆の頑固親父が、濡れた筵の前掛けを握りしめて叫んだ。
「高山城の肝付が、高須の竈を叩き壊しに来るってのは本当ですかい!? あの白塩の浜を焼かれたら、あっしたちの赤ん坊は泥水を啜って死ぬしかねえ! 侍の都合で浜を焼き払って逃げるなんざ、冗談じゃねえぞ!」 「そうだ!」
網元の親父も太い腕を振り上げた。
「甚五郎の頭頭が新造船で走ってから、魚の買い取りも塩の融通も目に見えて良くなったんだ! 肝付の重税に逆戻りなんざ死んでも御免だ! 鍬でも竹槍でも何でも持って出るぞ!」 「民が、自ら戦うと申すのか」
忠助が呆然と呟いた。
「戦わせるのではない。生活を守るための土木作業を発注するんだ」
崇清は手元の絵図を広げ、猪之助と現場の頭たちへ素早く指示を飛ばした。
「猪之助! 浜の男手を全員集めて、西俣から浜へ出る隘路に孟宗竹の逆茂木を十重に組め! 敵を倒す必要はない、突進の進路を横幅十間に無理やり絞り込むんだ!」 「へいッ! 職人も百姓も総出なら、半刻で青竹のトゲ林を築いてみせやすぜ!」
猪之助が歯を剥き出して飛び出していく。
「塩焚き衆の女衆と老人たちは、製塩竈の残灰と、サボン製造で余った樫の強アルカリ灰汁を大鍋で煮立てろ! 砂丘の陰に熱湯樽と灰汁樽を並べ、近づく敵へ浴びせかける準備だ!」 「合点だ! 肝付の侍どもの目ン玉を、熱い灰汁で真っ白に焼いてやるよ!」
塩焚き親父が拳を突き上げる。
「そして甚五郎!」
崇清は最後に、広間の隅で獰猛に笑っている能野甚五郎を見据えた。
「錦江湾の沿岸漁師、小舟のネットワークを総動員しろ。川口から出てくる肝付船団の動きを一隻残らず見張り、潮目と風向きの変化を旗と早船で逐次知らせろ」 「へっ、海のことなら俺たちに任せな」
甚五郎が煙管を腰に差し、立ち上がった。
「網元の小舟を三十隻、川口の葦原の影に潜ませる。肝付の関船がどの浅瀬に舵を取ろうとしてるか、丸裸にして伝えてやらあ」
指示が飛ぶたびに、広間から熱狂とともに人が駆け出していく。 兵力二百の軍勢ではない。 高須と飯隈、獅子目の生活共同体そのものが、侵略者に対して巨大な牙を剥き始めていた。
「信じられんな」
忠助は腕を組み、雨の降りしきる庭を見つめて低く息を吐いた。
「侍の手を借りず、百姓や職人、海賊がこれほどまでに整然と動くとは……。崇清殿、貴殿はいったい、この地で何を育てていたのだ」 「ただ、公正な取引で彼らに飯を食わせていただけですよ」
崇清は腰の守り刀を確かめ、薄く笑った。 遠く、肝属川の河口から、空気を切り裂く肝付軍の陣太鼓が響き始めた。 大隅の砂浜を舞台にした、生活と技術の総力戦が、いま幕を開けようとしていた。
蒲生島津にとってはここが正念場です。
次は19時投稿予定です。




