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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第4部 大隅制覇と耳川の戦い

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第57話 根占の天秤――港務所の紙片

錦江湾の東岸、大隅半島の南端に位置する根占の港務所。 南蛮や明、琉球との交易船が寄港し、古くから独自の海上利権を誇ってきたこの港は、晩秋の乾いた潮風を受けながら、異様な静けさに包まれていた。 広間の上座で、脇差の柄に手をかけたまま険しい表情で座しているのは、根占領主・禰寝重長である。 その手前には、重臣の禰寝清年をはじめとする家臣たちが、蒼白な顔で平伏していた。


「また素通りか」


重長が低く唸るように口を開いた。


「はっ。昨刻、坊津より参った大型廻船二隻、ならびに鹿児島の商人衆が仕立てた唐物船、いずれも当港へは碇を下ろさず、そのまま北へ船首を向けましてございます。高須の湊へ直行いたしました」 「これで今月に入って七度目ぞ」


重長は畳を拳で叩いた。鈍い音が板敷きを揺らす。 大隅南部において、禰寝氏は代々独立性の高い水軍領主として君臨してきた。 北の肝付氏と同盟を結びつつ、内城の島津宗家とも適度な距離を保ち、錦江湾の出入口を押さえることで巨万の関税と交易益を吸い上げてきたのだ。 だが、ここ数ヶ月でその前提が音を立てて崩れ去りつつあった。


「高須へ潜入させた手の者の報告はどうなっておる」 「は、こちらに」


清年が懐から取り出したのは、一枚の薄い和紙だった。 上質な楮で漉かれ、寸分の狂いもなく墨で罫線が引かれた、飯隈総会所製の「入出津突き合わせ表」の写しである。 そこに記されていたのは、脅迫でもなければ、臣従を促す口上でもない。 ただ、根占と高須の港における荷の出納と差益を冷徹に並べ立てただけの、極めて簡潔な数字の羅列だった。


『高須湊・直近月次取扱一覧 一、極上白塩:月産八百石(歩留まり九割三分、雑味なし、即日完売) 一、油抜き乾燥木材:クスノキ・スギ百二十本(歪みなし、船材用) 一、孟宗竹材ならびに竹炭:五百束(高火力、鍛冶・精錬用) 一、黒豚塩漬肉・固形油:二百樽(長期保存用兵糧) 備考:上記諸物、内城蔵役所の公認印ならびに京都烏丸の取扱手形により、関税免除にて通過』


重長は眉間を指で揉みほぐしながら、穴が空くほどその紙片を見つめた。 なんだ、この数字は。 根占の塩田で焼いている塩は、黒く湿り気があり、苦汁が多く混ざっている。日持ちがせず、商人たちも買い叩いていく。 だが、高須から出てくる塩は、雪のように純白で、湿気ることなく日向や豊後まで運べる極上品だ。価格は根占の塩の倍近い値がつくにもかかわらず、上方や博多の商人が競い合って銀を積んでいく。 木材もそうだ。 根占の山から切り出した生木は、船に使えばすぐに反りや割れが生じる。だが、高須のクスノキは飯隈工房の竈蒸気と灰汁で油抜きされ、狂いが生じないよう徹底して乾燥・規格化されている。船大工たちにとって、これほど扱いやすい材はない。 さらに、紙片の末尾には、根占港が現在直面している冷酷な計算が、余白にさらりと書き添えられていた。


『根占湊における現状試算: 肝付氏への軍役負担:年間米五百石、水主百名供出。 錦江湾北部航路の封鎖に伴う入港税減収:前年比六割減。 高須—根占間の通商協定(相互関税免除)を締結せる場合の見込み差益:年間銀三十枚以上の黒字へ転換』


「若造めが」


重長の手が、微かに震えた。 書状を寄越した蒲生島津の崇清は、重長に対して「頭を下げろ」とは一言も言っていない。 「島津につかねば攻め滅ぼす」という武威の誇示も一切ない。 ただ、「肝付に従って海を塞がれ、軍役で擦り減らされて干上がるか。それとも、高須の物流に乗って莫大な富を分かち合うか」という、逃れようのない現実の天秤を目の前にポンと置いただけなのだ。


「殿……」


清年が苦渋に満ちた声を絞り出す。


「高山城の肝付兼亮様からは、先刻も督促の使者が参りました。『島津の小倅が高須で不穏な軍船を造っておる。根占の水軍全船を率いて肝属川河口へ出陣し、高須港を焼き払え』と……」 「焼き払えると思うか、あの港を」


重長は吐き捨てるように言った。


「は?」 「能野甚五郎の早船群を見たのであろう。あの竹の骨を張った奇妙な帆船は、向かい風の中を信じられぬ速さで駆け抜けるのだぞ。錦江湾の潮を読み切った海賊どもが、あの船に乗って高須の沖を固めておるのだ。我が方の鈍重な関船で押し寄せたところで、火矢の的になるのが落ちよ」


重長は立ち上がり、開け放たれた窓から南の海を見つめた。 それだけではない。 三日前、内密に奥向きへ届けられた高須からの進物がある。 純白の和紙に包まれた極上塩とともに、冷たい竹筒に収められていた、あの白く柔らかな菓子――「かるかん」だ。 あれを一口食した正室と娘は、まるで何かに憑りつかれたかのように感涙し、いまや毎日のように重長の袖に縋り付いてくる。 『あの清らかな甘露を運んでくださるお方と、なぜ戦わねばならぬのです』 『高須の塩を止められれば、領内の民も、城の台所もたちまち立ち行かなくなります』と。 武力による威圧なら、武士の意地で跳ね返すこともできた。 だが、崇清が仕掛けてきたのは、民の胃袋と、商人の算盤と、奥向きの女たちの心を根底から絡め取る「生活の実利」という名の見えない鎖だった。


「清年」 「はっ」 「肝付様への返答は引き延ばせ。『風が荒く船団を出せぬ』『水主の間に疫病が流行った』とでも言っておけ」 「しかしそれでは、兼亮様のお怒りを買いますぞ!」 「怒らせておけ」


重長は紙片を握り潰すことなく、丁寧に折り畳んで自らの懐へと収めた。


「戦う前から銭の出入りで負けておるのだ。これ以上、死に体の肝付に付き合って、一族もろとも海に沈む義理など我が禰寝家にはない。高須の蒲生又八、いや、島津崇清殿へ密使を立てよ」


重長の瞳に、水軍領主としての冷徹な覚悟が宿る。


「『根占の湊は、明日より高須の廻船を一切妨げず、関税を免除する。ついては、高須の白塩百石と竹炭の融通を願いたい』……そう伝えろ」 「御意にございます」


家臣たちが一斉に平伏した。 刀を抜くことも、血を一滴流すこともなく。 飯隈から放たれた一枚の紙片が弾き出した数字の引力によって、錦江湾の喉元・根占が、音もなく島津の経済圏へと吸い寄せられていった。 だが――この決定的な地殻変動を、高山城の猛禽が見逃すはずもなかった。 大隅を揺るがす報復の嵐が、すぐそこまで迫っていた。

いよいよ肝付との対決は避けられなくなってきました。


次の投稿は7時です。

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