第56話 泥谷の焚き火と種子島の昔語り
高須の砂浜に夜の帳が下りると、昼間の猛烈な熱気は嘘のように引き、代わりに冷たい磯風が足首を撫で始めた。 干潟の波打ち際から少し上がった砂堆の窪みに、枯れ松の枝と船材の端材を積んだ焚き火が赤々と燃え盛っている。 パチパチと爆ぜる火の粉が、夜空の闇へと吸い込まれていく。 火を囲んでいるのは、崇清、船大工棟梁の茂平次、能野甚五郎、工兵班長の猪之助、そして影のように背後の木立に控える道純の五人だけだった。 飯隈の勝手場で豚骨の汁を浴びるように貪り食った家久と中馬重方は、今宵は大姶良寄りの警護詰所で泥のように眠りこけている。
「ほれ、若君。高須の地酒ってわけにはいかねえが、うちの連中が浜で蒸留した『ハナタレ』でさあ」
甚五郎が、孟宗竹を節で切った素朴な筒を差し出してきた。 並々と注がれた無色透明の液体から、鼻を突く強烈なアルコールの揮発香と、蒸留唐芋の甘いヤニの匂いが立ち上る。 崇清は受け取り、竹筒の縁に口をつけて小さく喉を鳴らした。 喉元を焼かれるような熱い刺激が胃の腑へと落ち、カッと身体の内側が温まる。
「強いな。だが、雑味が抜けていて悪くない」 「へっ、飯隈工房とかいう竈から漏れ出す熱を、竹の冷却管で冷やして垂らしたやつですからね」
茂平次が手斧を脇に置き、火の番をしながら焚き火の灰の中に突っ込んであった平たい石を引き寄せた。 石の上には、塩漬けの鰯と、肉厚の干し椎茸がジュウジュウと小気味よい音を立てて脂を滲ませている。高須の極上白塩の鮮烈な塩気が、魚の旨味を極限まで引き出していた。
「昼間は、散々怒鳴り散らして悪かったな、若君」
椎茸の傘にたまった熱い汁を啜りながら、茂平次がぽつりと零した。 昼間の手斧を振り回していた激気は消え、皺だらけの顔には、老船大工特有の深い疲弊と哀愁が刻まれている。
「気にするな。机の上の図面と現場の潮の差を教えてくれるのは、あんたの手斧の怒号だけだ。おかげで、竹骨帆も蒸し曲げも、ようやく船の形になった」 「形にはなったがよ……」
茂平次は竹筒のハナタレを一気に煽り、ゲホゲホと噎せ返りながら、暗い錦江湾の沖合を見つめた。 昼間、船架に据え付けられた新たな中型早船の黒々とした影が、星明かりの下で巨獣のように横たわっている。
「あっしはな、種子島の西之表で生まれたんでさあ。親父も爺様も、島津の殿様や種子島の殿様のために、何十年も船を造り続けてきた」
茂平次の節くれだった指が、砂の上に落ちていた小さな木片を拾い上げ、爪でカリカリと削る。
「だがよ、お家騒動だの、肝付との小競り合いだので、浦が焼かれた。敵の侍が火矢を射掛け、あっしたちが何年もかけて木を組み、槙肌を詰めて仕上げた極上の関船が、たった半刻で海の上で灰になりやがったんだ」
火が爆ぜ、茂平次の浅黒い頬を赤く照らす。
「侍どもは『武士の面子』だの『家格の意地』だので喚き散らし、負けそうになりゃ船を捨てて陸へ逃げ出す。だが、逃げ遅れた大工や水主は、手足を縛られて海へ放り込まれるか、砂浜で首を刎ねられるだけだ。あっしの弟も、そうやって肝属川の河口に沈められた」
隣で甚五郎が、苦い顔で火の粉を見つめ、低く吐き捨てた。
「海の上じゃ、武士の刀なんぞ屁の役にも立たねえ。潮に呑まれりゃ、大名だろうが海賊だろうが同じ土左衛門だ。なのに陸の連中は、米と土地の奪い合いばかりに目を血走らせて、船乗りを都合のいい手足としか思ってねえ」
重苦しい沈黙が、潮騒の合間に落ちた。 現場で使い潰され、故郷を焼かれ、大隅の荒磯へ流れ着いた海の男たちの、剥き出しの原怨嗟だった。 茂平次が木片を焚き火の中に放り込み、濁った、しかしどこまでも真っ直ぐな瞳で崇清を見据えてきた。
「で、若君。あんたは、本当のところ何がやりたいんで?」 「何が、とは?」 「知恵が回りすぎて気味が悪りいお方だ。飯野の鬼島津に認められ、木崎原の泥田を潜り抜けて元服し、本家の内城に乗り込んで大広間の侍どもを帳簿一つで黙らせたって風聞は、この浜にまで聞こえてきてまさあ。そんなお方が、なんでこんな吹き溜まりの浜で、煤まみれになって船を造り、豚の骨なんぞ煮てなさる」
茂平次の嗄れた声が、静かに波音を割る。
「あんたもやっぱり、この化け物みてえな船と嘴を揃えて、肝付を皆殺しにし、豊後や京の都まで攻め上って……天下でも獲るつもりかい?」
問いかけられた崇清は、竹筒を傾け、最後の一滴のハナタレを飲み干した。 そして、ふっと肩の力を抜き、小さく笑い声を漏らした。
「いや。そんなもんはいらんよ」 「あん?」
茂平次が眉をひそめ、甚五郎も怪訝そうに顔を上げた。
「天下なんて、厄介極まりない負債の塊だ。城を大きくすれば普請の手間が増え、領地を広げれば守るための兵と米が足りなくなる。大名だの天下人だのという席に座れば、年中誰かに寝首を掻かれる恐怖に怯えながら、義理と面子のために帳尻の合わない戦を続けなきゃならん。そんな不合理な生き方、御免被るよ」
崇清は立ち上がり、焚き火の明かりの外――闇に沈む高須の湊と、その向こうに広がる広大な海の輪郭を指差した。
「俺が欲しいのは、城でも土地でもない。道だ」 「道……?」
甚五郎が呟く。
「船が滞りなく走り、物資が詰まることなく流れ、誰も干上がらずに飯が食える道だ」
崇清の声は演説の熱を帯びてはいなかった。ただ、冷徹なまでに平熱で、しかし骨の髄まで通る確信に満ちていた。
「高須の塩を日向へ運び、大口の鉄を大隅へ降ろし、京の反物と南蛮の油をこの錦江湾へ引き込む。物資が正しく循環していれば、人は飢えずに済むし、無駄な奪い合いで浦が焼かれることもない。武士が面子で戦を始めるなら、その戦すら俺たちの作った補給のレールの上で走らせて、最短で終わらせればいい」
崇清は振り返り、炎に照らされた老船大工と水軍頭領の顔を見下ろした。
「茂平次、あんたたちが造った船は、武士の栄達のために沈めさせはしない。甚五郎、お前たち水主の腕を、使い捨ての肉の壁にはさせん。俺の元にいる限り、船を動かした分だけ正当な運賃と飯を保証する。ただ、それだけのために俺は算盤を弾き、からくりを作っているんだ」
夜風が吹き抜け、焚き火の炎が大きく揺らめいた。 茂平次は呆然と崇清を見上げ、やがて太い首を横に振って、口元をわなわなと震わせた。
「参ったな。天下を欲しがる武士なんざ掃いて捨てるほど見てきたが、『飯の食える道を作る』なんて抜かす若殿は、生まれてこのかた見たこともねえ」
老人は煤けた手で顔を覆い、くぐもった笑い声を漏らした。
「だがよ、悪くねえ。いや、最高だ。あっしたち職人が命がけで削った船が、ただの殺し合いの道具じゃなく、荷を運んで人を食わせるための足になるってんなら……大工冥利に尽きるってもんでさあ」
甚五郎もまた、白い歯を剥き出して獰猛に笑った。
「違いねえ。土地も城も要らねえってんなら、俺たち海賊と同じ穴の狢だ。若君、あんたがその道を敷くってんなら、俺たちの命も船も、好きなだけ使い倒しな。大友だろうが肝付だろうが、邪魔する奴がいたらその海の嘴で甲板ごとへし折ってやらあ」
契約が、血と打算を越えて結ばれた瞬間だった。 金でも恐怖でもない。 「土地を欲しがらない異質の主」が提示した、生きるための実務のレール。 そこに、根無し草の海の男たちの魂が、静かに、しかし絶対の強度で錨を下ろした。 背後の闇の中で、道純が静かに頭を垂れ、懐から取り出した密書を崇清へ差し出した。
「崇清様。根占の禰寝重長より、内密の動きが掴め申した」
焚き火の明かりの下、崇清は密書を受け取った。 海の男たちとの絆を固めた高須の浜に、次なる一手――大隅南部を無血で呑み込む「経済の天秤」の時間が迫っていた。
ここんとこ内政ばかりでしたが情勢が動き始めます。
次は19時投稿予定です。




