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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第4部 大隅制覇と耳川の戦い

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歳久外伝『白き石の外交録』第3話 大友の金銀と公家町の香気

永禄十一年(一五六八年)秋。

足利義昭を奉じた織田信長の上洛によって、京の都の秩序は一変した。

三好三人衆を追い落とし、都の治安を取り戻した織田の威光が畿内を席巻する陰で、島津にとって最大の激震が走る。

室町幕府の再興に与しなかった関白・近衛前久が、信長との確執の末に都を出奔し、越後へと下向してしまったのだ。

「前久様が都を落ちられたか」

鹿児島・内城の政所にて、三十一歳を迎えた島津歳久は、届いた飛脚の報せを前に白檀の扇子を握りしめていた。

島津家が朝廷へアクセスするための最大の太いパイプが、一夜にして京都から消え失せた。

さらにその間隙を突くように、北九州の巨頭・大友宗麟が牙を剥く。

博多を掌握し、南蛮貿易の膨大な富と勘合貿易の利権を握る大友家は、上洛した信長および新将軍・義昭へ惜しげもなく黄金と名物茶器を注ぎ込んでいた。

その目的は一つ――朝廷と幕府の権威を使い、島津を「私戦を好む不当な侵略者」として縛り上げ、停戦の御内書や私戦禁止の綸旨を引き出すこと。

「金吾様、また義昭公よりの使者が届きましてございます!」

内城の廊下を、悲鳴のような足音が駆け抜けてくる。

「『日向・大隅における合戦を即時停止せよ』との上意! もし背けば、天下の大友・毛利を差し向けて島津を逆賊と見なす、と……!」

「豊後の宗麟め。博多の銭に物を言わせ、都の権威を丸ごと買い叩きおるか」

歳久は冷徹に吐き捨てた。

南蛮貿易の金銀の総量において、当時の島津は大友の足元にも及ばない。

このままでは、中央の外交戦において完敗し、島津は九州の片隅で孤立無援の立場へと追い落とされる。

だが――大友の金銀攻勢には、目に見えぬ死角があった。

宗麟が巨額の金を注ぎ込んだのは信長と将軍義昭、そして武家寄りの一部公家のみ。

日々の生活に困窮し、相次ぐ戦乱の埃と油気にまみれ、着物の手入れもままならぬ宮中の奥向き――実務を回す女房衆や堂上公家の生活そのものは、武家どもの都合で置き去りにされていたのだ。

「くぐり衆を呼べ」

歳久は扇子を静かに下ろした。

「前久様は都を離れられたが、烏丸の近衛邸には老女房衆や留守居の家臣が残っておる。木箱を用意せよ。北の丸の又八が作った極上の椿サボン五十個じゃ。手紙を添えて、直ちに都へ運ばせよ」

サボンの木箱は、瀬戸内の海賊船を抜け、山城の公家町へと密かに運び込まれた。

かつて前久を通じてサボンの奇跡を知っていた近衛邸の老女房衆は、木箱を開けた瞬間、樟脳とハッカの清冽な芳香に感涙したという。

彼女たちは、その白い奇跡を独り占めにはしなかった。

関白不在の近衛家を守るため、宮中の女房たち、果ては帝の身の回りを世話する女官たちへ、惜しげもなく白き石を配ったのだ。

その結果は、政治の表舞台ではなく、「宮中の手続きの隙間」に現れた。

大友が金を積んでどれほど迅速に綸旨の裁可を迫ろうとも、書類を扱う御所の取次ぎや奥向きの手が、目に見えて鈍くなったのだ。

大友の使者は、銭をちらつかせるばかりで礼儀を弁えぬ。

それに引き換え、遠国・薩摩の島津殿の心遣いはいかばかりか。

あの清らかな白石の泡立ちと香気。肌の荒れもすっかり引いて、宮中がどれほど救われたことか。

女房たちに政治を覆す権力などない。

だが、書類を帝の御前に運ぶのを「吉日を選び直す」と称して引き延ばし、大友の取次役の武士を待合で半日待たせ、上奏の場にほんのわずかな「ためらいの空気」を漂わせることはできた。

宮中の人的ネットワークが「大友の言い分を積極的に通してやる理由」を失ったのだ。

手続きの節々に生じたこの微小な摩擦の連鎖によって、大友が狙った迅速な島津討伐綸旨は、決定的な速度を奪われて棚上げ同然の宙ぶらりんに追い込まれた。

内城の政所にて、歳久は都の潜入員からもたらされた報告を読み、薄く口端を吊り上げた。

「ふむ。金銀を積むだけでは動かぬ現場の呼吸を、たった五十個の石鹸が掴んだか。又八め、恐ろしい小細工を仕掛けてくれたものよ」

だが――その微かな満足は、一刻と持たなかった。

膝の上に広げられた別の報告書――堺の豪商や織田家臣の動向を記した紙片を見つめるうちに、歳久の双眸から笑みが完全に消え去った。

「いや。こんなもので、勝てるはずがない」

歳久は扇子を強く握り締め、冷たい吐息を吐き出した。

自嘲の滲む、苦い表情だった。

宮中の女房衆がどれほど書類の手続きを滞らせようと、それは所詮「時間の引き延ばし」にすぎない。

大友宗麟は今や、信長と義昭という天下の実力を直接その懐に抱き込んでいるのだ。

信長が一声命じ、将軍の御内書が正式に下れば、女房どもの引き延ばし工作など紙屑のように吹き飛ぶ。

生活用品の恩義や宮中の香気ごときで、万の軍勢と天下の軍事力学そのものをねじ伏せられるはずがないのだ。

サボンは効く。だが、あくまで局所の麻酔にすぎぬ。

薩摩から船を出し、堺を経て都へ届くまでに早くて一月、時化や関所の混乱があれば二月、三月と日数が溶けていく。

信長が上洛して以降、中央の情勢は日単位で激変しているのだ。

一月前の密書など、届いた時にはすでに反故同然。

大友は博多から早船を飛ばし、信長や幕府の中枢に常に人を張り付かせ、即座に手を打ってくる。

サボンという最強の札がありながら、都に常駐の目と手がない。このままでは、いずれ大友の圧倒的な速さと武家権力に呑み潰されるぞ。

歳久の怜悧な頭脳は、この外交戦に勝つための唯一の絶対条件を弾き出していた。

すなわち――京都に島津の常駐拠点を置き、日々情報を吸い上げ、即座に中央の首脳へ札を切れる出先機関を構えること。

だが、その構想の前に、本家最強の算盤が冷酷に立ちはだかることになる。

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