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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第4部 大隅制覇と耳川の戦い

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歳久外伝『白き石の外交録』 第2話 陽明文庫への密書と白い手土産

永禄八年(一五六五年)初夏。

京の都は、底冷えのするような不穏な空気に覆われていた。

室町幕府十三代将軍・足利義輝と三好三人衆の暗闘はいよいよ臨界に達し、公家町を吹き抜ける風には、いつ戦火が爆ぜてもおかしくない火薬の匂いが微かに混ざり合っている。

その騒乱の巷から築地塀一つ隔てた五摂家筆頭、近衛家の屋敷。

上段の間に端座する当代の関白・近衛前久(当時三十歳)は、眉間に深い皺を寄せ、投げ出すように文机へ肘をついた。

公卿の頂点に立つ類まれな気品を纏いながら、鷹狩を愛し、馬を駆ることを好む異端の公家武人。だが連日続く将軍側近と三好の調停、朝廷の空っぽな金口を巡る心労が、若き関白の端正な面輪をひどくやつれさせていた。

「前久様。薩摩の島津修理大夫貴久殿より、例年の定期進物が到着仕りましてございます」

平伏した老女房が、衣擦れの音を立てて声をかける。

「薩摩か」

前久は気怠げに吐息をこぼした。

近衛家にとって島津は、旧領・島津荘の下代の末裔にすぎぬ。都の権力闘争に莫大な銭が溶けていく前久にとって、遠国からの送金や砂金はありがたい命綱ではあったが、添えられる進物は無骨な太刀や使い古しの鎧ばかり。都の雅とは程遠い泥臭さに、興趣をそそられたことなど一度としてなかった。

「また太刀か、馬具であろう。蔵へ納めておけ」

「それが、殿。例年の太刀や砂金の木箱とは別に、三男の金吾歳久殿より直々の私信と、見慣れぬ小箱が添えられておりまして」

「歳久? 修理大夫ではなく、あの怜悧と噂される三男がか」

前久が顎をしゃくると、女房が恭しく桐の小箱を差し出した。

蓋を開けた瞬間、前久の鼻腔を、かつて嗅いだことのない清冽な芳香が貫いた。

沈香でも白檀でもない。

胸の奥の澱みを一瞬で吹き払うようなクスノキの樟脳、そして涼やかなハッカの香気。

敷き詰められた白絹の上には、長方形に美しく切り揃えられた、乳白色の滑らかな塊が三つ、整然と収まっていた。

「何じゃ、これは。香木か? 練り香の類いか?」

「文によれば、南蛮の秘薬『サボン』を、薩摩のヤブツバキの油と霊木にて練り固めた『手洗い石』との由にございます。水にて泡立て、肌の脂と汚れを洗い清めるものとか……」

「石で肌を洗う? 戯言を」

前久は眉をひそめたが、指先が触れた瞬間、言葉を失った。

吸い付くように滑らかで、しっとりとした重み。

南蛮船が堺に持ち込む石鹸の噂は前久の耳にも届いていた。だが、あれは牛や羊の脂臭さが鼻を突き、肌が赤く爛れる粗野な異人の慰み物と聞く。

目の前にある白い塊には、獣の臭みなど微塵もなかった。

「女房、湯殿に湯を張れ」

張り詰めた政争の気晴らしに、前久は立ち上がった。

半刻後。

湯殿の白い湯気の中で、近衛前久は自らの掌を見つめたまま、完全に硬直していた。

濡らした手でその白い塊をひと撫でし、軽く擦り合わせただけで起きた異変。

きめ細やかな、まるで降り積もる新雪のような純白の泡が、音もなく両手を覆い尽くしたのだ。

立ち込める蒸気の中に、清冽な樟脳とハッカの香気が満ちていく。

顔を洗い、湯で流す。

手拭いで水気を拭い取った瞬間、かつて経験したことのない衝撃が全身を貫いた。

都の政争でこびりついていた油垢と汗の不快感が、跡形もなく消え去っている。

それなのに、肌がつっぱるどころか、極上の薄絹を纏ったかのように、しっとりと潤いを帯びて吸い付いてくるのだ。

鏡を覗き込むと、湯上がりの自らの顔筋が、生まれ変わったかのように白く澄み渡っていた。

「な、何じゃこれは……!」

前久の喉から、掠れた呻きが漏れた。

「南蛮の石鹸など足元にも及ばん……! これは、天上の雪か? 清めの神水か……!?」

その狂乱は、前久一人にとどまらなかった。

前久が残る二つのうち一つを北政所へ下げ渡したその日の夕刻、近衛邸の奥向きは蜂の巣をつついたような騒動に発展した。

「前久様! あれは一体どこでお求めになられたのです!?」

「顔のくすみが消え、髪の油気が清らかに落ちました!」

「残りをお分けくださいまし! 宮中の女房衆にも見せねばなりませぬ!」

白粉の鉛毒と、湯浴みの機会の少なさによる皮膚の荒れ、髪の油気の匂いに日夜悩み続けていた公家町の女性たちにとって、この「純白の椿サボン」は、まさに神仏の奇跡そのものだった。

噂は瞬く間に築地塀を飛び越え、禁裏御所の女房衆、果ては正親町天皇の側近たちの耳にまで届き、

「近衛の殿が、天上の香りがする白き清め石を持っておられる」

と、宮中中がその奪い合いに狂奔し始めたのだ。

一ヶ月後。

薩摩・内城の政所にて、島津歳久は届いたばかりの一通の密書を広げていた。

送り主は、関白・近衛前久。

通常、遠国の在地武士など虫けら同然に見下し、無味乾燥な定型文しか寄越さぬあの尊大極まる天下の関白が、自らの筆で、墨も濃やかに、紙背を突き破らんばかりの熱量で書き殴っていた。

『先般の白き石、まことに奇異の至宝。奥向きの女房どもが狂気配にて奪い合い、禁裏よりも催促の沙汰あり。ついては金吾殿、次の定期進物を待たず、至急十箱……いや、あるだけ送られたし。代価はいかようにも取り計らうべし』

読み終えた歳久の薄い唇の端が、静かに、そして冷酷に吊り上がった。

白檀の扇子をパチンと閉じ、畳を軽く叩く。

「落ちおったわ」

五歳の又八が差し出してきた、あのサボン。

手負いの兵の傷毒を消し去ったあの白い泥石が、今度は都の頂点に君臨する関白の喉元に、見事な毒針となって突き刺さったのだ。

大名が何千の兵を動かし、どれほど黄金を積み上げようと、公家どもの冷たい侮りを解かすことはできぬ。

だが――たった一個の「生活の快楽」が、男の虚栄と女の情欲を完璧にハックし、天下の関白を薩摩からの荷を待ち焦がれる物乞いへと成り下がらせた。

「生活嗜好品は、時に一万の軍勢を超える……か」

歳久は呟き、窓の外の青空を見上げた。

北の丸の日陰屋敷で、今も無心に泥をこね、油を絞っているはずの五歳の又八。

あの小倅の背後にいる老獪な黒幕は、ここまで計算して儂にこれを預けたというのか。

背筋を這い上がる戦慄を抑え込みながら、歳久の瞳は、さらに遠く――天下の政争が渦巻く京都の暗雲を冷徹に見据えていた。

外交の主導権を握るための絶対の切り札が、いま島津の手中に握られたのだ。

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