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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第4部 大隅制覇と耳川の戦い

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歳久外伝『白き石の外交録』 第1話 五歳の泥石と手負いの傷口

永禄六年(一五六三年)初夏。 鹿児島・内城の政所は、初夏の湿気と墨の饐えた匂いに満ちていた。 畳の上に端座する島津金吾歳久――当時二十七歳は、手元に積まれた帳簿の山から顔を上げ、冷たい双眸を目の前の木箱へと落とした。 白檀の扇子を握る指先が、わずかに止まる。


「これが、北の丸の又八が差し出してきた品か」 「はっ」


平伏する目付役が、額を擦り付けるようにして答えた。


「北の丸の小倅が、父上・貴久公の御前にて直々に差し出されたものにございます。油と木灰を練り固めた泥石にすぎぬと役人どもは嘲笑っておりますが、公はなぜか金吾様にこれの検分と差配を一任せよと」


木箱の蓋を開けると、中には長方形に切り揃えられた、乳白色の滑らかな塊が数十個、整然と並んでいた。 表面には「サボン」と、拙い仮名交じりの文字が刻まれている。 南蛮船が平戸や堺へ運んでくる、あの途方もない高値で取引される舶来の秘薬――石鹸に酷似していた。 だが、歳久の怜悧な鼻腔を突いたのは、南蛮品特有のあの吐き気を催すような獣臭ではなかった。 南蛮石鹸は牛脂や羊脂を煮固めたものであり、長旅の湿気と熱を吸って饐え、鼻を覆いたくなるような脂の腐臭が混ざるのが常だ。 しかし、目の前にある白い石から立ち上っていたのは――清涼極まりない、クスノキの樟脳の香りと、爽やかなハッカの芳香だった。


「南蛮渡来の石鹸を、内城の日陰屋敷に閉じ込められた五歳の又八が、己の手で作り上げただと?」


パチン、と歳久の膝の上で白檀の扇子が鳴った。


「狂言じゃ。そのような話、誰が信じるか」


五歳の小倅が、自ら油を絞り、灰汁の調合を計算し、型に流し込んで切り分けるなどあり得ない。 蒲生の残党か、あるいは城下に潜り込んだ怪しげな商人、果ては他国の間者。 北の丸の母子を神輿に担ぎ、島津の懐へ怪しげな利権をねじ込もうとする「老獪な何者か」が糸を引いているに違いない。 だが、父上は儂にこれを預けた。ならば、使い道を確かめるのが先決よ。


数日後。 歳久は少数の供回りを連れ、大隅・肝付との最前線に近い、高山口の救護小屋へと足を運んでいた。 立ち込めるのは、血と膿の混ざり合った濃厚な死臭だった。 筵を敷いただけの土間に、槍で突かれ、刀で斬り裂かれた足軽や手負いの武士たちが折り重なるように倒れ伏している。 傷口は赤黒く腫れ上がり、蛆が湧き、傷熱の苦悶に呻く男たちのうわ言が、小屋の薄暗がりを満たしていた。


「薬師、現状はいかがじゃ」


歳久が敷居を跨ぐと、血まみれの布を抱えた老薬師が、青ざめた顔で平伏した。


「金吾様……手立てがございませぬ。刃傷を受けた者の半数は、二日と経たずに傷口が腐り、高熱を発して果てていきます。傷口に焼酎を吹きかけ、塩を擦り込み、護符を貼って祈祷を捧げておりますが、化膿の毒を止める術はございませぬ」


戦国の戦場において、真の脅威は敵の刃そのものではない。 刃が持ち込む泥や油の汚れが、傷口を腐らせて命を奪う「傷毒」――創傷感染症だった。 どれほど剛勇の士であっても、手足をわずかに斬り裂かれただけで、数日後には傷口から悪臭を放ち、あっけなく命を落とす。兵の損耗率は、常に島津の財政を苛み続けていた。


「これを使え」


歳久は、腰元から布包みを取り出し、薬師の前に放り出した。 現れたのは、北の丸の童が作った、あの白い泥石だった。


「は……? これは、南蛮の薬石にございますか?」 「薬ではない。泥石じゃ。井戸水を汲み、手負いの兵の傷口を、この石の泡で徹底的に洗い清めよ。泥も、血糊も、付着した脂も、一切残さず洗い落とすのじゃ」 「め、滅相もございませぬ!」


薬師が悲鳴を上げた。


「手負いの傷口に水をつけるなど、傷を冷やして命を縮める禁忌にございます! ましてや怪しげな泥を塗り込むなど――」 「戯言を抜かすな」


歳久の声が、氷点下の冷徹さで小屋の空気を凍りつかせた。


「祈祷と焼酎で兵が死に続けておるのなら、貴様のやり方はすでに破綻しておる。四の五の言わずに洗え。逆らう者は、この場で儂が首を撥ねる」


薬師は震え上がり、慌てて井戸水を汲ませた。 白い石を水の中で擦り合わせると、驚くべきことが起きた。 見る見るうちに、雪のように細かく純白の泡が沸き立ち、薬師の節くれ立った掌を覆い尽くしたのだ。 清涼な樟脳の香りが、救護小屋の死臭を一瞬にして払拭していく。


「あ、熱くねえ……!?」


最初に傷口を洗われた足軽が、目を白黒させて呻いた。 槍で深く抉られた太刀傷に白い泡が乗せられ、清水で洗い流される。 焼酎を吹きかけられた時のように身悶えする激痛はなく、むしろ腫れ上がった患部の熱がすっと引いていくような感覚。 結果は、数日のうちに、残酷なまでの数字となって現れた。 泡と清水で徹底的に傷口を洗浄された三十名の負傷兵のうち、傷口が化膿して高熱を発したのは、わずかに二名。 残る二十八名は、腫れが急速に引き、肉芽が盛り上がり、十日と経たずに歩行を取り戻したのだ。


「化け物か……」


救護所の縁側に立ち、快復していく兵たちを見下ろしながら、歳久の背筋に冷たい戦慄が走った。 ただの汚れ落としではない。 これは、戦国において最も貴重な資源である「鍛え上げられた兵の命」を、驚異的な歩留まりで現場へ繋ぎ止める、恐るべき戦略資材だった。 童の母を喜ばせるための小遣い稼ぎなどという規模では断じてない。 やはり、又八の背後に何者かがおる。 歳久は即座に、手飼いの忍び――「くぐり衆」の頭目を呼び出した。


「北の丸の又八の屋敷を洗え。昼夜を問わず見張り、あの童に接触する者を一人残らず洗い出すのじゃ。床下、天井裏、城外の商人との交わり、すべてを暴け」


しかし。 半月後、くぐり衆の頭目が持ち帰ってきた報告は、歳久の怜悧な知性を激しく困惑させるものばかりだった。


「報告いたします。又八様の屋敷を見張りましたが、不審な者の出入りは一切ございませぬ」 「何じゃと? 商人や蒲生の残党が出入りしておるはずじゃろうが」 「出入りしているのは、落城後に城下で野良仕事をしております蒲生の老武士・甚兵衛と、その孫の弥三郎のみにございます」 「その甚兵衛なる老武士が、黒幕の軍師か?」 「滅相もございませぬ」


忍びの頭目は、真顔で首を横に振った。


「甚兵衛なる者は、朝から晩まで裏庭で樫の丸太を振り回して素振りをしているだけの、頭まで筋肉の猪武者にございます。孫の弥三郎は、毎日小銭を数えては『胃が痛い』と縁側で泣き叫んでおります」 「では、又八は何をしておるのだ」 「泥をこねております」 「泥じゃと?」 「はっ。木灰の灰汁を布で越し、竈の灰を壺に詰め、椿の実を石で叩き潰して油を絞り……朝から晩まで、幼児の短い手足を真っ黒にして、楽しそうに泥いじりをしております」


歳久は、握りしめていた白檀の扇子を強く握り直した。 馬鹿な。足取りを一切残さぬだと? 敵の軍師は、くぐり衆の目すら欺き、五歳の童に「泥遊びの手習い」と見せかけて、この戦略兵器を製造させているというのか。 どれほど老獪で、どれほど恐ろしい怪物が、北の丸の背後に潜んでいるのか。


「面白い」


歳久の薄い唇の端が、冷たく吊り上がった。


「名を明かさぬなら、それでもよい。この至宝、島津の外交の刃として、儂が余すところなく使い倒してやるまでよ」


歳久の冷徹な瞳の奥で、後の天下を揺るがす「白き石」の外交戦略が、静かにその歯車を噛み合わせ始めていた。


ランキング躍進記念・2日間6話更新!


いつもお読みいただきありがとうございます。本当に皆様のおかげです。こんな事が自分の作品に起こるなんて今でも信じられないです。

9月20日朝時点

月間・異世界転生/転移(連載中):46位

週間・歴史(連載中):17位

週間・異世界転生/転移(連載中):18位

月間・歴史(連載中):57位

四半期・異世界転生/転移(連載中):84位

年間・異世界転生/転移(連載中):219位

特に週間で歴史17位、異世界転生/転移18位は

とても嬉しいです。


ランキング自己最高記録更新を記念して、9月21日・22日は1日3話更新します。


7:00/12:00/19:00


の1日3回更新です。


普段より少し多めの『蒼溟の覇王』を、どうぞお楽しみください。


それでは、本編をどうぞ。

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