第50話 監査役の来訪と冷えた甘露
獅子目の台所で家久が「黄色い泥を樽で食わせろ!」と喚き散らした翌朝、飯隈総会所には、前日の喧騒が嘘のような底冷えのする静寂が落ちていた。
晩夏から初秋へと移ろう乾いた風が、平野の雑木林をかすかに揺らす。
板敷きの中央に据えられた粗末な文机の上には、高須造船所の資材出納帳と、飯隈工房の竹炭・塩・兵糧の移動目録が几帳面に並べられていた。
その前に、一人の男が端座している。
島津金吾歳久――三十五歳。
濃紺の直垂を乱れなく着付け、膝の上には白檀の扇子。
剃り上げた青い月代と、怜悧に細められた涼やかな双眸。義弘のような威圧の化粧もなければ、家久のような荒々しい野性味もない。だが、その佇まいが醸し出す気配は、抜身の剃刀そのものだった。
「若君、いや崇清様」
部屋の隅、影に隠れるように控えていた弥三郎が、脂汗の浮いた顔を小刻みに震わせながら、蚊の鳴くような声で囁いてきた。
「本家の三男坊様が、なんで供回りたった三騎でこんな吹き溜まりに来るんですかい。しかも、あの目……完全に帳簿の裏金を嗅ぎつけた国税の査察官の目ですよ。俺、もう胃の粘膜が溶けてなくなっちまいそうです」
「黙ってろ弥三郎。余計なことを言うな」
俺――島津崇清は、十四歳の姿勢を正し、板敷きに両手を突いて頭を垂れた。
歳久の来訪は、完全な抜き打ちだった。
表向きの口実は「大隅方面の兵站および防備状況の検分」。
だが、その真の狙いが別にあることくらい、前世で幾度となくクライアントの内部監査に立ち会ってきた俺には痛いほど察しがついていた。
木崎原の勝敗が決し、俺に『崇清』の名が与えられて大隅へ縛り付けられた直後だ。
加久藤城の搦手で起きたこと、そして大隅へ戻るや否や「種子島崩れの水軍衆を抱え込んだ」「シラス台地に得体の知れない草を植えている」という報告。
本家の最高知性であるこの男が、自分の目で確かめに来ないはずがなかった。
「木崎原では、実に見事であったな、崇清」
歳久の口から、冷水のように滑らかな声が落ちてきた。
白檀の扇子が、文机の上の帳簿をトン、と静かに叩く。
「川上忠智や新納忠元の注進状を読んだ。大隅の孟宗竹束で隘路を塞ぎ、敵三千の足を止めたと。兄上は『あいつは化け物じゃ』と笑うておられたがな」
歳久の切れ長の目が、ゆっくりと俺の顔に向けられた。
笑みはない。冷徹な鏡のように澄んだ瞳が、俺の頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように射抜く。
「だが、解せぬのだ。そなたは大隅へ戻るや否や、能野甚五郎なる浦崩れの水軍衆と船大工二百人を丸ごと抱え込み、高須の河口に造船所などという異様な船溜まりを築いた。さらに、シラスの痩せ地に南蛮の草を植え散らかしておると聞く」
パチン、と扇子が鳴った。
「亡き父上が遺された言葉がある。『島津の枠の内におる限りは重用せよ、だが一歩でも枠を踏み越えるなら、その首を刎ねよ』とな。そなたのその手練手管、蒲生の残党による私兵の育成か。それとも――十年前、内城の奥向きでサボンを持ち込んできた折から、そなたの背後に蠢く見えざる何者かの差し金か?」
張り詰めた沈黙。
弥三郎が「ひっ」と息を呑み、畳に額を擦り付ける音が聞こえた。
貴久公が、そんな遺言を残していたのか。
背筋に冷たいものが走る。だが、それ以上に得心がいった。
なぜ本家が自分を警戒しつつも使い倒そうとするのか、なぜ歳久の目がここまで底冷えしているのか。
十年前、俺が五歳児だった頃に内城でサボンを差し出したあの日から、歳久はずっと俺の背後に「老獪な軍師」や「他国の間者」の存在を疑い続けていたのだ。
だが――俺は動じない。
ここで理屈を並べて弁明すれば、かえってこの男の疑心暗鬼を深めるだけだ。
分析官タイプの人間を落とすには、言い訳ではなく、「分析不能な事実」をいきなり喉元へ突きつけるに限る。
「兄上のお疑い、ごもっともにございます」
俺は静かに上体を起こした。
「ですが、遠路はるばる大隅の山越えをしてこられたのです。まずは、高隈の深山と飯隈の台地がもたらした冷たい甘味で、喉を潤していただきとうございます」
「甘味?」
歳久がわずかに眉を寄せた。
「儂は茶会に来たのではないぞ」
「茶ではございませぬ。ちよ、持ってまいれ」
俺が声をかけると、控えの板戸が静かに開き、ちよが朱塗りの盆を捧げ持って進み出てきた。
盆の上には、深井戸の底に半日沈めてキンキンに冷やしておいた、青竹の器。
そして、その中に鎮座しているのは――昨日の試作からさらに配合を整えた、「冷製かるかん」だった。
自然薯と米粉を合わせ、雪のように白く蒸し上げたかるかんの生地。
その真ん中に包丁を入れ、井戸水で冷やして極上の粘りと艶を出した「黄金のカスタードクリーム」が、惜しげもなくたっぷりと挟み込まれている。
竹筒から立ち上る、竹の清涼な青い香りと、冷気の中でなお濃厚に漂う卵と砂糖の甘い芳香。
歳久の鼻腔が、微かにピクリと動いた。
「何じゃ、それは」
「かるかんにございます。高隈の山奥で掘らせた自然薯と、極上の米粉、そして南蛮船から買い付けた砂糖で蒸し上げました。挟んでおりますのは、地鶏の卵黄と豆乳を極限まで練り上げた、黄金の羹でございます」
歳久は、無言のまま青竹の器を見つめた。
毒見役の供回りが前に出ようとしたが、歳久は扇子をわずかに挙げて制した。
「よい。五歳の頃、儂にサボンを差し出した時と同じ目をしおる。毒など盛るような下策、この小倅が使うはずもあるまい」
歳久は竹の箸を取り、冷えた純白の塊を一切れ、静かに挟み上げた。
指先に伝わる、吸い付くようなもっちりとした弾力。
そして、箸を口元へと運び――躊躇うことなく、その唇を開いた。
シャク、と微かな音がした。
前歯が純白の生地を断ち切り、中の冷たい黄金色が舌の上へと滑り込む。
その瞬間。
三十五歳の冷徹な軍師の動きが、完全に停止した。
扇子を握っていた左手の指先が、ぴくりと硬直する。
涼やかだった細い双眸が、信じられないものを見るかのように、じわりと限界まで見開かれていく。
咀嚼する顎の動きが、一度止まり、二度止まり――そして、喉仏がごくりと大きく上下した。
静寂。
部屋の中には、ただ外の風が鳴らす梢の擦過音だけが流れていた。
やがて、歳久の震える右手が、器の中に残っていたもう半分のかるかんを、まるで何かに憑りつかれたかのような手つきで箸でつまみ、口の中へ放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼し、二度目の嚥下。
ふぅ、と。
歳久の唇から漏れ出たのは、感嘆とも戦慄ともつかぬ、深く重い吐息だった。
「何だ、これは」
嗄れた、低く掠れた声だった。
歳久は白檀の扇子を畳に落としそうになりながら、自らの掌を見つめた。
「噛めばもっちりと雪のように軽やかにほどけ、中の黄色い泥が、冷え切った舌の上でとろりと溶け、爆ぜるような甘みと油のコクが脳を揺さぶる。砂糖の鋭い甘みではない。卵の脂と、豆の旨味か? 何重にも絡み合いながら、後味は驚くほど清々しく消えていく……」
歳久の視線が、器から俺の顔へと跳ね上がった。
その眼光には、先刻までの疑惑を遥かに超えた、知性ゆえの恐怖が宿っていた。
「崇清。そなた、これをどこで手に入れた。南蛮船か? 明の密貿易か? それとも、都の関白家ですら秘匿しておる禁裏の秘法か!?」
「いいえ。昨日の昼、獅子目の台所で俺が自ら鍋をかき混ぜて作らせた、ただの手慰みにございます」
俺が事も無げに告げると、歳久は絶句した。
「手慰みじゃと……!? 馬鹿な! このような菓子、京の都はおろか、天下広しといえど何処にも存在せんぞ! これを一口口に運んだだけで、宮中の公家どもや、奥向きの女房衆が何を言い出すか……貴様、その恐ろしさが分かっておるのかッ!」
「分かっておりますよ、歳久兄上」
俺は薄く笑い、懐から一枚の和紙を取り出した。
そこには、墨で引かれた大雑把な「京の都・公家町」の周辺図が描かれていた。
「だからこそ、兄上にお見せしたのです。この至高の甘露を使って、大名が十年かけても作れぬ天下最強の出先機関を、京の都に現出させる策を」
歳久の息が止まった。
冷徹な知謀の将が、一個の冷えた甘味によって、その思考回路の扉を強引にこじ開けられた瞬間だった。
板戸の外で、ちよの控えめな足音が遠ざかっていった。
晩夏の蝉の声が、遠くの雑木林から細く波のように押し寄せては引いていく。
青竹の器に残された、わずかな白い米粉と黄金色の蜜の滴。それを前にした島津歳久の眼光は、もはや尋問官のそれではなく、盤上に突如として現れた規格外の一手に立ち尽くす棋士のそれだった。
「出先機関、じゃと?」
歳久が低く呟いた。
白檀の扇子を握る指先に、微かに青筋が立っている。
「大名が十年かけても作れぬ拠点を、この甘味一つで現出させるだと? 崇清、貴様、何を企んでおる。この菓子を朝廷に持ち込み、関白家を取り込み、島津の頭越しに都の権威を握る腹積もりか? やはり、蒲生の血を引く貴様の奥底には――」
「人払いを願えますか、歳久兄上」
俺は遮るように、静かに、だが一切の揺らぎのない声で言った。
歳久の言葉が喉で止まった。
部屋の隅に控えていた弥三郎が、弾かれたように顔を上げ、血の気を引かせた。
「崇清様!? 人払いって……俺までですか!? 本家の三男坊様と二人きりなんて、万が一の時に誰が若君の証言をするんですかい! 僕ぁね、もう嫌な予感しか――」
「弥三郎、下がれ」
俺は振り返らずに命じた。
「ちよと二人で、総会所の外の見張りを頼む。誰も、たとえ家久兄上であろうと、この部屋の十間以内に近づけるな」
弥三郎は息を呑み、俺の横顔と、冷たい眼差しを崩さない歳久の顔を見比べた。
ふざけているのではないと悟ったのだろう。弥三郎は手元の帳簿を抱え込み、畳を擦るようにして音もなく立ち上がると、深々と一礼して廊下へ滑り出ていった。
外の供回りたちにも声がかけられ、やがて縁側の板戸がすべて重々しく締め切られた。
明かりの落ちた総会所。
隙間から差し込む一筋の陽光が、宙を舞う埃を照らし出している。
密室の気圧が、一段下がったように重くなった。
「弥三郎まで外したな」
歳久が扇子を膝に置き、細い目をさらに鋭く眇めた。
「実の母にも、あの忠義一徹の甚兵衛にも、片時も離れぬ弥三郎にすら話したことのない話を、この儂にだけ聞かせると申すか」
「はい」
俺は居住まいを正し、板敷きに両手を突いた。
「今から申し上げることは、天地神明に誓って、この世の誰にも明かしたことのない狂言にございます。信じていただく必要はございませぬ。ただ、歳久兄上のその鋭すぎる頭脳が、十年間見えざる黒幕を探して無駄な工数を費やし続けるのを、ここで終わらせるために告白いたします」
「黒幕の正体を、白状するか」
「白状いたします」
俺は息を深く吸い込み、正面から歳久の瞳を見据えた。
「歳久兄上。俺の後ろには、蒲生の残党も、南蛮の宣教師も、明の商人たちもおりませぬ。黒幕は、俺自身です」




