第49話 純白の餅と黄金の壺練り
真夏の高須の浜で茂平次たち船大工に怒鳴り散らされ、砂浜に木の枝で大雑把な要求仕様を叩きつけてから三日。
俺――島津崇清は、高隈山の深い緑に抱かれた獅子目の本拠へ戻っていた。
だが、頭が働かない。
執務用の板敷きに腰を下ろし、机の上に広げた高須と飯隈の資材移動台帳を見つめているのだが、墨の文字がただの黒い染みにしか見えなかった。
前世のコンサル時代にも、似たような限界症状があった。
炎上案件の現場で連日徹夜を重ね、クライアントと下請けの板挟みになって怒号を浴び続けた深夜二時。思考回路のヒューズが焼き切れ、脳味噌の表面がじりじりと痺れてくるあの感覚。
糖分だ。
俺は乾いた唇を舐め、机に両肘をついて頭を抱え込んだ。
圧倒的に、糖分が足りていない。
戦国時代の甘味といえば、干し柿、煮詰めた水飴、あるいは貴重な甘葛の汁くらいなものだ。
だが、今の俺の脳髄が悲鳴を上げて求めているのは、そんな奥ゆかしい自然の甘みではない。
もっと暴力的で、脂質と糖分が濃厚に絡み合い、舌の上でふわっとほどけて脳天に直接快楽物質を叩き込んでくるような――近代の洋菓子の甘さだった。
「若君? 崇清様? 死んでます?」
障子の隙間から、薄い算盤を片手に持った弥三郎が顔を覗かせた。
「死んじゃいねえよ」
「よかった。机の上で微動だにしねえから、高須で船大工に怒鳴られたショックで魂が抜けちまったのかと思いましたよ。で、飯隈の炭焼き窯から、木を蒸すための特大の蒸気筒を作りたいって鋳物師が泣きついてきてますが、どうします?」
「後だ。弥三郎、山へ人をやれ」
「は? 山へ? 木こりならもう手配してますが」
「違う。山芋だ。高隈の山奥に自生している、粘りの強い極上の『自然薯』を掘ってこさせろ。できるだけ太いやつだ」
「じ、自然薯……? 芋掘りですか!?」
弥三郎が目を丸くした。
「若君、このクソ忙しい合戦準備の真っ只中に、何を呑気に山菜採りなんか――」
「いいから掘ってこい! あと、蔵から一番白くて粒の細かい米粉と、琉球ルートで入ってきた上等の砂糖を持ってこさせろ! 俺の命に関わる問題だ!」
「ひぃっ、また若君の奇病が始まったよ……!」
弥三郎は頭を抱えながら、悲鳴を上げて走り去っていった。
半刻後。
獅子目の屋敷の勝手場は、異様な緊張感に包まれていた。
竈には赤々と薪が焚かれ、大鍋の湯がぐらぐらと白い湯気を噴き上げている。
「若君、自然薯をすりおろしてまいりましたよ」
鉢を抱えて小走りにやってきたのは、二十代半ばになった侍女のちよだ。母・楠御前の身の回りを世話する彼女の丸顔は、竈の熱気でほんのりと赤らんでいる。
すり鉢の中には、高隈の深山で掘り出されたばかりの自然薯が、雪のように真っ白なトロロとなって溜まっていた。箸を立てればそのまま倒れないほどの、凄まじい粘りだ。
その隣では、実直な侍女頭のまつが、布で丁寧に挽いた極上の米粉をざるで振るっていた。
「若君、米粉と砂糖も揃いました。ですが、この山芋と米粉を混ぜて、一体何をお作りになるのでございますか? 団子汁にしては粉が細かすぎますし……」
「団子じゃない。かるかんだ」
俺は腕まくりをして、前世の記憶を手繰り寄せた。
鹿児島を代表する銘菓、軽羹。
本来ならば、幕末の名君・島津斉彬の時代に、薩摩藩の菓子職人が考案したとされる蒸し菓子だ。
正確な配合比率など知るよしもない。だが、製法の根幹は極めて単純だったはずだ。
自然薯をすりおろし、水と砂糖を加えて徹底的に空気を含ませるように泡立て、そこに米粉をさっくりと混ぜ合わせて蒸気で一気に蒸し上げる。
ベーキングパウダーのない時代、山芋の気泡性と米粉の骨格だけで生地を膨らませる、先人たちの知恵の結晶。
「ちよ、すり鉢の自然薯に少しずつ水を加えながら、すりこぎで泡立つまで擦れ。手を休めるなよ」
「は、はいっ!」
ちよが汗を飛ばしながら、すりこぎを猛烈な勢いで回し始める。
「まつ、砂糖を三回に分けて放り込め。白く泡立ってきたら、その米粉を少しずつ振り入れて、切るように混ぜるんだ。決して捏ね回すな。せっかく抱き込んだ空気が潰れる」
「承知いたしました!」
二人の熟練の家事労働力によって、すり鉢の中に、滑らかで純白の、驚くほど軽やかな生地が出来上がった。
飯隈の孟宗竹で編んだ四角い蒸籠に濡れ布巾を敷き、そこへ生地を流し込む。
「よし、竈に乗せろ! 強火で一気に蒸し上げるぞ!」
蒸籠が大鍋の上に据えられ、濛々たる蒸気が竹の網目から噴き出した。
台所いっぱいに、山芋の素朴な野の香りと、蒸された米粉の甘やかな匂いが立ち込めていく。
「何やら、えらく甘い匂いがするのう」
板戸がからりと開き、廊下からふらりと現れたのは、母・楠御前だった。
二十代後半を迎えた今も、その佇まいは少女のように儚く、けれどかつて内城の日陰で怯えていた頃とは違い、その表情には穏やかな血色が差している。
「楠千代、台所で何をいたしておるのです?」
「母上。少し、疲れたので菓子を試作しておりました」
俺が照れ隠しに頭を掻くと、母は嬉しそうに目を細めた。
やがて、蒸し始めてから二十分ほどが経過した。
「若君、そろそろ良い頃合いかと!」
まつの声に、俺は頷いた。
「火を引け。蓋を取れ!」
パパパッ、と立ち上る熱い白煙を払う。
蒸籠の中に現れたのは――雪のように純白で、表面が細かな気泡を抱いてふっくらと持ち上がった、見事な蒸し菓子だった。
「まあ……!」
ちよが息を呑み、母が思わず両手を胸の前で合わせた。
「白くて……まるで、高隈の峰に降り積もる初雪のようでございますね……」
包丁を濡らし、熱々の四角い塊を一口大に切り分ける。
断面を見ると、自然薯の気泡が均一に広がり、もっちりとした弾力を保ちながらも、指先で押すと軽やかに押し返してくる。
俺は一切れを小皿に乗せ、母に差し出した。
「母上、熱いうちにどうぞ」
母・楠御前は、恐る恐る白い蒸し菓子を指先でつまみ、小さく口元へ運んだ。
小さな前歯が、柔らかな純白の生地を食み入る。
一瞬の静寂。
次の瞬間、母の大きな瞳が見開かれ、大粒の涙が零れ落ちた。
「母上!? 熱かったですか!?」
「いいえ……いいえ、楠千代。甘くて、もっちりとして、それなのに口の中でふわりと溶けて……。このような美しいお菓子、亡き父上の館でも、島津の本丸ですら、口にしたことがございませぬ……」
「本当に……?」
ちよとまつも、端切れを一口放り込んだ瞬間、揃って両手で頬を押さえてその場にへたり込んだ。
「な、何ですかこれぇ……! お餅よりずっと軽くて、山芋の臭みが全部消えて、天上の露のような甘さが広がります……!」
「若君、これ……本当に人間が作ったものですか……!?」
台所が、異様な幸福感に包まれる。
俺も一切れ口に放り込んだ。
うまい。これだ。かるかんだ。
自然薯の粘りが見事にグルテンの代わりを果たし、米粉の優しい甘みと砂糖のストレートなパンチが、疲弊した脳髄の隅々まで染み渡っていく。
視界の端で明滅していた疲労のノイズが、急速に晴れ渡っていくのが分かった。
だが。
一口の甘味で脳の飢餓感が刺激された瞬間、俺の記憶のパンドラの箱が、さらに一段深く開いてしまった。
いや、待てよ。
俺は台所の土間に置かれた、藁敷きの籠を見つめた。
そこには、獅子目の山林で放し飼いにしている薩摩地鶏の原種から、今朝収穫されたばかりの新鮮な鶏卵が、十数個転がっていた。
かるかんは美味い。だが、これはまだ和菓子の領域だ。
卵がある。砂糖がある。小麦粉もある。
なら、作れるんじゃないか。アレが。
前世の記憶。
小学校の家庭科の授業か、あるいは一人暮らしを始めたばかりの頃にネットのレシピを見ながら自作した、手探りの記憶。
「ちよ、その卵の殻を割れ。ただし、白身は全部除けろ。黄色い黄身だけを、この深鍋に入れろ」
「えっ? 黄身だけでございますか? 白身を捨てるなんて、勿体無うございます!」
「捨てるんじゃない、白身は後で吸い物の具にする。黄身だけを五個分だ。早く!」
俺の鬼気迫る表情に気圧され、ちよが慌てて卵を割り、指先で器用に黄身だけを鍋に落としていく。
「砂糖を入れろ。白っぽくなるまで、菜箸を束ねてかき混ぜるんだ!」
ちよが必死に菜箸を振る。濃い橙色だった黄身が、砂糖を吸って次第に淡い黄色へと泡立っていく。
「そこに、振るった小麦粉を大さじ二杯。ダマにならないように混ぜろ」
「若君、牛乳はどうされるのです?」
台所の隅で見ていた弥三郎が、いつの間にか戻ってきて口を挟んだ。
「牛の乳なんぞ、この辺りじゃ手に入りませんぜ」
「知ってるよ。だから、これを使う」
俺が指差したのは、今朝絞ったばかりの濃厚な「豆乳」の桶だった。
「豆乳を人肌に温めろ。それを、この鍋に少しずつ注ぎながら、休まずに混ぜ続けるんだ」
黄色い卵液に、温かい豆乳が注ぎ込まれ、サラサラとした薄黄色の液体になる。
ここからが勝負だった。
「竈をとろ火にしろ。直火じゃ駄目だ、熾火の上に鍋を浮かせ気味に据えろ!」
俺は自ら木べらを握り締め、鍋底に張り付いた。
「火が強すぎると、甘い炒り卵になって全部台無しになる。手を休めずに、底から八の字を描くように練り続けろ!」
木べらを動かす腕が重くなっていく。
最初はシャバシャバとした液体だった。
「若君、これ、本当に固まるんでございますか……?」
ちよが不安そうに覗き込む。
「黙って見てろ。ある瞬間に、急に相転移が起きるんだ!」
熱によって、卵のタンパク質と小麦粉のデンプンが糊化し、手を取り合う瞬間。
五分、十分と練り続けたその時――。
ふっと、木べらの手応えが重くなった。
「来た!」
鍋底から、急激にとろみが立ち上がり、サラサラだった液体が、艶やかな粘り気を持ったペーストへと変貌していく。
木べらを持ち上げると、ぽってりとリボン状に垂れ落ち、鍋の中に滑らかな軌跡を描いた。
立ち上ったのは、大豆と卵の濃厚なコク、そして焦げない程度に熱された砂糖が放つ、暴力的なまでに芳醇な甘い香り。
黄金色の、カスタードクリームの完成だった。
「な、なんじゃこりゃあ……」
背後から、低く野太い声が響いた。
振り返ると、いつの間にか台所の入り口に、島津家久が仁王立ちしていた。
飯隈の訓練から戻ったばかりの荒武者は、大太刀を佩いたまま、信じられないものを見るように鍋の中の黄金色のペーストを見つめていた。
「おい崇清。貴様、今度は台所で何を練り上げておるんじゃ? 毒々しいほど黄色い泥じゃが……匂いだけで、頭の芯が痺れそうじゃぞ」
「家久兄上。ちょうどいいところに来ましたね」
俺は薄く笑い、先ほど蒸し上がったばかりの、まだ温かい純白のかるかんを手に取った。
包丁で横に切れ込みを入れ、貝のように開く。
そこへ、木べらですくい上げた熱々の黄金のカスタードクリームを、溢れんばかりにたっぷりと挟み込んだ。
純白の蒸し餅の弾力と、とろりと溢れ出す濃厚な黄色いクリーム。
中世の日本に、物理的に存在してはならないハイブリッド生洋菓子の誕生である。
「毒見役をお願いします、兄上」
俺が差し出すと、家久は怪訝そうに眉をひそめながらも、漂う甘い暴力の前に喉を大きく鳴らした。
「ふん。腹を壊したら、貴様を槍の柄でぶっ叩いてやるからな」
家久は大きな手でそれを受け取ると、大きく口を開け、迷うことなくガブリと噛み付いた。
咀嚼の音が、台所に響いた。
一口。
二口。
三口目で、家久の動きが完全に静止した。
十六歳の屈強な薩摩武士の瞳孔が、限界まで見開かれていた。
褐色の頬がピクピクと痙攣し、大太刀を握っていた右手の指先から、完全に力が抜け落ちている。
口の端から、温かい黄金色のクリームが一筋、とろりと溢れ出た。
「あ……」
家久の喉から、掠れた声が漏れた。
「あ……ああ……」
「家久様!? 息をしてますか!?」
弥三郎が慌てて駆け寄る。
家久は弥三郎の制止を払い除けると、手の中に残っていたかるかんカスタード挟みを、一口で丸ごと口の中に押し込み、狂ったように咀嚼して喉へ流し込んだ。
そして、天井の梁を見上げ、胸を押さえてその場にドスンと膝をついた。
「う、美味い……。何じゃこれは……何なんじゃこれはァッ!!」
家久の咆哮が、屋敷を揺るがした。
「噛んだ瞬間はもっちりとしておるのに、中の黄色い羹が口の中で爆ぜて、舌にまとわりついて消えていきよる! 濃厚で、甘くて、脂っこくて……なのに、後味が爽やかで止まらん! 崇清ッ! これをあと十個……いや、百個寄越せ!!」
「駄目です。卵も砂糖も貴重品ですから、兄上には一個だけです」
「ケチケチするなァッ!! 大姶良の城を落としてきてやる! 肝付の首を三つ取ってきてやるから、この黄色い泥を樽で食わせろォッ!!」
最強の野戦指揮官が、一個のクリームパンもどきを前にして、完全に理性を失って喚き散らしていた。
その光景を、冷めた目で眺めていた弥三郎が、ふと我に返ったように青ざめた顔で俺の袖を引いた。
「崇清様」
「何だ、弥三郎」
「あの……俺、気付いちゃったんですけどね。これ、家久様だけじゃねえですよ」
弥三郎の指先が、小刻みに震えていた。
「今、台所の隅でこれの一口食った母上もちよさんも、目が完全にキマってましたよ。もし、この黄色いクリームと白い餅を、甘いものに飢え切ってる大隅の国衆の嫁や娘、あるいは……京の都の公家どもに食わせたら、どうなります?」
弥三郎の言葉に、俺は木べらを置いた。
前世の記憶が、冷徹な計算尺となって脳裏に蘇る。
動物性タンパク質(卵黄)と、植物性油脂(豆乳)、そして高純度の糖分が乳化した、極限の嗜好品。
干し柿と水飴しか知らない中世の人間に、このドーパミン直撃の味覚爆弾を投下したらどうなるか。
戦略兵器になる。
奥向きの女性権力を掌握し、敵の当主の家庭内包囲網を築き、さらには京都の朝廷貴族の喉元を締め上げる、最も甘く、最も毒性の強いロビー活動ツール。
「弥三郎」
「へ、へい」
「このカスタードの製法、絶対に外へ漏らすな。特に、伊集院忠棟や島津本家の蔵役人には、絶対に一口も食わせるなよ」
「言われなくてもそうしますよ! こんなもん見られたら、今度こそ南蛮の妖術使いとして全員火あぶりにされちまいますよォッ!」
弥三郎の悲鳴が響く中、台所の外では、家久が「崇清! もう一個! 頼むからもう一個だけ食わせてくれ!」と板戸を激しく叩き続けていた。
疲れた脳を癒すための、ただの息抜きの試作。
そのはずだった甘味が、やがて大隅の戦局を、そして天下の朝廷外交を揺るがす「恐るべき破壊兵器」へと化けていく端緒が、いま獅子目の台所で産声を上げていた。
甘いものは脳みそに大事ですよね。
かるかんにあんこを包んだかるかんまんじゅうならそんざいしますがかるかんにカスタードクリーム包んだ菓子は作者の知る限りまだ存在しません…多分元鹿児島人の崇清はかすたどんからの発想でやったと思います。
ちなみにかるかん、まずいお土産と思われてるみたいですが……ちゃんとしたの食べると美味いんですよ?モチモチして。
安もんは自然薯ケチってるのでパサパサするのです。明石屋とかだと間違いないですが個人的には鹿屋の青柳を推します。
次の投稿は19時です。
ところで13年前に挫折した旅小説(今も残してある雨の山脈、雲の村)をリライトしました。よろしかったら読んでやってください。
まぁこっちとずいぶん違うんで…お口に合えばで…
【リライト版】雨の山脈、雲の村
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