第46話 黒潮の落人たちと高須ドック
ふ初夏の大隅半島の風は、内陸のシラス谷に吹き溜まる埃っぽさとはまるで違っていた。
波頭を砕いて吹き寄せる潮風が、汗ばんだ麻の単衣を冷たく撫でていく。だが、その風の奥には、干潟に打ち上げられた海藻の腐れた臭いと、砂浜に放置された魚のアラが放つ饐えた油の匂いが、べっとりと混ざり合っていた。
大隅東岸、内之浦の北に口を開けた名もなき荒磯。
切り立った玄武岩の断崖が海へ落ち込むその足元に、波に洗われる洞穴と、傾いた板葺きの掘立小屋が十数軒、身を寄せ合うようにへばりついていた。
「若君、いや崇清様」
背後で、草鞋の紐を締め直した弥三郎が、波しぶきを浴びて顔を顰めた。
木崎原の泥濘をくぐり抜け、十四歳で元服を済ませた主を、いまだ呼び慣れぬ新しい名で呼ぶたび、この二十四歳の筆頭家老は喉に小骨が刺さったような渋面を作る。
「こんな岩陰の吹き溜まりに、まともな船大工なんざ本当にいるんですかい。どう見ても、明日にでも餓死しそうな野盗の隠れ処ですよ。俺の鼻には、磯臭え死臭しか漂ってきませんぜ」
「いるさ。飢えているからこそ、ここにいるんだ」
俺――島津崇清は、足元の濡れた岩肌に踏ん張りを利かせながら短く返した。
草木染めの素朴な小袖の裾を膝まで端折り、帯には母・楠御前から託された守り刀を差している。元服して前髪を落としたとはいえ、十四歳の身体はまだ大人になりきれず、海風に煽られると足元がふらつく。
だが、俺の視線は岩陰に引き上げられた数隻の船――水垢とフジツボにびっしりと覆われ、舷側の杉板が腐食して白く毛羽立った早船の残骸に釘付けになっていた。
船首の反り、船底の梁の組み方。
あちこち当て木をして縄で縛り上げているが、骨格そのものは波の荒い外洋を疾走するために極限まで無駄を削ぎ落とした、種子島特有の船型だ。
「おい、権蔵。あいつらか」
俺が顎をしゃくると、先頭を歩いていた小柄な男が、塩焼けした顔を歪めて無骨に頷いた。
錦江湾から種子島、琉球までを股にかける密輸船頭・権蔵。粗末な袖口から覗く前腕には、碇の入れ墨が青黒く沈んでいる。
「へえ。能野の甚五郎一派でさあ」
権蔵は足元の濡れた砂を踏み躙り、唾を吐き捨てた。
「種子島の時堯様がお家騒動をやらかした時、負け組に与して島を叩き出された連中でさ。船大工の茂平次爺さんとその一門も丸ごと道連れだ。大隅の東海岸へ逃げ延びて隠れ潜んじゃみたものの、肝付にも禰寝にも相手にされねえ。関銭奪うにも船を直す釘も木材も尽き果てて、今じゃフナムシとトビウオの干物で食いつないでるていたらくで」
「技術者を干上がらせて野垂れ死にさせるなんざ、リソースの歩留まり最悪だな」
俺が呟くと、弥三郎が死んだ魚の目で天を仰いだ。
「出たよ、崇清様お得意の歩留まりだ。元服しても中身は一ミリも変わってねえや」
洞穴の前まで進むと、暗がりの中から、殺気立った気配がいくつも立ち上がった。
じゃらり、と錆びた鉄鎖が鳴る。
引き抜かれた刀の切先が、薄暗い洞窟の奥で鈍く光った。
「動くな。それ以上足を踏み入れたら、喉笛を突くぞ」
低く、嗄れた声だった。
現れたのは、四十半ばの男。赤銅色に焼け焦げた肌に、潮風で脱色されたざんばら髪。顎から喉元にかけて、銛の切先で引き裂かれたような白い古傷が走っている。
着古した麻の小袖の片肌を脱ぎ、右手に握られているのは、刃こぼれだらけの無骨な打刀。
能野水軍の頭領――能野甚五郎盛長。
甚五郎の背後から、骨と皮ばかりに痩せこけた男たちが、手槍や錆びた銛を構えてぞろぞろと這い出してくる。そのさらに奥、焚き火の煙が燻る洞穴の深部には、ぼろ布を纏った女や子供、それに道具袋を抱えた老人たちが、怯えた獣のように身を寄せ合っていた。
「権蔵か。何の用だ。うちには貴様に売り払うような積荷なんぞ、爪の垢ほども残っちゃいねえぞ」
甚五郎のぎょろりとした双眸が、権蔵を睨み、次いでその後ろに立つ俺と弥三郎を、頭のてっぺんから爪先まで舐めるように走った。
「そっちの小綺麗なガキは誰だ。陸の侍の小倅を連れてきやがって。俺たちを島津か肝付に突き出して、賞金でもせしめる気か」
「口を慎め!」
弥三郎が一歩前に出ようとしたが、俺は右手を挙げて制した。
空腹と絶望で極限まで張り詰めた集団に、身分だの家格だのを振りかざすのは、火薬庫の真上で火打ち石を叩くようなものだ。
「能野甚五郎だな」
俺は一歩、濡れた砂を踏みしめて前に出た。
「島津崇清だ。と言っても、先月元服したばかりでな。本家の四男坊・島津家久の預かり人として、大隅の獅子目と高須を任されている」
甚五郎の眉がピクリと跳ね上がった。
「島津……? 冗談じゃねえ。島津の侍が、こんな掃き溜めに何の用だ。俺たちを海賊として成敗しに来たってのか」
「成敗? まさか」
俺は乾いた笑いを漏らし、背後の荷駄を担いできた人夫たちに手招きした。
「そんな無駄な工数は使わない。腹が減っているだろう。まずはこれを食え」
人夫たちが、背負っていた四つのずっしりと重い筵包みを、砂浜の上にドスンと下ろした。
縄を解き、筵を広げる。
現れたのは、真っ白な塩の結晶がびっしりと吹いた干し肉――獅子目の飯隈工房で仕込んだ、黒豚の燻製塩漬け肉。それに、硬く焼き締めた麦と炒り大豆の携帯糧食、そして大きな竹筒に入った水だ。
風に乗って、濃厚な燻煙の香りと、熟成した豚脂の匂いが荒磯に広がった。
甚五郎の後ろにいた男たちの喉が、ごくりと一斉に鳴った。子供の泣き声がピタリと止まる。
「毒でも入ってんのか」
甚五郎は刀を降ろさず、猜疑心に満ちた目で俺を射抜いた。
「俺たちを飼い慣らして、大隅の海で鉄砲玉にでも使う気か。陸の侍の施しなんぞ、死んでも受けるかよ」
「毒を入れるくらいなら、最初から鉄砲足軽を百人連れてきて一斉射撃してるよ。その方がコストが安い」
俺は肩をすくめ、懐から小さな竹筒を取り出した。
中に入っているのは、高須の浜で直煮製法によって炊き上げた、雪のように純白で結晶の細かい極上塩だ。
俺は指先で塩をひとつまみ掬い、自分の舌の上に乗せて見せた。
「うまいぞ。舐めてみろ」
甚五郎が息を詰まらせる。数秒の沈黙の後、男は刀を砂に突き刺すと、大股で歩み寄り、竹筒の塩を指で乱暴にすくい取って口に放り込んだ。
瞬間、男の赤銅色の顔が凍りついた。
苦味も砂混じりの雑味もない、鮮烈で力強い塩気。
「な、んだこの塩は。こんな白い塩、京の公家でも食えねえぞ……」
「高須の塩だ」
俺は竹筒を甚五郎の手の中に押し込んだ。
「お前たちに海賊稼業を続けさせる気はない。関銭を奪ってコソコソ逃げ回り、船を腐らせてここで野垂れ死ぬか。それとも――俺の下で正規の沿岸運送業者になるか。二つに一つだ」
「運送……業者だと?」
甚五郎が怪訝そうに目を剥く。
「そうだ。高須の港を拡張し、製塩と物資の積み出し拠点にする。お前たちの役目は、錦江湾からこの大隅東岸を往復し、高須の塩と獅子目の物資を安全に運ぶことだ。略奪ではなく、運賃と補給で飯を食え。島津の旗を掲げて堂々と海を走らせてやる」
洞穴の奥から、足を引きずるような足音が聞こえた。
痩せこけた老人が一人、節くれ立った手で壁を支えながら這い出てくる。
腰が深く曲がり、両手の指先は長年ノミを握り続けたために太く変形し、爪の間にヤニが染み付いている。
船大工棟梁――茂平次だ。
「小僧さんよ」
茂平次のかすれた声が、波音に混ざって響いた。
「気の利いた口を利きなさるがな、海を舐めちゃいけねえ。運送だの海運だの言ったところで、船が走らなきゃどうにもならねえんだ。見ろ、俺たちの船を」
老人は、砂浜に放置されたボロボロの早船を震える指先で指差した。
「竜骨の継ぎ手は腐り、外板は波に叩かれて隙間だらけ。鉄釘は錆びて折れ、槙肌を詰める油も尽きた。船を直すための木材もねえんだ。大隅の山に生えてる木なんぞ、脂っ気が多すぎるか、逆に水を吸ってすぐに腐る雑木ばかりだ。良質のクスノキもスギも、肝付や島津が山を封鎖して一本も下ろしちゃくれねえ! 材木がなきゃ、俺たち大工はただの役立たずの飯食い虫なんじゃ!」
茂平次の叫びは、職人が腕を奪われたことに対する、血を吐くような絶叫だった。
弥三郎が「うへえ、職人特有のめんどくせえ誇りだ」と小さく耳打ちしてくる。
だが、俺は内心で小さく拳を握りしめた。
腕はある。技術もある。ただ、資材供給網が寸断されているだけだ。
ならば、こちらのやるべきことは最初から決まっている。
「弥三郎、呼べ」
「へいへい。おい、持ってこい!」
弥三郎が浜の入り口に向かって手を振ると、待機していた十数頭の駄馬が、砂利を踏み鳴らしながら姿を現した。
馬の背に括り付けられていたのは、筵で厳重に巻かれた長大な角材だった。
どさりと、茂平次の目の前の砂浜に下ろされる。
筵が剥ぎ取られた瞬間、初夏の陽光の下に、鈍い光沢を放つ褐色の木肌が姿を現した。
高隈山系から切り出し、飯隈工房の巨大な燻煙窯で徹底的に油抜きと乾燥処理を施した、極上のクスノキ材とスギ材。
茂平次の目が、見開かれたまま動かなくなった。
老人は這うようにして材木へ擦り寄り、震える掌で木肌を撫で回した。
「な、なんじゃこりゃあ。狂いも割れも一切ねえ……芯まで完全に水と油が抜けてやがる。叩いても、金属みてえに澄んだ音がしよる……! こんな木、種子島でも見たことがねえぞ!」
「飯隈の木だ」
俺は茂平次の横にしゃがみ込み、木肌をコンコンと指の背で叩いた。
「高須の肝属川河口に、船の修繕と建造のための造船所を開設する。茂平次、お前がその棟梁だ。この極上の乾燥材と、飯隈で作らせている規格品の鉄釘、それに槙肌の代わりに使う特製の防水油を、必要なだけ供給してやる」
茂平次が、信じられないものを見るように俺を見上げた。その節くれ立った指先が、材木に爪を立てるほど強く食い込んでいる。
「ほ、本当に……これで船を造っていいのか……? 好きなだけ、俺たちの腕を振るっていいのか……?」
「ああ。ただし、今まで通りの船を造ってもらうつもりはない」
俺は立ち上がり、水平線の彼方を指差した。
「波を裂いて荷物を倍積み、矢や鉄砲を受けても絶対に沈まない船を造ってもらう。俺の頭の中にある設計を、お前たちの手で形にするんだ」
甚五郎が、呆然と干し肉の筵包みを見つめ、次いで俺の顔を凝視した。
赤銅色の顔から、殺気が完全に抜け落ちていた。
「島津崇清様、と言ったな」
甚五郎は膝をつき、砂浜に両手をついた。
「俺たち二百人、今日からあんたの船乗りだ。飯を食わせて、船を走らせてくれるなら、地獄の果てまで荷物を運んでやるよ」
波音が、静かに二人の男の沈黙を包み込んでいた。
背後で弥三郎が、「はあ、また若君が胃の痛くなるような荒くれ者を丸ごと買い取っちまったよ……」と深い溜息をつきながら、手元の台帳に新たな支出をガリガリと書き留めている。
大隅平定のための、最初の海洋インフラ――高須造船ドックのピースが、ここに泥臭く噛み合わさった瞬間だった。
第46話「黒潮の落人たちと高須ドック」をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大隅東岸で行き場を失っていた能野水軍と船大工たちを、崇清が拾い上げるお話でした。
戦をするには兵が要る。
けれど、その兵を運ぶ船が要る。
そして船を維持するには、船大工と木材と港が要る。
というわけで、崇清の「大隅平定」は、どうやら陸地だけでは終わらないようです。
ここからしばらくは、高須を起点にした海の話と、獅子目・飯隈で進む農政の話が並行して動いていきます。
次回はまず、シラス台地に新たな作物を植えるお話です。
次の投稿は明日7時時の予定です。
よろしければ、続きもお付き合いください。




