第45話 日陰の終焉と蒲生の凱旋
大広間での査定を終えた俺――島津崇清は、その足で内城北の丸、かつて五歳から八歳までの雌伏の日々を過ごしたあの屋敷へと向かっていた。
じめじめとした湿気と、原生林の青臭い匂い。初夏の陽光すら届かぬ薄暗い窪地の風情は、六年前と何一つ変わっていない。
だが、屋敷を取り囲んでいたはずの島津の目付の姿は、すでにどこにもなかった。
板戸を開けて奥へ入ると、畳の擦り切れた一室で、母・楠御前が線香の煙の向こうに端座していた。
二十九歳になった母は、かつて咳き込んで臥せっていた頃の弱々しさを脱し、凛とした気品をその面差しに宿している。その背後には、侍女長の岩崎、そしてまつとちよが、息を詰めて控えていた。
「母上」
俺は敷居を跨ぎ、畳に両手を突いた。腰に帯びていた守り刀を両手で外し、母の前の板敷きへと静かに滑らせる。
「木崎原より、無事に戻りましてございます。この刀、血に汚すことなく、お返しいたします」
母の細い指先が、漆塗りの鞘にそっと触れた。
「よく、無事でいてくれましたね、楠千代」
「母上。もう一つ、ご報告がございます」
俺は顔を上げ、淀みなく告げた。
「木崎原にて元服を遂げ、名を島津崇清と改めました。そして先ほど、当主・義久公の御前において正式に裁可が下りましてございます。我らはこれより、島津の一門たる『蒲生島津家』を興すことと相成りました」
「蒲生、島津……?」
岩崎が掠れた声を上げ、目を見開いた。
「はい。本家の公認分家でございます。知行は獅子目、飯隈、大姶良、高須、浜田、吾平の六拠点。母上、内城の日陰で耐え忍ぶ日々は、これにてすべて終わりました。岩崎も、まつも、ちよも、奥向きの全員で大隅・獅子目へお越しください。あそこが、これからの我らの本拠にございます」
静寂が、部屋の隅々を満たした。
次の瞬間――ドォォン、と廊下の板敷きを揺るがす凄まじい衝撃とともに、縁側に控えていた甚兵衛が、泥壁を突き破らんばかりの勢いで畳に突っ伏した。
「う……うおおおおおおおおっ! おおおおぉぉぉぉぉっっ!!」
老将の絶叫が屋敷を震わせる。
「蒲生が! 滅び去ったはずの我が蒲生が、島津の一門として、堂々と世に甦ったのじゃあぁぁっ! お館様……! 見ておられますか、八幡の御神木よ! 楠千代丸様が、若君が成し遂げてくださったぞォォッ!!」
白髪交じりの髭を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、六十六歳の老武士が床板を両拳で叩いて号泣している。
その隣で、侍女長の岩崎も懐紙を目元に押し当てて肩を震わせ、まつとちよは互いの手を取り合って涙を流し合っていた。母・楠御前もまた、こみ上げるものを堪えるように口元を白布で覆い、瞳に大粒の涙を湛えている。
部屋中が、十年以上に及ぶ塗炭の苦しみが報われた熱狂と感涙の嵐に包まれていた。
ただ一人を除いて。
「あのォ、若君」
俺の斜め後ろで帳簿を抱えた弥三郎が、首筋をポリポリと掻きながら、死んだ魚のような半目で呟いた。
「まあ、本丸で打ち首フィニッシュにならなかったのは誠に慶賀の至りですし、僕も首が繋がって嬉しいっちゃ嬉しいんですがね。正直、そこまで泣き喚くほどのことですかい?」
「弥三郎ッ! 貴様、この大慶事になんたる無礼かッ!」
甚兵衛が涙に濡れた赤鬼のような顔で怒鳴りつけたが、弥三郎はため息混じりに肩を竦めた。
「いやだって爺様、冷静に考えてみなさいよ。名目が蒲生島津になったところで、俺たちが大隅の泥谷でやる仕事は明日からも何一つ変わらんのですよ? 朝から孟宗竹を掘り出して、塩田で浜風に吹かれて髪をパリパリにさせて、和紙を漉いて、帳簿の数字を睨んで胃を痛めるだけです。むしろ一門なんて看板背負わされたせいで、大隅の泥沼平定戦に正規の頭数として駆り出される羽目になったんじゃないですか! 業務量が倍増しただけですよこれ! 武士の労働基準法はどうなってんだァッ!」
「だまりゃ弥三郎ッ! この大たわけがァッ!!」
祖父と孫の凄まじい怒号の応酬に、母・楠御前がくすりと笑い声を漏らし、屋敷を包んでいた張り詰めた糸が、ふっと温かく解けていった。
数日後――大隅国、獅子目。
錦江湾を渡り、奥向きの女たちを伴って帰還した俺たちを迎えたのは、すり鉢状の谷底を埋め尽くすような、地鳴りのごとき大歓声だった。
「若君が……いや、崇清様が、島津の一門になられたぞォッ!!」
「我らはもはや、山奥に隠れ住む逆賊の落人ではない! 蒲生島津の正規の武士じゃあぁぁっ!!」
獅子目の総会所の前には酒樽が幾つも並べられ、孟宗竹を組んだ篝火が赤々と夜空を焦がしていた。
集まったのは、獅子目の開拓を共にしてきた専業武士や工兵たちだけではない。
蒲生が滅びて以来、日向の伊東や大隅の肝付、あるいは各地の小領主の元で使い捨ての下っ端として冷遇されていた者。山林に身を隠し、野伏として細々と糊口をしのいでいた者。さらには他国の過酷な年貢に耐えかねて逃散していた農民たちまでが、「大隅の獅子目で蒲生が島津の一門として立った」「あそこへ行けば飯が食える」という風聞を聞きつけ、続々と谷底へ帰参してきていたのだ。
「へへっ、若君。大隅中から、怪しげな野武士や頑固ジジイが湧いて出てきてますよ」
弥三郎が疲労困憊の顔で、帰参者の名簿をめくりながら苦笑した。
「だが、これで大隅平定に必要な実務部隊の頭数は揃う。道純、素元を洗った上で、技能ごとに振り分けろ」
「御意にございます、崇清様」
闇の中から現れた道純が、深く頭を下げた。
そんな熱狂と祝祭の渦巻く総会所の大広間。
上座の端、一番風通しの良い特等席で――なぜか、まったく悪びれる様子もなく胡坐をかいて、獅子目自慢の料理を貪り食っている男がいた。
「おお、又八! いや崇清! 戻ったか!」
豪快に朱塗りの盃を掲げて声をかけてきたのは、四男・島津又七郎家久であった。
「家久兄上?」
俺が呆気にとられて足を止めると、家久は脂の乗った極上の黒豚の角煮を竹箸で口に放り込み、ンフフと喉を鳴らした。
「兄上から『崇清の補佐として大隅へ下れ』と言われてな。辞令が出たその刻限には馬を飛ばして、さっき着いたところよ! それにしても美味いな、この獅子目の飯は! 高須の塩で締めた本マグロの刺身に、このラードと干し椎茸の出汁でトロトロに炊いた黒豚……! 内城の精進料理染みた飯とは比べ物にならんわ! 酒も進む!」
家久は素焼きの徳利を傾け、盃へと酒を注いだ。
注がれたのは、木灰を沈めて酸味を抑え、とろりと赤褐色に澄んだ甘口の地酒――灰持酒。そして傍らの青竹の筒には、大陸や琉球との交易を経て薩摩の沿岸で作られ始めたばかりの、米や雑穀を醸したキレの鋭い黎明期の蒸留酒が満たされている。
家久はその強い蒸留酒をぐいと喉へ煽り、カッと息を吐いて目を細めた。実戦の鬼神と呼ばれる男が、まるで親戚の宴会に転がり込んできた食い意地の張った兄貴分そのものの顔で、完全に満悦しきっている。
「兄上。宴席の費用もタダではございませんよ。これから大隅の肝付や大姶良を相手に、存分に働いていただきますからね」
俺が冷ややかに釘を刺すと、家久は盃を置き、獰猛な野生の笑みを浮かべて白い歯を覗かせた。
「当たり前よ! 飯と弾薬をこれだけ腹一杯食わせてもらえるなら、大隅の城なんぞ幾つでも揉み潰してやるわい! なあに、落とした城と土地は約束通り全部兄上へくれてやるんだろ? 俺は暴れるだけでいいから気楽なもんよ!」
豪快に笑う家久の横で、甚兵衛が手酌で地酒を注ぎ、弥三郎が「また胃の痛む暴れ馬が陣営に加わった……」と頭を抱えている。
篝火の火の粉が、初夏の夜空へと舞い上がっていく。
かつて日陰の片隅で竈の灰をこねていた俺たちの手の中に、島津の武力(家久)と、蒲生の執念(遺臣団)、そして海を繋ぐ兵站の道が、一本の強固な鎖となって結ばれようとしていた。
第45話「日陰の終焉と蒲生の凱旋」をお読みいただき、ありがとうございました。
木崎原で元服し、内城で蒲生島津家として正式に認められた崇清たちは、ついに長かった「日陰暮らし」に一区切りをつけることになりました。
母・楠御前たちを獅子目へ迎え、散らばっていた蒲生の遺臣たちも続々と帰参。
そして、島津家久まで大隅へやって来ました。
本人は「飯と弾薬さえあれば暴れる」と大変頼もしいことを言っておりますが、帳簿を預かる弥三郎からすれば、胃痛の種が一つ増えただけなのかもしれません。
ともあれ、これで崇清の手元には、人・武力・兵站という大隅平定の土台が揃いました。
……もっとも、海のことはまだ何も揃っていません。
次回からは、その「まだ何もない海」の方にも手を伸ばしていくことになります。
よろしければ、引き続きお付き合いください。




