第44話 「蒲生島津」の誕生
大広間の畳の上に広げられた大隅国の白地図を、五月の生ぬるい風がかすかに揺らしていた。
墨で丸く囲まれた『獅子目・飯隈・大姶良・高須・浜田・吾平』の六点。それ以外の広大な白地――これから攻め落とすべき肝付の高山城、志布志の港、垂水の要害に至るすべてを宗家へ丸ごと差し出すという十四歳の申し出に、島津四兄弟も、居並ぶ重臣たちも、完全な沈黙に呑み込まれていた。
「土地は、いらぬと申すのか」
呆気にとられたように口を開いたのは、三男の島津又三郎歳久だった。
手にした白竹の扇子を開くことも忘れ、怪訝そうに眉をひそめて俺の顔を凝視している。
「崇清、そなた正気か? 武士が命を捨てて槍を振るうのは、ひとえに先祖伝来の土地を守り、新たな知行地を得るためぞ。これから大隅を制圧して切り取ろうという城も、田畑も、すべて宗家に差し出して、手元に残すのはその泥谷と港の六箇所だけだと?」
「はい、歳久兄上」
俺は至極真面目に、心からの誠意を込めて頷いた。
前世のコンサルタントとしての脳髄は、極めて単純明快な計算を弾き出している。
土地の所有権など持てば、現地の土豪との小競り合いに忙殺され、宗家からは大名化して独立を企てていると警戒され、防衛コストばかりが跳ね上がる。そんな負債の塊のような土地など、宗家に丸ごと預けて天領にしてもらった方が、本家も安心するし、こちらは身軽に動ける。
「私に必要なのは、領地ではございません。人と、物流と、産業を回す仕組みです。大隅の城や田畑の領有権は、すべて義久公直轄の天領とするか、あるいは他の島津一門・譜代の将へお配りください。私が宗家より頂戴したいのは、その土地の上に港を拓き、塩を焼き、孟宗竹を植え、兵站の道を敷く運用の差配だけで結構でございます」
「ば、馬鹿な……」
下座で算盤を抱えた伊集院忠棟が、掠れた声を漏らした。
「領地を持たぬ武家など、前代未聞。土地がなければ、兵を養う年貢米も入らぬではないか! いかにして手勢を養い、家を保つというのだ!?」
「忠棟殿、米は百姓から力づくで奪わずとも、塩や和紙、サボンを商うて買えば足ります。運送の手数料を取り、銭を回せば兵に給金を払えます。むしろ土地を持たぬゆえに、私が大隅で兵を挙げ、本家に弓を引くことなど物理的に不可能でございましょう。これ以上の忠誠の証明がございますか」
俺は屈託なく微笑んだ。
本当に、裏切る気など微塵もないのだ。
島津という巨大な看板を強くし、その中で自分という現場部門を最高効率で回す。島津が潤えば自分たちも安全に飯が食えるし、畳の上で天寿を全うできる。ただそれだけのために、最も無駄のない合理的な制度を提案しているにすぎない。
ところが――上段に並ぶ四兄弟の表情は、得体の知れぬ怪異を前にしたように、ますます硬直していった。
歳久が扇子をぎゅっと握りしめ、冷や汗をこめかみに滲ませている。
陸の武士である歳久の知謀をもってしても、「土地を欲しがらない武士」という存在は、理解の範疇を完全に超えていた。恩賞としての土地も求めず、広大な版図をあっさりと本家へ差し出す。普通ならば無欲で忠節無比な聖人と称えるべきところだが、目の前にいるのは木崎原で三千の伊東軍の喉首を冷徹に塞ぎ止めた十四歳の怪物だ。
欲がないのではない。自分たちが命を懸けて奪い合っている土地とは全く別の、見たこともない何かを食って生きようとしている。
「崇清よ」
沈黙を守っていた義久が、重く、低く口を開いた。
その切れ長の双眸には、いつもの冷徹な威厳の奥に、わずかな困惑の揺らぎが走っていた。
「そなたの母は、蒲生の息女だ。大隅の土地を差し出すと申すが、そなたがその獅子目で蒲生の旧臣を束ね、独自の富を築けば、周囲はそれを蒲生家の再興と見るのではないか? いずれ他国の者が、蒲生の名を旗印にしてそなたを担ぎ上げ、島津に反旗を翻す火種にならぬと、誰が言い切れる」
義久の懸念は、戦国大名の惣領として至極もっともな問いだった。
俺は両手を畳に突き、迷うことなく即答した。
「逆でございます、修理大夫様」
「逆?」
「はい」
俺は顔を上げ、義久の目を真っ直ぐに見据えた。
「蒲生を外に捨て置くから、反乱の旗印になるのです。もし私が島津の枠外でただの私生児として放置されれば、いつか余所者が蒲生家の無念を晴らせと担ぎ出し、島津を裂く神輿に利用しようといたしましょう。ならば、その神輿を先に島津の家中に取り込み、公認の分家として看板を掲げてしまえばよいのです」
俺は上座の義弘、そして義久へと視線を巡らせた。
「兵庫頭様より賜りました崇清の名。父上の志を継ぐ『崇』と、蒲生の通字である『清』。この名をもって、私が島津の一門として興すべき分家の名は一つしかございません。蒲生島津家にございます」
蒲生、島津。
かつて死闘を繰り広げた二つの名が一つに結ばれた瞬間、大広間の空気が微かに震えた。
「蒲生島津が島津一門として公認され、宗家の家臣として誰よりも忠節を尽くしている姿を見せつければ、外の逆賊が蒲生を騙って謀反を起こそうとしても、領民も国衆も失笑するだけでございましょう。『蒲生の正統は、とっくに島津の中で栄えておるわ』とな。蒲生という歴史の火種を、島津の内部で完全に無毒化し、二度と敵にならぬ防護壁とするための器。それが、蒲生島津でございます」
「神輿を壊すのではなく、島津の陣幕の内に飾ることで、外からの強奪を封じる、か」
義弘が腕組みをしたまま、喉の奥で感服したように唸った。
「義久兄上、聞いたか。こやつは蒲生を再興したいのではない。蒲生が二度と島津の敵にならんよう、自らの手で首輪を嵌めて陣営の内に座り込もうとしておるのじゃ。これほど筋の通った忠義が、他にあろうか!」
「待ってください、兵庫兄上」
歳久が額を押さえ、苦笑とも呻きともつかぬ息を吐き出した。
「筋は通っておる……通っておるが、不気味すぎるのです。土地を捨て、名誉を捨て、蒲生の名すら宗家の防護壁として差し出すなど……。武士の欲を持たぬ者が、なぜこれほどまでに島津の利を考えられるのだ」
歳久たちから見れば、俺の行動はあまりにも聖人君子すぎて気味が悪いのだ。
俺としては「組織が潰れたら自分も路頭に迷うから、全体最適化してるだけなんですけど」と言いたいところだが、そんな言葉は中世には存在しない。
俺は向き直り、まだ呆然としている忠棟を見据えた。
「忠棟殿」
「な、何でござるか」
「貴方が恐れておられるのは、大隅の物流や港が、宗家の目の届かぬ治外法権の暗がりになることでございましょう」
「当たり前だ。そなた一代の才覚に頼った仕組みなど、制度とは呼べぬ」
「ならば、こういたしましょう。高須の港湾改修、塩田と孟宗竹の生産、大隅の流通網の整備……これら泥臭い現場の立ち上げは、すべて私と蒲生島津が自前で引き受けます。本家からの軍資金も、兵の動員も一切要求いたしません。そして、この仕組みが軌道に乗り、安定した供給網として完成した暁には」
俺は、出納帳を抱えた忠棟の目を真っ直ぐに見つめた。
「その出納帳と監査の権限、宗家への上納配分を統括する座を、忠棟殿、貴方にそのままお引き渡しいたします」
「なっ……!?」
忠棟の端正な青白い顔が、激しく揺らいだ。算盤を握る指先が、目に見えて震えている。
「この儂に……引き渡す、だと……!?」
「はい。私は現場で新しい産業を興し、仕組みを作るだけの工夫頭にすぎません。出来上がった巨大な機構を維持し、島津の法のもとで厳密に運用できる者は、家中において忠棟殿をおいて他におられぬはずです。忠棟殿の進める中央集権の果実として、大隅の流通網を丸ごと貴方の台帳の中に組み込んでくださればよいのです」
忠棟の喉が、ゴクリと鳴った。
自分が不穏な異物として警戒していたはずの少年から、己の能力を誰よりも高く評価され、完成された莫大な富のインフラを丸ごと差し出すと約束されたのだ。官僚として、これ以上の名誉と実利があるだろうか。
忠棟は深く息を吐き、膝の上の出納帳を抱え直すと、静かに頭を下げた。
「手前からは、もはや異存はござりませぬ」
下座に控えていた新納忠元が、豪快に膝を叩いて笑い声を上げた。
「ガハハハッ! 見たか忠棟! 崇清殿は貴様よりも遥かに島津のお家を思うておるわ! 殿、もはや迷うことなど何もござらん!」
中馬大蔵も太い腕を組み、満足げに鼻を鳴らした。
大広間の視線が、再び上座の主へと集まる。
島津修理大夫義久。
当主はゆっくりと目を閉じ、しばし沈思黙考した後、カッと双眸を見開いた。その瞳には、目の前の十四歳を、戦国のいかなる武将の尺度にも当てはまらぬ希代の忠臣にして異能の怪物として受け入れた、惣領の冷徹な決断が宿っていた。
「崇清」
「はっ」
「そなたの申し出、しかと聞き届けた。これよりそなたを島津の一門として公認し、蒲生島津家の当主たることを認める。知行は獅子目、飯隈、大姶良、高須、浜田、吾平の六拠点。それ以外の新たに切り従えし大隅の城領は、すべて宗家へ差し出せ」
「ははっ!」
「大隅の平定、ならびに港湾と流通の再編、その一切の差配をそなたに一任する。四男・家久を補佐とし、武力が必要な折は家久の手勢を動かせ。忠棟は出納を厳密に監査し、崇清の仕組みを宗家へ繋ぎ止めよ」
「「ははっ!!」」
義久の下知が下り、大広間での査定は完全に決着した。
大広間を辞し、渡り廊下へ出ると、初夏の眩い陽光が青空から降り注いでいた。
控えていた弥三郎が、壁に手をついてへたり込み、涙声で呻く。
「若君。いや、崇清様。生きてます? 僕の首、まだ胴体にくっついてますかい……?」
「くっついてるよ、弥三郎。大隅へ帰るぞ。これからが、本番の仕事だ」
俺は心底からホッとして息を吐いた。
土地を全部返上できたおかげで、謀反の疑いも晴れたし、自由に港や塩田をいじれる権限も手に入った。これで島津も強くなるし、俺たちも安全だ。
崇清本人は、本気でそう思っていた。
まさかこの時崇清は土地を持たぬ代わりに、後々とんでもなく厄介なものを握ることになるとはまだ気づいていなかった。
というわけで、「蒲生島津家」の誕生です。
崇清、土地をほとんど欲しがらないという、戦国武士からすると大変ありがたい忠臣に見えます。
ただ、現代人の感覚から見ると、
「……土地を持たない代わりに、港と物流を押さえるのか?」
という話でもあります(笑)。
このあたり、崇清は少しだけ「未来人のアドバンテージ」を使っています。
もっとも、本人に島津へ反旗を翻すつもりはまったくありません。
本気で「島津が強くなれば自分たちも安全」という、ごく真面目な全体最適のつもりです。
その結果、周囲の戦国武将から見ると、なんだか妙に不気味な忠臣が出来上がっていくわけですが。
次回からはいよいよ、大隅平定と海への進出が本格化します。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。




