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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第3部「木崎原風雲録」

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【木崎原外伝・第3話】死線の中の反転――粥餅田に響く法螺

初夏の白く乾いた陽光が、木崎原の広野一面に広がる薄(すすき)の海を容赦なく照りつけていた。

三角田から転がり出るように街道を駆け抜け、平野の窪地へ逃れ出た儂ら島津勢は、小高い丘の麓で一斉に手綱を引き絞った。

生き残った兵は、わずか四十数騎。

馬は口から白い泡を吹き、人馬ともに泥濘と返り血にまみれ、肩を激しく波打たせて立っているのがやっとの状態だった。

だが――儂が長寿院栗毛の馬首を反転させ、血塗れの十文字槍を高く掲げた瞬間、四十余名の眼光から迷いが消え失せた。

「槍を揃えよ」

儂の声は、血を吐きすぎた喉のせいでひどく掠れていたが、低く骨の髄まで通った。

「息を整えろ。逃げてきたのではない。敵をここまで引っ張ってきたのじゃ」

「応ッ!」

薩摩隼人どもが、泥のついた麻布で傷口を縛り直し、無言で横一列に隊列を組み直した。

数分前まで死に物狂いで泥田を這い回っていた手負いの小勢とは到底思えぬ、恐るべき復元力。

そこへ――。

「殿ッ! 加久藤より川上忠智、手勢を率いて参陣仕ったッ!」

平野の西、山影を縫って、泥まみれの具足を軋ませた加久藤城兵三十騎が、猛烈な勢いで合流してきた。

先頭に立つ忠智の顔面には、鑰掛口での死闘をくぐり抜けてきた男の、凄絶な戦気が漲っている。

「忠智! 加久藤の城はどうした!」

「又八殿が守り抜いておりまする! 背後の間道もすべて塞ぎ、城は盤石! 安心して暴れてくだされッ!」

忠智の叫びを聞いた瞬間、儂の口元から、今日初めて本物の笑みがこぼれた。

(又八……。貴様、本当に城の喉首を保ちきりよったか)

後顧の憂いは、完全に断たれた。

妻子は無事だ。退路も生きている。

これで全神経を、この木崎原の平野へ集中できる。

平野の入り口から、白鳥山の残影に怯え、街道を外れて雪崩れ込んできた伊東軍の本隊二千余が姿を現した。

大軍ゆえの鈍重さ。

山林からの挟撃を恐れるあまり、陣形を整えぬまま、細長い塊となって平野の中央へと突っ込んでくる。

「見よ、島津の小勢が立ち止まっておるぞ!」

「討ち取れ! 囲んで叩き潰せッ!」

先頭の伊東兵が、立ち塞がる儂ら数十騎を見て、歓声を上げて殺到してくる。

勝利を確信し、功名に目が眩んだ大軍の、最も脆く隙だらけの瞬間。

(今じゃ……)

儂は十文字槍を高く突き上げた。

「放てッ!」

ズガガガガァァンッ!

平野の左右、鬱蒼とした雑木林の陰から、潜んでいた伏兵が一斉に火縄銃を撃ち放った。

白鳥山野間口に伏せていた五代友喜の手勢四十。

そして、本地口の古溝に伏せていた村尾重侯の手勢五十。

硝煙が平野を覆い尽くし、突進していた伊東軍の先頭集団が、薙ぎ払われるように倒れ伏した。

「なっ……伏兵じゃッ!?」

伊東軍の動きが、ピタリと止まった。

前には立ち塞がる儂ら数十騎、左右の茂みからは唸りを上げる銃弾の雨。背後にも退路を塞ぐ島津の気配が迫る。

伊東の大軍は、どこへ向かえばよいのか見失ったまま、平野の窪地で足を止めて押し合い、自縄自縛の密集状態へと陥っていった。

敗走を装って誘い込み、左右と背後の伏兵で仕留める――後に「釣り野伏」と呼ばれるようになる島津の型が、この泥濘と血煙の中で、まさに形を成そうとしていた。

だが今の儂にとっては、軍略の名などどうでもよい。

ただ生き残るため、敵を一人残らずすり潰すための、泥臭い反転攻勢に過ぎなかった。

「者ども、反転せよッ!!」

儂は長寿院栗毛の腹を力任せに蹴り、先頭を切って突撃した。

「良賢の仇じゃ! 半五左衛門の仇じゃ! 一歩も退くな、日向侍を平野の肥やしにしてやれィッ!!」

「チェストォォォッ!!」

島津兵たちの咆哮が、木崎原を揺るがした。

敗走していたはずの小勢が、一瞬にして飢えた野獣の群れとなって正面から喰らいつく。

前後を塞がれ、身動きの取れなくなった二千の伊東軍は、もはや軍隊ですらなかった。

互いの槍がぶつかり合い、味方を踏み倒し、逃げ場を失って狂乱する巨大な肉の塊。

そこへ、島津の槍衾が容赦なく突き刺さる。

儂の十文字槍が、敵の騎馬武者を馬上から叩き落とし、寄せてくる足軽をなぎ倒す。

返り血で前が見えなくなるほどに槍を振るい、ただひたすらに敵の塊を切り刻み続けた。

「退けッ! 小林城へ退けッ!」

総大将の伊東加賀守祐安が、狂乱の中で馬首を返し、本地口の間道へ向けて敗走を始めた。

本隊の崩壊。

三千の軍勢が、蜘蛛の子を散らすように散り散りになって逃げ惑う。

だが――退路の本地口には、さらに飯野城留守居から駆けつけてきた有川貞真の手勢が立ち塞がった。

バァァァンッ!

乾いた銃声とともに、逃げ込んできた伊東祐安の胸板を大粒の鉛弾が撃ち抜く。

「ぐわあっ……!」

名だたる老将が泥水の中に転落し、二度と起き上がることはなかった。

総大将の戦死。

大将・祐信に続き、祐安までもが討ち取られたことで、伊東軍の統制は完全に灰燼に帰した。

そこへ、大口城から狼煙を見て駆けつけてきた新納忠元率いる百五十騎が合流し、敗走する敵を徹底的に掃討していった。

日が高く昇りきった午後。

追撃の刃は、日向国境近くの鬼塚原――「粥餅田」にまで達していた。

累々と横たわる敵の屍。

草木は朱に染まり、川原は血の泡を吹いて淀んでいる。

息を荒げ、返り血で黒く染まった新納忠元が、馬を寄せてきた。

「兵庫頭様、敵は高原城へ逃げ散り申した! このまま日向領内まで追撃いたしましょうぞ!」

「いや」

儂は長寿院栗毛の手綱を引き、静かに首を横に振った。

「法螺を吹け。追撃はここまでじゃ」

「しかし――」

「深入りすれば、高原の伏兵に足を掬われる。勝ったのじゃ、忠元。これ以上、兵を死なせるな」

ボオォォォ、と追撃中止を告げる法螺貝の音が重々しく響き渡る。

その音が遠ざかると、粥餅田には、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。

だが、儂の胸中に湧き上がってきたのは、歓喜ではなく、底知れぬ疲労と虚脱感だった。

馬から下り、草の上に座り込む。

膝突栗毛が、儂の肩にそっと温かい鼻先を押し当ててきた。

「栗毛……。お前のおかげで、儂は生きとるぞ」

栗毛の首を抱きしめながら、儂は目を閉じた。

良賢の顔が浮かぶ。

半五左衛門の笑い声が聞こえる。

六人の重臣を失い、自軍の半数を失って掴み取った生き残り。

(良賢……。勝ったぞ。島津は生き残ったぞ……)

胸の奥で呟くが、答えは返ってこない。

「忠元」

儂は目を開け、低く命じた。

「この地に、敵味方の隔てなく死者を弔う塔を建てよ。六地蔵塔じゃ。日向の武士も、良賢たちも、皆この土の下で安らかに眠らせてやらねばならん」

「御意にございます」

忠元が深く頭を下げた。

儂は立ち上がり、汗と血と涙でぐしゃぐしゃになった顔を、麻の手ぬぐいで荒々しく拭った。

夜叉の化粧は完全に落ち、白皙の素顔が五月の風に晒される。

「飯野へ戻るぞ」

儂は栗毛に跨り、手綱を握り直した。

「加久藤の者どもを迎えねばならん。又八の小倅が、どれほどの顔をして待っておるか、この目で検分してやる」

初夏の薫風が、戦火の煙を遠く日向の空へと押し流していった。

木崎原外伝、全3話をお読みいただきありがとうございました。


島津義弘の視点から、木崎原の戦いを描いてみました。

次回からは本編へ戻ります。又八たちのその後も、引き続きお付き合いいただければ幸いです。


面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると大変励みになります。


それでは、また次回。

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