【木崎原外伝・第2話】血涙の退路――六将の盾と白鳥の残影
「新次郎が討たれただと!?」
二千を超える伊東軍本隊の先頭に立つ老将・伊東加賀守祐安の怒号が、初夏の生ぬるい風に乗って三角田の泥濘へと叩きつけられた。
「島津の手勢は百余に過ぎん! 囲めッ! 逃がすな! 兵庫頭の首を挙げ、新次郎の仇を討てェッ!!」
(しまっ、た……ッ!)
喉の奥に、凍てついた砂利を流し込まれたような悪寒が走る。 先鋒を屠って勝った気になっていた儂の目の前に突きつけられたのは、十倍を優に超える本隊の巨影。 二千対百三十。 泥濘の三角田に足を取られ、膝突栗毛の肩は激しい呼気で波打ち、兵たちの槍の穂先は先刻の乱戦で血脂にまみれて鈍く曇っている。 勝ったなどとんでもない。 地獄の本番は、いま始まったばかりだったのだ。 バババババンッ! 伊東軍前衛の鉄砲組が一斉に火縄を切り落とした。 唸りを上げる鉛弾の雨が、三角田の泥水を激しく跳ね上げる。
「ぐわあっ!」
儂の真横で手綱を握っていた馬廻の一人が、喉笛を撃ち抜かれて泥田へと真っ逆さまに落ちていった。
「殿ッ! 退かれよッ! 早く馬首を返されよッ!」
泥水を浴びせかけながら、儂の前に馬体を割り込ませてきたのは、宿老・遠矢志摩守良賢だった。 五十五歳の歴戦の顔面は蒼白だったが、その眼光の奥には、すべてを覚悟した武士の静謐な焔が灯っている。
「何を言うか、良賢! そなたたちを残して退けるか! 共に突き破るぞッ!」
儂は十文字槍を力任せに握り直した。 だが、良賢の濡れた革手袋が、儂の長寿院栗毛の手綱を万力のような力でひっつかんだ。
「たわけたことを仰せられるなッ!」
雷鳴のごとき怒声が、銃声の轟く泥田をつんざいた。 飯野に入部して以来、儂を我が子のように見守り、時に厳しく諫めてきた老臣の、生涯で最後の一喝。
「木崎原へ退かれよ! あそこには加久藤からの援軍も、本地口の伏兵も控えておりまする! 殿がここで討死仕れば、島津の家は今日この場で滅びるのじゃぞッ!」 「良賢ッ……!」 「儂らは、殿を逃がすためにここまでついて参ったのじゃッ!」
良賢は手綱を乱暴に放すと、泥まみれの五名の将へ向けて振り返った。
「半五左衛門! 弥九郎! 掃部助! 七郎右衛門! 五郎左衛門ッ!」
近習の久留半五左衛門が、愛馬を射倒されながらも泥の中から立ち上がり、身の丈五尺の大太刀を抜いて獰猛に笑った。
「合点でござる! 殿の御首、日向の田舎侍になど渡してなるものかよ!」
近習番頭の上原弥九郎が、己の十文字槍を泥田の底へ深々と突き立て、仁王立ちして敵の先頭を睨み据えた。
「島津の引く道は、ここより先にはござらん!」
飯野衆の古参・西掃部助が、腰の法螺貝を唇に当て、天を衝くような退却の重低音を吹き鳴らした。 ボオォォォ、と霧を裂いて響き渡る。 弓頭の有馬七郎右衛門が、泥水に矢束をぶち撒け、狂ったように弓を引き絞って突進してくる敵の胸板を次々と射貫いていく。
「殿を追う者は、この七郎右衛門の矢を受けてからにせいッ!」
そして近習馬廻の肥後五郎左衛門が、儂の長寿院栗毛の尻を、手にした槍の柄で思い切り叩いた。 バシィィッ!
「走れッ! 殿をお乗せして木崎原へ走れィッ!」
ヒヒィィィンッ! 栗毛が甲高く嘶き、泥濘を力任せに蹴破って前へ飛び出した。
「待てッ! 待て、お前たちッ!」
儂の喉裂けんばかりの絶叫は、二千の敵軍の怒号と猛烈な銃声にかき消された。 振り返る儂の視界の奥で、六人の重臣たちが、泥田の中で扇形に散開し、二千の津波へ向けて逆突撃を仕掛けていた。
「島津兵庫頭が家臣、遠矢志摩守良賢! 命の惜しくない者はかかって参れッ!」
良賢の十文字槍が、敵の騎馬武者の喉笛を貫く。 だが、次の瞬間、四方から繰り出された十数本の長槍が、良賢の甲冑を無残に貫き通した。 鮮血を吐きながら、良賢は自らの腹に突き刺さった敵の槍の柄を両脇で抱え込み、一歩も退かずに立ったまま絶命した。 久留半五左衛門が泥を這いながら大太刀を振るい、敵の足軽三人を両断した末に、頭上から撃ち込まれた鉄砲弾を眉間に浴びて泥濘に沈んだ。 上原弥九郎が、西掃部助が、有馬七郎右衛門が、肥後五郎左衛門が。 己の肉体をただの肉の防壁として、伊東軍の足を泥田に縫い止めるためだけに、次々とすり潰されていく。
(良賢……! 半五左衛門……ッ!)
夜叉の化粧の奥で、視界が真っ赤に滲んだ。 濃墨と紅の粉が、溢れ出る涙と脂汗でドロドロに崩れ、顎先からポタポタと朱の雫となって滴り落ちる。 胸が張り裂けそうだ。 馬首を返し、戻って共に刺し違えて死ぬことなど、どれほど容易いか。 武士として討死を遂げるなら、これほど気楽な幕引きはない。 だが――儂は手綱を引かなかった。 手綱を引けば、六将の命をただの犬死に貶める。 加久藤に残した妻子も、命がけで隘路を死守した又八たちも、すべてが日向侍の刃に撫で斬りにされるのだ。
「泥水を啜ってでも生きろ」
亡き父・貴久の冷酷な言葉が、骨の髄に突き刺さっていた。 生き残らねばならぬ。 勝たねばならぬ。 あやつらが命と引き換えに買い取ってくれたこの血の退路を駆け抜け、儂は何としても木崎原へ辿り着かねばならぬのだ。 三角田の泥濘を脱出した島津軍は、もはや五十騎足らずにまで激減していた。 誰もが泥と返り血に塗れ、肩で息を乱しながら、木崎原の平野へ続く街道をひた走る。 だが、伊東の本隊二千は、六将の肉壁を力づくで踏み越え、凄まじい喚声を上げて背後に迫っていた。
「逃がすなッ! 兵庫頭の手勢は手負いじゃ! 一人残らず討ち取れッ!」
敵の先頭集団が、あと五十間の距離まで迫る。 追いつかれれば、平野へ出る前に背後から切り刻まれて全滅する。 その時だった。 街道の脇にそそり立つ白鳥山の山腹――深い木立の隙間を、追撃の先頭にいた伊東軍の武者が仰ぎ見て、突如として足を止めた。
「待て! 山を見ろ!」
夜明け前、敵先鋒を加久藤から池島川へ追い落とすために光厳上人らが掲げた白旗が、依然として尾根筋の木々の間に何十本も翻っていたのだ。 早朝の鉦や太鼓の乱打はすでに止んでいた。 だが、一度「伏兵あり」と刻み込まれた恐怖の残像は、逃げる島津を追う敵の目を激しく狂わせた。 静まり返る白鳥山の深い樹林。 木々の葉が風にざわめくだけで、山肌の陰に何百、何千の伏兵が息を潜めているように見えてしまう。
「まだおるぞ! 白鳥山に伏兵が潜んでおる!」 「山道へ入るな! 上から挟み撃ちにされるぞッ!」
追撃の勢いに乗っていた伊東軍の先頭が、自ら生み出した疑心暗鬼によって街道の真ん中で急激に足を乱し、詰まり始めた。 山林の影を恐れた敵兵たちは、遮蔽物のない木崎原の低地へと、互いの隊列を押し合いながら迂回を余儀なくされていく。
(光厳の旗が、まだ効いているのか)
儂は走りながら、背後の白鳥山を盗み見た。 策が二度決まったのではない。 上人たちが山上に残していった布切れ一枚、山伏や百姓たちの見えぬ気配が、六将の死によって稼がれたわずかな時間を、さらに数十秒引き延ばしてくれたのだ。 二千の巨体を持て余した伊東軍は、山を恐れるあまり、細長い塊となって木崎原のすり鉢の底へと自ら吸い込まれていく。
「木崎原へ入れッ!」
儂は手綱を引き絞り、生き残った四十数騎へ向けて吼えた。
「敵は山を恐れて平野へ下りてくる! 狩場へ追い込まれたのは敵の方じゃッ!」
初夏の陽光が照りつける木崎原の荒野。 遠矢良賢ら六人の血の代償をその身に刻みつけた島津兵庫頭義弘の、本当の反撃が始まろうとしていた。
木崎原外伝・第2話でした。
今回は、後世で鬼島津と呼ばれることになる義弘の「敗走」を描きました。
六将に背を預け、生き延びる。その苦さを抱えたまま、義弘は木崎原へ向かいます。
次はいよいよ本戦です。
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