第38話 木崎原の残照と「島津崇清」の元服
木崎原の広野を焦がしていた初夏の陽光は、やがて紫紺の薄暮へと沈みかけていた。
草いきれと泥の匂いに混じり、風に乗って運ばれてくるのは、咽せ返るような血の残滓と立ち込める硝煙の臭気。遠く鬼塚原(粥餅田)の彼方から、追撃を終えたことを告げる島津の法螺貝が、野太く、低く響き渡っていた。
「終わった、のか」
弥三郎が枯れ草の上に膝から崩れ落ち、泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪めて呟いた。
「終わったんだよ、弥三郎」
俺――十四歳の楠千代丸は、懐の麻布を取り出し、炭と泥で汚れた指先を拭った。声がひどく掠れている。
加久藤城の鑰掛口を死守し、背後の間道を固め、敗走する伊東軍を義弘兄上の仕掛けた罠へ追い落とした後、残った手勢を率いて木崎原後方の再編地点へ合流してから、無我夢中で負傷兵の手当てと陣の整理に走り回っていた。
俺たち十五名の手勢のうち、無事に生き残ったのは十二名。
中村兼貞は鑰掛口の最前線で敵の槍を脇腹に挟み込んで絶命し、長吉は遮蔽の竹束を打ち直す矢雨の中で果て、疾風は城背後の崖下で伏兵を偽装し、敵の退路を断った末に散った。
いま、俺のすぐ後ろには、泥だらけの具足を軋ませた甚兵衛と猪之助、銃身を冷ましながら佇む楓、そして山岳の物見から戻った道純と小六が控えている。誰もが疲れ果て、口を開く気力すら失っていた。
首級は一つもない。俺がやったのは、持ち場を保ち、兵站を回し、率いてきた兵を可能な限り殺さずに連れ帰ることだけだった。
「若君」
背後から声をかけてきたのは、加久藤城代・川上忠智だった。
その兜や胸板には生々しい返り血が幾筋もこびりつき、肩で荒い息をついている。
「兵庫頭様が、飯野城へ戻られた。若君も参られよ。本丸の広間へとお呼び立てじゃ」
「分かりました」
俺は腰の刀を確かめた。獅子目を出陣する際、母・楠御前から「人を守るために帯びよ」と託された守り刀。戦乱の泥と煤を浴びながらも、この刀は一度も鞘から抜かれていない。俺は刀の柄にそっと触れ、忠智の後を追って歩き出した。
飯野城の本丸大広間には、夜の帳とともに、勝鬨の余韻とは裏腹な重苦しい静寂が満ちていた。
上座に座すのは、島津兵庫頭義弘。
出陣の際に施されていた鬼神の如き隈取と白粉は、汗と返り血と煤によって半ば崩れ落ち、手ぬぐいで乱暴に拭い去られた跡が生々しい。その白皙の素顔には、ただ底知れぬ疲労と、深く沈み込むような痛恨の色が張り付いていた。
三角田の泥田で伊東祐信を討ち取ったものの、その直後、敵本隊の猛反撃から義弘を逃がすため、宿老・遠矢志摩守良賢をはじめとする六重臣が盾となって散ったのだ。
広間の下座には、粥餅田まで伊東軍を追いすがり、阿修羅のごとく暴れ回って帰還した大口城番・新納武蔵守忠元が、血脂で刃のこぼれた大身槍を従者に預け、どっかりと板敷きに胡坐をかいて控えている。
忠元は白髪交じりの髭を撫でながら、飯野へ戻ったばかりの俺の姿を、鋭く射抜くような眼光で見つめていた。
「忠智」
義弘の掠れた重い声が、板敷きを伝って響いた。
「加久藤の城はどうであった。誰が守った」
忠智は進み出ると、膝を突き、深々と平伏した。
「落ちませなんだ。若君は自ら前に出ず、兵站を回し、退くべきを見極め、城の背後を守り抜きました。……あのお方がおらねば、加久藤は落ちておりました」
広間詰めの武将たちが、かすかにどよめいた。
義弘の双眸が、ゆっくりと俺へ据えられる。
「又八」
「はっ」
「何人討ち取った」
「首は、一つも取っておりません」
「何だと?」
広間の隅から、若い近習たちの呟きが漏れかけた。だが義弘は手をわずかに挙げ、それを制した。
「手勢の損害は」
「十五人率い……中村兼貞、長吉、疾風の三名が討死いたしました。全員を生かして連れ帰れとの仰せ、果たせませなんだ。我が差配の拙さゆえにございます」
沈黙が広間を支配した。
張り詰めた空気の中、義弘は動かない。弥三郎が息を呑み、甚兵衛が身を強張らせる。
やがて、義弘が低く息を吐いた。
「上出来だ。敵の首など、功名に狂った足軽でも取れる。手柄欲しさに突撃し、手勢をすり潰して首を持って帰るような奴は、将ではない。貴様は十五人を率いて加久藤の喉首を支え、十二人を連れて帰ってきた。それで足りる」
「しかし、兵庫頭様! 首級も挙げず、身内の兵を損じた者をそこまで買いかぶられては――」
広間の武頭の一人が思わず異を唱えかけた、その時であった。
ドシン、と床板を激しく踏み鳴らして立ち上がった男がいた。
新納武蔵守忠元である。
忠元は仁王のような偉躯を揺らし、のしのしと俺の前まで歩み寄ると、ぐっと身を屈めて俺の顔を覗き込んできた。
「そなたが、大隅の又八殿か」
地を這うような重低音。後ろで弥三郎が喉を鳴らして縮み上がる。
だが俺は視線を逸らさず、老将の爛々と光る双眸を真っ向から見据え返した。
次の瞬間、忠元の唇が豪快に裂けた。
「ガハハハハッ! 噂通りの面構えよ! 二年前、大口へ届いた極上の塩と豚汁の味、忘れもせんぞ!」
広間が凍りついた。義弘が怪訝そうに眉を寄せる。
「武蔵守? 貴様、又八を知っておるのか?」
「知っておるとも! 兵庫様、先ほど口を挟んだ腑抜けの戯言など気に留めるに及ばん! この又八殿はな、二年前、大口が飢えと弾薬不足で干上がりかけた折、本家の蔵役人が見捨てた儂らに、極上の兵糧と孟宗竹を黙って送り届けてくれた命の恩人よ!」
忠元は太い掌で、俺の肩をバシバシと力任せに叩いた。
「首級など足軽の欲張りに過ぎん! 狭隘地に孟宗竹を打ち込んで敵の足を止め、矢を滞りなく運び、部下を生かして連れ帰る……。泥水をすすって命を繋ぐことの重み、この大激戦を生き残った儂らには痛いほど解るわ! 兵庫様、儂はこの男を認めるぞ!」
義弘は呆気にとられたように忠元を見つめ、やがてフッと口元を緩めた。
「武蔵守にそこまで言わせるとはな」
義弘は立ち上がり、ゆっくりと上段から降りてくると、平伏する俺の前へ立った。
「又八。貴様が腰に差しておるその刀、一度でも鞘から抜いたか」
「いえ。一度も抜きませなんだ」
「抜かずに城を保ち、人を連れて帰ったか。良い刀だ。母御の祈りに、見事に応えよったな」
義弘は低く告げた。
「戦場で人を率い、兵の命を背負うた男に、いつまでも又八などという童名を名乗らせておくわけにはいかん。儂が烏帽子親を務める。今宵、元服せよ」
広間が水を打ったように静まり返る。
「亡き父上・貴久様より、その志を継ぐべく一字を取る。だが、本家の正統なる血脈に無用なわだかまりを残さぬため、『貴』の字をそのままは与えん。同じ音を持ち、高く尊きを意味する『崇』の字を授ける。そして、母方の蒲生が代々受け継いできた通字『清』を継げ。名は、崇清。今日より貴様は、島津崇清じゃ」
島津、崇清。
父・貴久の音を借りた「崇」と、母の生家・蒲生の「清」。
本家の継承権を主張させぬための首輪であり、同時に、日陰の妾腹を島津の一門武将として公認するための防護壁。
だが、それ以上に――泥水を啜り、三人の部下を失い、それでも十二人を連れて生還したこの泥塗れの戦場で与えられたその名に、俺の胸の奥底が熱く脈打った。
「謹んで、拝領仕ります」
俺は額を板敷きに擦り付け、深く頭を下げた。
平伏を解いた俺に、忠元がニヤリと豪快な笑みを浮かべて囁きかけてきた。
「崇清殿。次は、大口にどれほどの米を回してくれるのじゃ?」
「武蔵守殿。相応の鉄を掘り出してくださらねば、一石たりとも負けられませんよ」
「カッカッカ! 相変わらず強欲な商人よな!」
木崎原の残照が、飯野城の障子を赤く染め抜いていく。
初夏の風が吹き抜ける広間で、俺は新しく授かった己の名を、静かに噛み締めていた。
木崎原の戦いを、ここまで書き終えました。
史実として知られている木崎原合戦を下敷きにしながら、今回は少し違う角度から、この戦いを描いてみました。
勝った、負けた。
何人討ち取った。
誰が武功を挙げた。
そうした数字や武勇だけではなく、その土地で何が起き、そこにいた人々が何を守り、何を失ったのか。
そして、十四歳の楠千代丸が、戦のあとに何を持ち帰ったのか。
木崎原を越えた彼は、もう「楠千代丸」ではありません。
新しく授かった名は――島津崇清。
その名が彼にとって何を意味するのか。
そして、その名を背負った少年が、これからどこへ向かうのか。
それは、まだ先の話です。
ひとまず今は、木崎原の野に吹いていた風が、少しずつ静まっていくところまで。
第三部「木崎原風雲録」、ここに幕といたします。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




