第5話:中庭のアップサイクル
本日2話目です。最新話から来た方は第4話もご覧ください。
「……冷たい! 痛い! 痺れる! 若君、僕ぁね、もう指先の感覚が完全に消え去りましたよ!!」
初夏の朝だというのに、裏庭の井戸端から弥三郎の悲鳴じみたボヤキが響き渡った。
膝まで袴をまくり上げ、泥除けの前掛けを締めた弥三郎が、冷水がなみなみと張られた大樽の前で両手を激しく振っている。その指先は水に長時間浸されたせいで紫色に変色し、寒さで小刻みに震えていた。
「弥三郎、手を止めるな。繊維が沈殿する前に竹べらで均一に撹拌しろと言っただろ」
俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足で踏み台によじ登り、樽の中身を上から覗き込んだ。
樽の中に浮いているのは、ドロドロに溶かされた灰白色のパルプ液だ。
材料は、城内の右筆や勘定役が捨てた書き損じの反故紙と、楠行者衆が山から刈り集めてきた野生のコウゾの樹皮の端切れ。それらを竈の木灰と一緒に煮沸してアルカリで繊維をほぐし、水桶の中で丹念に叩き潰したものだ。
「均一に撹拌しろって言われましてもね! なんで侍が、朝の五つ(午前八時)から冷水に手を突っ込んで紙くずをこね回さなきゃならんのですか! ほら見てくださいよ、手のひらの皮がふやけてシワシワのおじいちゃんみたいになってますよ!」
「文句を言うな弥三郎ッ! 若君がお示しになられた『蒲生和紙』の再生ぞ! 亡き殿の御代には、我が蒲生の漉き紙は上方でも高く売れた名産品じゃ! 誇りを持って紙を漉かんかい!」
背後から太い怒鳴り声を上げながら、甚兵衛が重い木枠(紙漉き桁)を抱えて歩み寄ってきた。
五十を過ぎた老武士の額には大粒の汗が浮かび、腕まくりした太い前腕には木灰と泥がびっしりとこびりついている。
「爺様、あんたねえ! 『誇りを持って』とか言う前に、その木枠の簾が斜めに歪んでるのを直しなさいよ! ほら、さっき爺様が漉いた紙、右半分だけ板みたいに分厚くて左半分は透け透けの網になってましたよ! 誇りだけで紙が平らになるかァッ!」
「ぐ、ぐぬぬ……! 儂の手は槍を握るための手じゃ! このような細々とした竹網など……!」
「握れないなら威張り散らさないでくださいよ! 結局俺とまつさんが全部やり直してんじゃないですか!!」
弥三郎が泡立つ泥水を跳ね上げながら吠え返す。
その横で、実直な侍女のまつ(二十代)が手際よく竹べらを操り、慣れた手つきで繊維をほぐしていた。
「弥三郎さん、怒鳴ると唾が樽に入りますよ。……若君、コウゾの繊維が綺麗に煮溶けて、ちょうど良い粘りが出てまいりました」
「さすがだな、まつ。……ちよ、ノリウツギの根を叩いた粘液を少しずつ樽に足してくれ」
「はい、若君!」
母と同い年である二十歳のちよが、すり鉢で粘り気を出した植物の樹液をちょろちょろと注ぎ込む。
これが紙漉きの肝となる分散剤だ。繊維が水中でダマにならず、均一に広がるようにするための伝統の知恵である。
(……現代のオフィスで裏紙をコピー機に再セットするレベルのアップサイクルだが、戦国時代じゃ立派な高付加価値ビジネスだ)
俺は手元の薄板に炭でメモを取りながら、頭の中で数字を弾いた。
戦国大名の城内では、軍令、兵糧の出納帳、寺社への寄進状など、毎日大量の和紙が消費され、そして書き損じとして捨てられている。紙は当時、貴重な高級品だ。
島津の役人からすれば「ただのゴミ」として裏庭の雑木林に投棄されていた反故紙をタダ同然で回収し、山のコウゾを混ぜて漉き直せば、元手ゼロで上質な『蒲生再生和紙』へと化ける。
「……若君。城下の文房具屋や薬種屋へ持って行けば、この漉き直した紙は一枚どれくらいで売れるのです?」
弥三郎が息を整え、冷えた手を息で温めながら尋ねてきた。
俺は手元の板を軽く叩いて答える。
「白く滑らかに仕上がった上等なものは、十枚で銅銭十文から十五文。薬を包む薬包紙や、商人の帳簿用として飛ぶように捌ける。……一日百枚漉けば、それだけで銭百文。米にして一斗――大人が一月あまり食いつなげる稼ぎになる」
「ガハハ! 聞いたか弥三郎! ゴミ同然の紙くずから日銭百文じゃ! これぞ蒲生八幡の御神木の霊験! 儂らの内職が島津の雀の涙の配給を凌駕するのじゃぞ!」
甚兵衛が自慢げに胸を叩く。
だがその横で、冷水で紫色に変色した指先を擦り合わせていた弥三郎が、半目で俺を見下ろしながら冷たいツッコミを放った。
「……あの、若君。夢のある数字を並べてくれるのは大変ありがたいんですがね」
「なんだ、弥三郎」
「その『百文儲かる』って計算、俺とまつさんの手間賃はちゃんと引いてあるんですか?」
弥三郎は手にした竹べらを樽の縁にカツンと当て、長いため息をついた。
「朝から冷水に手を突っ込んで、腰を曲げて紙を漉いて、夜には板に張って乾かす。これ、大人が丸一日かかりきりですよ。百文稼いでも、俺たちが腰を痛めて寝込んだら薬代で全部吹き飛びます。差し引きゼロなら、ただのタダ働き……僕ぁね、それこそ割に合わない過労死案件だと思いますよ」
(……鋭い。十五歳の戦国武士のくせに、労務コストの概念を感覚で掴んでやがる)
俺は内心で舌を巻きつつ、苦笑いを浮かべた。
「安心しろ弥三郎。お前たちをタダ働きさせる気はない。漉き上がった和紙の売上の二割は、お前とまつの『日当』として直払いする。甚兵衛、お前が城下の薬種屋へ運んで売り捌いてきた分も、運搬費として一割を落とす」
「な、日当……!? 内職で銭が貰えるのですか!」
弥三郎の目が一瞬で輝き、背筋がピンと伸びた。現金な奴だ。
「当たり前だ。タダ働きで士気が続くわけがない。それに、まつのおかげで作業効率は想定の倍以上で回っているからな」
俺が視線を向けると、まつが照れくさそうに笑いながら木枠(紙漉き桁)を水桶から引き上げた。簾の上には、ムラひとつなく均一に広げられた極上のパルプ層が、白く輝いている。
「若君、買いかぶりでございますよ。私は蒲生城下にいた頃、実家が紙漉き小屋を営んでおりましたゆえ……昔取った杵柄というやつでございます」
まつはそう言って、冷水で真っ赤に腫れた手を愛おしそうに擦り合わせた。
蒲生が滅び、島津の奥向きに連れてこられてからは二度と触ることもないと思っていた家業の技。それが今、五歳の若君の企てによって、屋敷の命を繋ぐ武器として蘇ったのだ。
「まつ、お前の腕は見事だ。和紙の漉き枠の調整と品質管理は、すべてお前に任せる。ちよ、お前はまつから紙漉きの手順を学べ」
「はい、若君!」
ちよが元気よく頷き、竈の灰を掻き出しに走る。
奥向きの庭先に、確かな生産ラインの熱気が満ち始めていた。
「……で、若君。さっき言ってた『本命事業』ってのは何なんです?」
日当の話を聞いてすっかりやる気を出した弥三郎が、身を乗り出して尋ねてきた。
俺は裏庭の生垣に青々と茂るヤブツバキの木々を見据えた。
「和紙の売上で得た日銭を使って、城下の鍛冶屋に木製の圧搾機(万力)を作らせる。……そして霧島の楠行者衆が山から集めてくる大量の椿の実を、一気に搾油するんだ」
「あ、油絞りですか! 確かに椿油なら髪油や灯火用に高く売れますが……」
「油をそのまま売るんじゃない。……この漉き直した上等な蒲生和紙で包むにふさわしい、南蛮渡来の超高付加価値商品を作る」
俺は竈の白い木灰を指先ですくい取り、手のひらの上で転がした。
「椿油と、この木灰から抽出した強アルカリの灰汁を一定の温度で煮溶かし、型に流し込んで固める。……南蛮船が銀十匁を積まねば譲らない幻の薬石、『サボン(石鹸)』の量産試作に入るぞ」
「さ、さぼん……ッ!?」
弥三郎が息を呑み、甚兵衛が目を剥く。
手作りの再生和紙で小銭を稼ぎ、日々の食い扶持と開発資金を確保する。
そしてその和紙で包み込むのは、戦国大名の勢力図すら揺るがしかねない「白い金塊」――。
だが、事業が次の段階へ進むということは、現場に新たな想定外のトラブルが待ち受けているということでもあった。
初夏の生ぬるい風が生垣を揺らした瞬間、弥三郎が「うわっ……!?」と首筋を押さえて飛び上がった。
「痛っ……! な、なんだ!? 首のあたりがチクチクして、猛烈に痒い……!」
青々と茂る椿の葉の裏で、毒々しい黄色い毛虫たちが、びっしりと蠢いていたのである――。
次は12時です。ストックがまだあるので飛ばします。




