↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/28

第4話 山奥の全裸待機



五月雨の晴れ間に、初夏の強い日差しが照りつけていた。

屋敷の裏庭では、弥三郎が竹箒を放り出し、濡れ縁に手をついて肩で息をしている。

「……あー、腰が痛い。なんで五歳児の指図で、十五の俺が生垣の泥掃除なんぞ……。痛てて、首筋の湿疹が汗で沁みる……」

額の汗を麻の手ぬぐいで乱暴に拭いながら、弥三郎は死んだ魚のような目で空を見上げた。

その背後から、ドスドスと板敷きを踏み鳴らす重い足音が迫る。

「これ弥三郎! なにを腑抜けた面をして突っ立っておるか! 早く背負子しょいこに米袋を積み込まんかい!」

白髪交じりの髭を怒りで逆立て、両手にずっしりと重い麻袋を抱えて現れたのは甚兵衛だ。五十を過ぎた老体とは思えぬ頑丈な足取りで、庭先の荷車へと米袋を叩きつけるように置いた。

「爺様、頼むから急かすなよ……。こっちは朝から生垣の枝切りと和紙漉きの木桶洗いで腕が上がらねえんだよ。……で、本当にこれを持って霧島の山奥まで行く気ですか? 片道だけで丸一日潰れますよ」

「当たり前じゃ! 霧島の山中で飢えに苦しむ同胞たちに、若君が直々に賜った命の糧ぞ! この甚兵衛、這ってでも届けてみせるわい!」

甚兵衛の目には、熱い光が宿っていた。

主家・蒲生家が滅びて九年。生き残った者たちの多くが島津の顔色を窺い、あるいは山林で野垂れ死んでいく中で、奥向きに押し込められた幼き若君が、自らの飯を削って山奥の残党に手を差し伸べたのだ。古武士の情念が沸騰しないはずがなかった。

「二人とも、声が大きい。表の目付に勘づかれるぞ」

俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足取りで縁側を進み、二人の前に立った。手には、昨晩から薄く削った木板に書き連ねておいた「指示書」を握りしめている。

「若君! ご安心召されませ! この老骨、命に代えましても楠行者衆の頭領へ若君の御心を伝えて参ります!」

甚兵衛が地面に膝をつき、泥も構わず深々と額を擦り付けた。その横で、弥三郎が心底呆れたように天を仰ぐ。

「……爺様、だから土下座しながら叫ぶなっつってんでしょうが。……で、若君。あの偏屈な山伏ども、米を数俵持って行ったところで、本当に言うことを聞きますかね? あいつら、蒲生城が落ちた時ですら『山こそが我が修験の場』とか言って誰の指図も受けずに山奥へ引き籠もった連中ですよ」

「弥三郎、ただ米を渡すだけなら、単なる『恵んでやった施し』で終わる。飢えが凌げれば、彼らはまた山奥の殻に閉じこもるだけだ」

俺は首を横に振り、手元の木板を甚兵衛の前に差し出した。

「米を渡すのは、あくまで『顔繋ぎの挨拶』だ。重要なのは、その後に彼らを雇用することにある」

「こ、こよう……?」

甚兵衛が怪訝そうに顔を上げ、眉間の深い皺を寄せた。弥三郎も「また出たよ、若君の訳の分からん呪文……」と小さく呟きながら耳を傾ける。

「行者衆が山から出られないのは、島津が街道を封鎖し、他家への仕官ルートを遮断しているからだ。彼らは山奥に孤立し、木の根や野草をかじり、着る物すらボロボロになって全裸に近い状態で冬の寒さに怯えている。生きるための手段を完全に失っているんだ」

俺は木板の端に彫り込んだ簡単な記号を指でなぞった。

「そこで、彼らに二つの仕事を発注する。一つは、霧島山系に自生するヤブツバキの実や香草の採取。集めた品は、我が屋敷が定額の米と塩で買い取る。そしてもう一つ――これが最も重要だが、霧島山系から大隅・日向へ抜ける間道の巡回と、狼煙による定期通信網の構築だ」

「狼煙……! 間道の哨戒でございますか!」

甚兵衛が息を呑んだ。

山岳修験者としての行者衆の機動力と地理感覚は、どんな歴戦の武士団よりも優れている。険しい岩肌を猿のように駆け、獣道を知り尽くした彼らに哨戒網を敷かせれば、それは戦国最強の山岳情報ネットワークへと化けるのだ。

「山伏たちにプライドを捨てて物乞いをさせるのではない。『お前たちの山の知恵と脚力を、正式な任務として買い取る』という契約を結ぶんだ。……甚兵衛、頭領にはこの木板を見せ、こう言え」

俺は一息つき、鋭い眼光で老臣を見据えた。

「『蒲生の誇りを捨てるな。山を降りて百姓になる必要もない。お前たちは山岳の番人として、蒲生八幡の神木を守る“影の盾”となれ。そのための糧は、我が屋敷が責任を持って支給し続ける』――とな」

静まり返る裏庭。

甚兵衛の肩が小刻みに震え出し、やがて大粒の涙が白髪混じりの髭を伝ってボロボロと地面に落ちた。五十を過ぎた頑固な顔を紅潮させ、地面に拳をめり込ませながらはなをすすり上げる。

「……若君。この老いぼれ、胸が熱うて張り裂けそうでございますぞ……! 敵の奥向きに押し込められ、油や炭を値切られてひもじい思いをしておられる若君が……山奥で木の根をかじる儂らの同胞に、身銭を削って誇りを与えようとされるとは……。これぞ真の蒲生の主君、大楠の若木じゃ……っ」

絞り出すような老臣の言葉に、隣の弥三郎が手元の麻紐を締め上げながら、深々と長いため息をついた。

「……爺様、もうわかったから声を落としなさいよ。門の外の目付に聞かれたら一発で終わりですよ。それに、泣き叫ぶのは勝手ですが、早く背負子を担いでくれませんかね。日が暮れちまいますよ」

「だまりゃ弥三郎ッ! この情義に打たれんで何が蒲生の男児か! お前には血も涙もないのか!」

「血も涙もあるから、こうして背負子に米を積みながら胃をキリキリ痛めてんでしょうがァッ!!」

弥三郎は荷車の留め木を叩き、俺に向き直って呆れ顔を浮かべた。

「……若君。言ってる理屈は分かりましたよ。要するに、ただの施しで餌付けするんじゃなくて、椿の実拾いと山道の見張りをさせて銭を払うってことですね。……でもね、あいつら本当に言うことを聞きますかね? 蒲生が滅びてから丸六年、誰とも口を利かずに霧島の山奥で獣みたいに引き籠もってる頑固者の集まりですよ」

「聞かせるさ」

俺は縁側に手をつき、木板に刻んだ割符を指先で叩いた。

「彼らは頑固だからこそ、義理と筋目には誰よりも脆い。他家に頭を下げて百姓になることを拒み、誇りだけで山に踏みとどまっている連中だ。……なら、『若君の密命を受け、山岳の番人として蒲生を守る』という大義名分を与えてやれば、命を賭してその役目を全うする」

飢えた専門職集団に、最も刺さる役割と居場所の付与。

現代の事業再生でも同じだった。プライドの高い現場の職人を動かすのは、小手先の金銭ではなく「自分たちの技術が必要とされている」という強烈な承認なのだ。

「甚兵衛、急ぎ山へ向かえ。道中、島津の関所や見回りにはくれぐれも警戒しろよ」

「ははっ! この甚兵衛、たとえ島津の追手に囲まれようとも、若君の御手紙と米袋だけは必ずや頭領・道純どうじゅんの元へ届けてみせますぞ!」

甚兵衛はずっしりと重い背負子を軽々と担ぎ上げ、気迫に満ちた足取りで裏木戸を抜けていった。

その後ろ姿を見送りながら、弥三郎がぽつりと呟く。

「……行ったよ、あの猪ジジイ。止めても無駄でしたね」

「弥三郎、お前もぼさっとしている暇はないぞ。甚兵衛が山から戻るまでに、和紙漉きの木桶を直して、裏庭の生垣の手入れを終わらせるんだ」

「……はいはい。やりますよ、やればいいんでしょ! 泥まみれになりゃあいいんだろ泥まみれにィッ!」

弥三郎は悪態をつきながらも、手際よく竹箒と鉈を握り直して庭の奥へと駆けていった。

――それから三日後の深夜。

五月雨が屋敷の瓦を静かに叩く中、濡れ縁の雨戸が微かに軋んだ。

(……来たか)

擦り切れた敷布から音もなく起き上がり、俺は障子の隙間から縁側を覗いた。

そこには、泥と雨水に濡れそぼった甚兵衛と、漆黒の蓑をまとった見知らぬ山伏が一人、獣のように低く蹲っていた。

山伏は頭巾を乱暴に剥ぎ取ると、濡れた板敷きに両手をつき、獣じみた鋭い双眸で俺を見据えてきた。

四十がらみの引き締まった筋骨、風雪に削られた銅色の肌、そして顔半分に刻まれた古い刃傷。楠行者衆の頭領・道純である。

「……若君か」

地を這うような野太いしわがれ声だった。

その無骨で節くれだった掌には、俺が甚兵衛に預けたあの薄い木板の指示書が、握り潰さんばかりの力で握られている。

「山で飢え死にかけとった俺たちに、飯を寄越してくれたばかりか……『山を降りるな、誇りを捨てずに番人を務めろ』だと?」

道純の喉がゴクリと鳴り、眉間の深い傷痕が歪んだ。

「島津に首根っこを押さえられ、他所の大名からも野盗扱いされて見捨てられた俺たちに……敵の城の奥底で、こんな小僧が山を守る大義を寄越すとはな。……骨の髄まで、熱いもんが滾り申した」

道純は板敷きに頭を叩きつけるようにして平伏した。

「行者衆三十二名、これより若君の手足となり、山の盾となりて命を張る。……椿の実だろうが、山道の見張りだろうが、何なりと申し付けくだされ。霧島の山林、木々一本に至るまで若君の耳目に仕立て上げてみせましょうぞ」

「道純、頼んだぞ。……まずは手筈通り、ヤブツバキの実を集め、甚兵衛を通じて運び込んでくれ。大隅から日向へ抜ける間道の警戒も怠るな」

「御意。……抜かることはありませぬ」

道純は獰猛な光を宿した瞳で低く唸ると、音もなく闇の中へと溶けるように跳ね、雨の雑木林へ消え去った。

(――よし。裏のインテリジェンス・サプライチェーン、まずは開通だ)

前世のコンサルタントとして組んだ、最も泥臭く、最も強固なアライアンス契約。

山奥で飢餓に瀕していた修験者集団を手中に収めたことで、俺たちの生存プロジェクトは、いよいよ本格的な「内職と生産のフェーズ」へと移行しようとしていた。

9時にももう一話投稿します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。