第3話 暴走する忠義と、油まみれの決算書
2話同時投稿です。
最新話から来た方は一つ前の「第2話 屑米決算のうえ、五歳児、サボン事業に着手する」もご覧ください
翌朝の裏庭は、前夜の小雨を含んだ湿った土の匂いに包まれていた。
敷地の隅に生い茂るヤブツバキの生垣の前に、二つの人影が立っている。 一人は、白髪交じりの濃い髭を蓄え、擦り切れた野良着の腕を組んで仁王立ちする老人。 もう一人は、十七、八の若さで頭一つ分背が高く、泥除けの手甲を直しながら死んだ魚のような目で生垣を睨みつけている若者だ。
「……若君。城外より、甚兵衛様と弥三郎をお連れいたしました」
背後で侍女長の岩崎が低く声をかけ、膝をついた。 俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足で縁側の板敷きを踏みしめ、庭先を見下ろした。
その姿を視界に捉えた瞬間、老人の顔がクシャクシャに歪んだ。 全身から、隠しようのない濃密な熱量と情念が湯気のように立ち上っている。
「おお……! おお、楠千代丸様……っ! まこと、亡き範清様の面影を宿した凛々しきお姿……! この甚兵衛、嬉しゅうて涙が出ますぞ……!」
ドスドスと地面を踏み鳴らし、縁側の手前に膝を突いて額を泥に擦り付ける甚兵衛(蒲生忠清)。 かつて蒲生城で槍を振るい、落城後は百姓同然に身をやつしながらも、亡き殿から託された楠御前のお守り役を全うしようとする忠義一徹の古武士だ。
その隣で、若者の弥三郎(蒲生清忠・十五歳)が首筋をボリボリと掻きながら、深々と重いため息を吐き出した。
「……爺様、頼むから土下座しながら叫ぶのやめてくださいよ。声がデカい。表の島津の目付に聞かれたらどうすんですか。それに『凛々しい』って言っても、どう見てもただの五歳の童でしょうが」 「だまりゃ弥三郎ッ! 蒲生八幡の御神木、大楠の若木たる若君に対してなんたる無礼か! 頭が高骨じゃ! 控えんかい!」 「はいはい、控えましたよ。頭下げてますよ。……で、岩崎様。話って何です? まつの旦那から『若君が城外の蒲生を呼んでおられる』って聞いたから、朝飯も食わずに走ってきたんですけど」
弥三郎は形ばかり頭を下げつつ、眉をひそめて俺を見上げてきた。 情勢を醒めた目で見つめる、絵に描いたような苦労人リアリストの顔つきだ。六歳前後で敗戦を経験したため島津への直接の怨恨は薄く、現実の生活と家の存続だけを直視している。
「甚兵衛、弥三郎。よく来てくれた。面を上げろ」
俺が五歳児の声帯をコントロールし、できる限り落ち着いたトーンで切り出すと、甚兵衛が顔を上げ、目を血走らせて身を乗り出してきた。
「はっ! 若君、ついにこの時が参りましたな! 城外の蒲生の生き残り八十余名、いつでも弓矢を取って島津の寝首を掻く覚悟はできておりますぞ! 若君が号令を下されば、この老骨が先頭に立って本丸へ討ち入り――」 「……爺様、ちょっと待ちなさいよ」
弥三郎が即座に割り込み、甚兵衛の肩を引っ張って引き戻した。
「あんた本気で言ってんの? 八十人で島津の本丸に突撃してどうすんですか。秒で囲まれて串刺しですよ。犬死にもいいとこだ! 勝敗は武家の常、滅びた過去を恨んで腹が膨れるならいくらでも付き合いますがね、飯は食えません! 討ち入りなんて絶対に嫌ですからね!」 「おのれ弥三郎! お前は親父や兄の無念を忘れたのか!」 「忘れてねえから、こうして生き残るために必死こいて百姓やってんでしょうがァッ!!」
庭先で早くも始まった祖父と孫の怒号の応酬に、背後の岩崎が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
(……なるほどな。話に聞いていた通りのアクセル全開ジジイと、ブレーキ役の苦労人孫だ)
前世のコンサル時代、創業者会長と後継専務が役員会議で怒鳴り合っていた光景を思い出し、俺の胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「二人とも、そこまでだ」
俺は縁側に手をつき、二人の目をまっすぐに見据えた。
「討ち入りなどという、一番割に合わない真似は金輪際しない。甚兵衛、武士を捨てろとは言わん。だが、無駄死には絶対にいかん」 「……若君?」
甚兵衛が拍子抜けしたように目を丸くする。 俺は裏庭の生垣と、庭の片隅に置かれた古びた水桶を指差した。
「今日呼んだのは、仇討ちの軍議ではない。……蒲生の者たちが飢え死にせず、生き残るための『内職』の割振りを決めるためだ」 「な、内職……でございますか?」
甚兵衛が呆然と呟き、隣の弥三郎が怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「まずは反故紙を集めて漉き直す『蒲生和紙』の再生、そして生垣の椿の実から油を搾る作業だ。……さらにその油を使って、南蛮渡来の薬石『サボン』をこの裏庭で密かに試作する」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、甚兵衛の眉毛が逆立ち、顔が真っ赤に沸騰した。
「ば、馬鹿なッ! 蒲生八幡の御神木の若木たる若君が、女子供の真似事をして泥水をすすり、油絞りなんぞをせよと!? 武士たる者が、なぜそのような卑しい内職をせねばならんのですかァッ!!」
甚兵衛の激しい説教が裏庭に響き渡る。 だが、その横から弥三郎がすっと冷めた目で手を挙げた。
「……あの、若君。その『さぼん』だか油だかは、作ったら本当に銭になるんですか?」 「銭になるどころの騒ぎではない」
俺は縁側の板敷きの上で小さく息を整えながら、手元の平たい木板を指でトントンと叩いた。
「南蛮船が博多や堺に持ち込むサボンは、銀十匁――銭にして千文から二千文で取引される超一級の宝物だ。だが原料となる椿油と木灰の灰汁なら、この屋敷の生垣と竈の灰で手に入る。原価はほぼゼロ。作れば作るほど、すべてが純利益として手元に残る計算だ」 「ぜ、千文……ッ!?」
弥三郎の目が一瞬で丸くなり、喉を大きく鳴らした。 戦国時代の米一石が銭千文前後。泥石をほんの数個こねて売り抜くだけで、大人が一年に食う米の量に化けるのだ。
「……まじですか。それ、本当に作れるんですか?」 「作れる。理屈はすでに頭の中にある。……というか、南蛮から入ってくる粗悪なサボンより遥かに上質なものが作れる」
弥三郎と甚兵衛がそろって目を丸くした。
「上質……って、あの南蛮渡来の宝物よりですか?」 「南蛮船が運んでくるサボンは、獣の脂を使っていて獣臭さが残る上に、船倉の湿気と塩気で酸化して黄ばんでいる。おまけにアルカリの灰汁抜きが雑だから、肌がピリピリと荒れる代物も多い。だが――俺たちが作るのは、純度百パーセントの国産椿油だ。皮脂に近いオレイン酸がたっぷりで肌に吸い付くように優しく、泡立ちも段違いにきめ細かい。さらに、裏庭に自生しているハッカの葉や、裏山のヒノキや柑橘の皮から油分を抽出して練り込む」
俺は裏庭の片隅を指差した。
「獣臭どころか、清涼な芳香がふわりと立ち上る。水で灰汁を徹底して沈殿・濾過し、数ヶ月かけて冷暗所で熟成させれば、貴人の肌を一切痛めない白く滑らかな至高の化粧石鹸に化ける。堺の豪商や都の公家、果ては大名の奥向きが、喉から手が出るほど欲しがるはずだ」
前世、激務で肌が荒れ果てたストレス発散で、休日に自宅のキッチンで手作り石鹸に凝っていた趣味が、まさかこんな乱世のど真ん中で命綱になるとは思わなかった。
「……だが、本格的に銭にするには二つの大きな壁がある」
俺は幼児の短い人差し指を二本立てた。
「一つは、油を搾るための椿の実の絶対量が足りないこと。屋敷の生垣だけでは限界がある。城外や霧島の山林から大量の椿の実を集めねばならない。そしてもう一つ――これが最大の難関だが、山奥で孤立している『楠行者衆』を、こちらの味方に引き入れる必要がある」
(楠行者衆――かつて蒲生家で素破働きをしていた者たちだと、以前岩崎から聞いたことがある。主家滅亡後は行き場を失い、島津からも警戒されて霧島の山中に押し込められているらしい)
「なっ……楠行者衆じゃと!?」
それまで「銭勘定など武士のすることか」と不貞腐れていた甚兵衛が、目を血走らせて身を乗り出してきた。
「若君! あの蒲生八幡の修験者どもは、主家が滅びて以来、山奥に閉じこもって誰の指図も受けぬ頑固者どもですぞ! 霧島の山深くに隠れ住み、島津の手先が踏み込もうものなら崖から岩を落として追い返すような野武士の集まりじゃ! 五歳の若君が声をかけたとて、耳を貸すはずが――」 「耳を貸させるんだよ、甚兵衛」
俺は老臣の目を真っ直ぐに見据えた。
「行者衆は山を捨てられず、さりとて島津から危険分子として街道を封鎖され、他家への仕官も叶わずに木の根をかじって飢え死にかけている。……彼らが今、喉から手が出るほど欲しているのは『生き延びるための糧』と『見捨てられていないという証』だ」 「……証、でございますか」 「母上と岩崎を説得し、この屋敷の扶持米を極限まで削って米と古着を確保した。甚兵衛、お前がその米を担いで山へ登れ。そして行者衆の頭領にこう伝えるんだ」
俺は胸の前で小さな両手を組み、言葉を紡いだ。
『我らが島津の軍門に降り、不甲斐ないばかりにお前たちに辛酸を舐めさせてすまない。里を支えるにはまるで足りぬ微禄だが、どうか飢えを凌いでくれ。蒲生の血が絶えぬ限り、共にある』――とな。
静まり返る裏庭。 甚兵衛の顔がみるみる赤く染まり、白髪交じりの濃い髭が激しく震え始めた。
「お、おおお……っ! 若君……! なんという御深慮……! 敵の城の奥底で監視され、自らもひもじい思いをされながら、山奥の忠臣たちに飯を分け与えようとされるとは……! これぞまことの蒲生の主君……! 蒲生八幡の大楠の若木じゃあぁぁっ!!」
感情の昂ぶりが裏庭に炸裂した。甚兵衛は泥に額を打ちつけ、両手で地面を叩いて泣き崩れている。 その横で、弥三郎が冷めた目で祖父を見下ろし、耳をほじりながらボヤいた。
「……爺様、泣くのはいいけど地面叩くのやめてもらえます? 泥が跳ねて俺の袴につくんだよ。……しかし若君、言っちゃなんですが、奥向きの飯を少し削った程度の米で、百人近い山伏が食えるわけないでしょう。焼け石に水ですよ」 「弥三郎、お前は本当にいいツッコミをするな」
俺は思わず苦笑いした。
「その通り、飯そのもので腹は膨れない。だが、絶望の底にいる人間に必要なのは『所属と大義』だ。若君自らが飯を削って自分たちを気にかけてくれたという事実は、彼らにとって何物にも代えがたい精神的支柱になる。……その上で、彼らには『仕事』を発注する」 「仕事?」 「山の椿の実や香料となる野草の採取と、山林の巡回・哨戒の運用だ。彼らの採取した品を、我が工房が高値で買い取る仕組みを作る。施しではなく、成果に応じた正式な給与を払うんだよ」
弥三郎は呆気に取られたように口を開け、やがて深いため息をついて頭を抱えた。
「……はぁぁ。良い匂いの泥石で大儲けを企むわ、山伏を買い叩いて手駒にするわ……。僕ぁね、もうついていけませんよ。この若君、中身は絶対どっかの怪しい南蛮商人の亡霊か何かですよ!」 「弥三郎、文句を垂れる前に手を動かせ。甚兵衛が山へ行く間、お前は裏庭の生垣の剪定と、和紙漉き用の木桶の修繕だ」 「……はいはい! やりますよ! やればいいんでしょ! 泥まみれになりゃあいいんだろ泥まみれにィッ!!」
弥三郎は悪態をつきながらも、手際よく竹箒と鉈を握りしめて裏庭へと駆け出していった。
(――よし。これで現場の胃痛ラインは動き出した)
前世のコンサルタントとして叩き込んできた組織設計の第一歩。 山奥で飢餓に瀕する「楠行者衆」という最強の山岳戦力を、誰にも怪しまれずに手懐けるための極秘プロジェクトが、静かに幕を開けようとしていた。
8/31 弥三郎の年齢が齟齬があったので修正




