第2話 屑米決算のうえ、五歳児、サボン事業に着手する
「……よいしょ、と。……あいたっ」
縁側から裏庭の土を踏みしめようとした瞬間、短い足がもつれて尻餅をついた。
手のひらに小石がめり込み、じわりと痛みが走る。大人の歩幅なら三歩で渡れる中庭の板敷きが、五歳児のこの短い手足では果てしなく遠い。
(……これだ。頭の中じゃ次のタスクに手が伸びてるのに、肉体の処理速度がまるで追いつかない)
ため息をつきながら、俺――五歳の楠千代丸は擦り切れた麻の小袖の汚れを手で払った。
前世は東京で炎上プロジェクトの火消しに追われていた二十七歳の中間管理職。だが今や、立ち上がるだけで心臓が小さくトクトクと跳ね、息が乱れるただの幼子だ。このもどかしさには、この身体に馴染んで五年が経つ今でも胃が焼けるような苛立ちを覚えさせられる。
「若君! まあ、またお一人でお庭に出て……! お怪我はございませんか!?」
屋敷の奥からパタパタと小走りに駆け寄ってきたのは、ちよ(二十歳)だ。
母・楠御前の幼馴染であり、この屋敷の妹分として雑用全般をこなす侍女である。屈託のない丸顔を心配そうに歪め、冷え切った両手で俺の泥だらけの膝をぽんぽんと払ってくれる。
「大丈夫だ、ちよ。転んだだけだ」
「もう、いけませんよ。今のお召し物は、岩崎様が夜なべして古い夜着から仕立て直してくださった一枚きりの晴れ着(といっても麻の粗末な小袖だが)なのですから。破れたら代わりがございません」
ちよの指先を見ると、寒風と水仕事で指関節が赤く腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいた。
戦国大名・島津家の本城・鹿児島城。その北西の片隅に押し込められたこの屋敷の空気は、年中じめじめとして日当たりが悪い。冬になれば障子の隙間から冷風が容赦なく吹き込み、夏になれば裏の雑木林から湿気と蚊が押し寄せる、島津家中でも最底辺の「日陰の牢獄」だ。
「……ちよ、母上は?」
「お部屋で針仕事をなさっておいでです。……また、少しお咳が出ておいでで」
ちよが声を落とし、眉を曇らせた。
俺は小さく息を吸い、板戸の立て付けが狂って軋む音を立てる廊下を渡って、母の居室へと向かった。
部屋の中は薄暗かった。
島津の蔵役人が油の配給を渋るため、昼間から行燈を灯すことすら許されない。わずかに障子越しに差し込む鈍い光を頼りに、擦り切れた敷布の上に座り込んでいたのは、母・楠御前(二十歳)だ。
「……こほっ、こほっ……。あら、楠千代。どこへ行っていたの?」
顔を上げた母は、透き通るように白い肌に、吸い込まれそうなほど大きな瞳をしていた。
だが、その頬はこけ、着古した小袖の襟元から覗く首筋は痛々しいほど細い。
十四歳で実家の蒲生城が落城し、そのまま父・島津貴久の奥向きに捕らわれの身として引き渡され、翌年、十五歳で俺を産み落とした少女。政治の裏取引も、武家の権力闘争も何も知らぬまま、仇敵の城の奥深くでただ怯えて生きているだけの、あまりにも純真で世間知らずな母親だった。
「母上、お身体の具合はいかがですか。風邪の引き始めなら、葛の根を煎じて飲まれたほうがよろしいかと」
「まあ、楠千代は本当に物知りねえ……。大丈夫よ、母は少し喉が痛むだけ。それより、お腹は空いていない? まつに頼んで、干した芋の皮を煮てもらいましょうね」
頼りなげに微笑みながら、母の冷たい手が俺の頬を撫でた。
その瞳には、自分の境遇を嘆く色すらない。ただただ、目の前の我が子が今日も生きていることへの無垢な喜びだけが満ちている。
(……この人を、こんな湿気た日陰の部屋で野垂れ死にさせるわけにはいかない)
前世のコンサル脳が、冷徹にアラートを鳴らし続けていた。
ここは戦国時代のど真ん中。弱者は泣き寝入りする暇もなく、静かに間引かれていく世界だ。
「失礼いたします。姫様、お薬湯をお持ちいたしました」
重い足音と共に襖を開けて入ってきたのは、侍女長の岩崎(志保・三十代後半)だった。
角張った顎に、引き結ばれた薄い唇。滅亡前の蒲生家で奥向きの儀礼や女中差配を取り仕切っていた乳母格のベテランであり、この小さな屋敷を冷酷な島津の監視から守り抜く「鉄壁の防波堤」だ。
岩崎は粗末な素焼きの椀を母に差し出すと、敷居の手前に正座し、俺の顔をじっと見据えた。その眼光は鋭く、一切の油断がない。
「若君、また裏の生垣のあたりをうろついておいででしたね」
「……岩崎。ただ、土と風の様子を見ていただけだ」
「なりませぬ。島津の目付どもは、常にこの北の丸の出入りに目を光らせております。妾腹の若君が妙な動きを見せれば、『蒲生の残党と通じておるのではないか』と邪推され、即座に姫様のお立場が危うくなりますぞ」
厳しい声だった。だがその語気には、悪意ではなく「生き延びるための極限の警戒」が滲んでいる。
「岩崎、今月の本家からの扶持米の配給はどうなっている?」
俺が五歳児らしからぬ低いトーンで切り出すと、岩崎は苦虫を噛み潰したような顔で眉間を寄せる。
「……例月通り、雀の涙でございます。蔵役人どもは『奥の蒲生の部屋にはこれだけで十分』と、玄米の半分近くを糠と屑米で水増しして寄越しました。まつが裏庭の隅で大根と芋を育て、野草を摘んで汁の水増しをしておりますが……」
岩崎は拳を握り締め、膝の上の袴をぎりぎりと軋ませた。
「島津本家の正室様のお部屋には、上方の白米と絹織物が山と積まれているというのに……。姫様と若君をこのような飢餓の淵に置き去りにするとは、島津のやり口、まこと血も涙もございませぬ……!」
(――構造的なリソースの枯渇。親会社(本家)からの予算配分はマイナス。外部からの補給ルートは完全に遮断されている)
俺は手元の薄暗い畳を見つめながら、頭の中で数字を弾いた。
母は病弱で世間知らず。動ける大人は岩崎とまつ、ちよの三名のみ。
この閉鎖空間でただ耐え忍んでいるだけでは、あと数年で確実に飢餓か病気で組織が崩壊する。
「……岩崎。待っていても、島津の配給が増えることは金輪際ないぞ」
「は……?」
「島津にとって、俺たちは『勝手に野垂れ死んでくれれば手間が省ける厄介者』だ。ならば、自分たちの手で生き延びるための“糧”と“防壁”を外に作らねばならない」
「外に、でございますか……? ですが若君、この屋敷から一歩外へ出れば、そこは島津の監視の目が張り巡らされた城下。我ら女子供に、一体何ができるというのです」
岩崎の問いに対し、俺はすっと視線を上げ、奥向きを取り仕切る老練な侍女長の目を真っ直ぐに見据えた。
「城外にいる、蒲生の者たちを使うんだ」
岩崎が眉根を寄せ、低く聞き返してくる。その双眸には、五歳の幼児を見る色ではなく、底知れぬ危険物を前にした時のような鋭い警戒が滲んでいた。
「若君、この屋敷の周りには島津の目付が目を光らせております。城外の蒲生残党と通じるなど、一歩間違えれば『謀反の企てあり』として、姫様もろとも首が飛びますぞ」
「わかっている。だからこそ、武力蜂起などという一番割に合わない真似はしない」
俺は冷え切った畳の上で足を組み直し、静かに問いかけた。
「岩崎、まつ。率直に聞くが……今、この屋敷の食い扶持はあと何ヶ月持つ?」
不意を突かれたように、台所から戻ってきたまつが濡れた手ぬぐいを握りしめて言葉を詰まらせた。視線を交わし合った岩崎が、苦い面持ちで答える。
「……島津から届く扶持米は屑米混じりで、まともに食えるのは月わずか数斗。まつが庭の野草を摘み、ちよと姫様が夜なべして着物を仕立て直しておりますが……冬を越す前に米俵の底が見えます」
「だろうな。……では、冬になって母上のお咳が悪化した時、薬を買う銭はあるか? 暖を取る炭は?」
「それは……」
岩崎が唇を噛み締めた。母・楠御前は十五歳で俺を産み、二十歳になった今も頼りなげな少女の面影を残している。同い年のちよも、水仕事で手を真っ赤に腫らしながら健気に笑っているだけだ。
「ないだろう。島津からの配給を待っていても、増える見込みは万に一つもない。このままじり貧で倒れるのを待つくらいなら、自分たちの手で外から銭を引っ張ってくるべきだ」
「……ですが若君、我ら女子供に一体何ができるというのです」
「まずは、庭の反故紙と雑木林のコウゾを使う。城内の書役が捨てた紙くずを集めて水桶で溶かし、まつの手で漉き直して『蒲生和紙』に再生するんだ。さらに生垣の椿の実を集めて油を搾る」
俺が中庭を指差すと、岩崎は眉をぴくりと動かした。
「……和紙の漉き直しと椿油。確かにそれなら、目付に見咎められても『奥向きの女中が小遣い稼ぎの内職をしている』としか見えませぬな。……ですが若君、油や和紙の小商いなど、稼げるのはせいぜい日々の塩代か芋代。母上のお薬代や、屋敷を支え切るほどのまとまった銭には届きませぬぞ」
「その通りだ。だから――油と和紙だけで終わらせる気はない」
俺は身を乗り出し、岩崎とまつの顔を交互に見つめた。
「搾った椿油に、かまどの木灰から取った濃い灰汁を混ぜ合わせる。……南蛮船が莫大な黄金と引き換えに持ち込む幻の薬石、『サボン』を作るんだ」
(前世、仕事のストレスから妙な趣味に手を出したことがある。自作石鹸だ。椿油や苛性ソーダを使い、配合を変えて香りや硬さを試していた。灰汁からアルカリを取れることも、その時に知った。まさかこんなところで役に立つとは思わなかったが……)
「……さぼん!?」
岩崎が息を呑んだ。さすがは名門・蒲生家の奥向きを取り仕切っていた女中頭だ。それが堺や博多の豪商すら血眼になって買い求める、金銀並みの超高級品であることを即座に理解したのだろう。
「ば、馬鹿な……! 南蛮渡来の至宝を、このような粗末な屋敷の裏庭で作れるはずが……!」
「作れる。理屈はすでに頭の中にある。和紙や油をそのまま売っても雀の涙だが、サボンにまで加工すれば利幅は何十倍にも跳ね上がる。母上の薬も炭も、余裕で買い揃えられるだけの銭になるはずだ」
岩崎は息を詰まらせ、じっと俺の瞳を見つめ返した。そこにあるのが子供の夢物語ではなく、恐ろしいほど冷徹な勝算であることに気圧されたように、わずかに声を震わせる。
「……まことにそれが作れるとして、誰が城下へ運んで売り捌くのです? まつやちよが頻繁に町屋へ出入りすれば、それこそ島津に怪しまれますぞ」
「そこで、城外にいる蒲生の者たちの出番だ。雑役の名目で屋敷裏へ出入りしている、まつの旦那や甚兵衛の爺さんたちを使う」
「甚兵衛様を……!?」
岩崎が驚愕に目を見開いた。甚兵衛(蒲生忠清)――亡き殿から託された楠御前のお守り役であり、落城後は城外で百姓同然に身をやつしながら屋敷を支え続ける頑固一徹の老武士だ。
「あの血気盛んな甚兵衛様が、若君の泥臭い内職など手伝いますまい! 『武士が油絞りや泥こねなどできるか! 弓矢を取って島津を討て!』と怒鳴り散らすのが落ちでございますぞ」
「手伝わせるさ。あの爺さんたちが喉から手が出るほど欲しがっている『蒲生の旗印』と『生き残るための道筋』を見せてやればな」
俺は立ち上がり、膝の泥をぽんとはたいた。
「岩崎、まつ、ちよ。明日から裏庭を仕事場にするぞ。まずは城外の甚兵衛と、その孫の弥三郎をここへ呼んでくれ。……飢え死にを回避するための、最初の仕込みを始める」
岩崎は言葉を失ったまま、ただ深々と平伏するしかなかった。




