第1話 泥の谷のキルゾーン、あるいは八年前のプロジェクトマネジメント
初の長編公開です。
無駄に歴は長いですがあまり人前にものを出したことがなく色々未熟ですがよろしくお願いします。
第1話 泥の谷のキルゾーン、あるいは八年前のプロジェクトマネジメント
「若君ィィッ! 待って、無理無理無理! 槍! 槍先がケツに刺さるゥゥ! 僕ぁね、もう限界ですよ!!」
シラスの崩れやすい白土をえぐる谷底から、弥三郎の引きつった悲鳴が吹き上がってくる。
烏帽子はとうに吹き飛ばしたのだろう。泥水をかぶったざんばら髪を振り乱し、右足の草鞋の緒を引きちぎりながら、十八歳の若武者はただ前のめりの姿勢だけで斜面をよじ登っていた。泥濘に足を取られて滑り落ちそうになるたび、爪を立てて土を掻きむしり、なりふり構わず身体を引き上げる。
その背後、五間(約九メートル)と離れていない泥道に、大姶良勢の騎馬武者が躍り出ていた。
「逃がすなァッ! 首を取れ! 島津の落とし胤と蒲生の残党どもを一人残らず叩き斬れ! 高山の仇じゃあッ!」
部隊長が振り回す朱槍の切先が、昼なお薄暗い谷底で鈍い光を弾く。背後からは、手柄首を求めて先を争う足軽たちの雑多な軍靴の音が、重い地響きとなって迫っていた。
彼らにとって、これはただの掃討戦ではない。 本拠である高山城を島津本隊に焼き落とされ、主君が自害に追い込まれたばかりの肝付の軍勢である。敗戦の混乱と屈辱に塗れた連中にとって、本隊の去ったあとの無防備な谷に「女子供と蒲生の落ち武者が立て籠もっている」という報せは、願ってもない生贄に見えたはずだ。
出先砦をわずかな小競り合いで放り出し、無様に敗走していく弥三郎たちの姿を見て、敵の指揮官は完全に理性を吹き飛ばしていた。妾腹の小倅の首を挙げ、手柄にしてやる――その浅ましい功名心が、足元の異様な地形への疑念を完全に塗りつぶしている。
両脇を垂直に近い白い崖に阻まれたこの獅子目の谷筋は、奥へ踏み込めば軍の横展開も退却も利かない、天然の袋小路だ。
「若君! 弥三郎が死にます! 撃ちましょう、丸太を落としましょうぞ!」
崖上のシダの茂みで、甚兵衛が俺の肩を強く締め上げてきた。槍の柄を四十年握り続けてきた頑固な手のひらは、節くれ立っていてひどく痛い。
「痛っ……甚兵衛、揺らすな! 息を殺せ! まだ早い……!」 「ですが若君ィ! 弥三郎の背中と敵の槍の間が、もう一間もございませぬぞ!」 「敵の馬が谷の真ん中へ足を踏み入れるまで引きつける。……待て」
手元のマダケの盾の隙間から、俺は唇を噛んで谷底を見据えた。 喉の奥がからからに渇く。頭の中では歩数と交戦限界を計算しようとしているのに、目の前で鉄の穂先が空気を裂く鋭い音を聞くだけで、胃の底に鉛を呑み込んだような重苦しい痛みが走る。八歳の身体はあまりにも小さく、浅い呼吸を繰り返すだけで肋骨の奥が軋んだ。
なんで、こんな場所で命を削ってるんだ。
土煙の奥から漂う汗と鉄の臭気を吸い込みながら、俺――楠千代丸は小さく奥歯を噛みしめた。
前世の記憶が、嫌な生々しさで脳裏を掠める。 地元・鹿児島で小中高を過ごし、東京の大学を出て、都内の中堅コンサルティングファームに潜り込んで五年。担当は事業再生、サプライチェーン最適化、そして泥沼の工数管理。怒号が飛び交う赤字企業の現場に泥まみれで張り付き、動かない人間とシステムをどう回すか、胃薬片手に耐え忍んだ日々。連日連夜の終電帰り、無理難題を投げてくる顧客に頭を下げ続け、二十七歳の冬、オフィスのデスクで冷え切った缶コーヒーを握りしめたまま心臓が止まった。
有給もない休日出勤だらけデスマーチはもう御免だ。 来世があるなら、誰にも邪魔されない安全なところで、美味い飯を食って畳の上でぬくぬく天寿を全うしたい。
そう心底願って意識を手放したはずだった。 なのに、目を開けた先は戦国時代の薩摩・島津家。それも、滅ぼされた敵方・蒲生氏の血を引く妾腹の五男坊という、前世の炎上案件すら有給休暇に見えるほどの超弩級ハードモードな境遇だった。
「死んで名を残すのが武士の誉れ? バカ言え。死んだら売上ゼロだろ」
俺は低く呟き、合図の右手を振り下ろした。 崖上から巨大な丸太と投石が一斉に谷底へ叩き落され、退路を塞がれた敵の指揮官が狼狽した絶叫を上げる。
時計の針を、八年巻き戻そう。 永禄元年(一五五八年)。 俺が産声をあげたのは、薩摩国・鹿児島の内城だった。
物心がついた頃、俺は自分の置かれた場所に奇妙な引っかかりを覚えていた。 鹿児島城といえば、照国神社の裏手、あの山形屋の近くにある高い石垣の鶴丸城ではないのか? なぜ山裾に平屋の館が連なっているんだ? そうか、鶴丸城が築かれるのは関ヶ原の後だ。今の島津の本拠は、前世でランドセルを背負って通っていた母校・大龍小学校(かつての内城、後の大龍寺跡)の敷地にあった「内城」の時代なのだ。
だが、感傷に浸る隙などなかった。 俺と母が押し込められたのは、内城の北西の隅、薄暗く湿った日陰の平屋だったからだ。
冬になると隙間風が障子の破れ目から吹き抜け、赤ん坊の手足はすぐに紫色の霜焼けになりかける。視界はぼやけて不確かだったが、肌を刺す底冷えと、古い藁畳の黴臭さだけは嫌というほど皮膚に染みついた。天井板には雨漏りの黒い染みが広がり、風が吹くたびに頼りない音を立てる。
寒い。本気で凍え死ぬぞ、これ。 思考は明晰なのに、喉からは情けない泣き声しか出ない。麻の産着で固く包まれた手足は身動き一つ取れなかった。
「ああ、泣かないで、楠千代……。寒いのね、ごめんね……」
おずおずと抱き上げてくれたのは、まだあどけなさの残る細い腕だった。 母・楠御前。本名を千鶴という。 大隅の名門・蒲生範清の娘であり、十四歳で落城の混乱の中を捕らえられ、翌年、十五歳で俺を産み落とした少女だ。世間の仕組みも武家の権力闘争も何も知らないまま、仇敵の城の片隅に囲い込まれ、ただ小さくなって震えているだけの頼りない母親だった。島津家中において、彼女が丁重に呼ばれることはない。帳簿や人別帳には、ただ「蒲生」「又八の母」と事務的に記されるだけの、日陰の愛人という扱いに過ぎなかった。
「姫様、夜着をもう一枚重ねましょう。若君のお身体が冷え切っております」
板戸を閉めて足音を忍ばせて近づいてきたのは、蒲生の時代から母に仕えてきた侍女長の岩崎だ。
「……岩崎、薪はもうないの? 楠千代の手が、こんなに冷たいのよ」 「申し訳ございませぬ、姫様。島津の蔵役人どもめ、今月の配給をまた三割も削りよって……『妾腹の部屋に回す炭などない』と、鼻で笑われましてございます」
岩崎が悔しげに唇を噛む後ろで、二十代の侍女・まつが冷水で赤く腫れた手で竈の灰を掻き集め、母と同い年のちよが「若君、お手々を温めてあげますね」と、自分の小さな両手で俺の指先を包んで息を吹きかけてくる。
この狭く薄暗い屋敷にいるのは、世間知らずの母と、三人の女中たちだけだ。
完全に、初期の手持ちリソースが底をついている。
正室腹の兄上たち――義久、義弘、歳久の三兄弟には、本家の潤沢な兵糧と名うての傅役がつけられている。対してこちらは、死なない程度のわずかな米と、冷淡な監視の目だけだ。いつ飢え死にしても、本家は痛痒を感じないどころか、厄介な火種が消えたと胸を撫で下ろすだろう。
安全に畳の上で天寿を全うする。 その目的を果たすためには、親父の施しを待っている暇など一秒もなかった。
自前の情報と、防衛力と、銭。 それらを、島津の目をかいくぐって手に入れなければならない。
母・千鶴の頼りない胸の温もりを感じながら、俺は小さな拳を固く握り締めた。 自らの足で歩き、この手で生き残りのための仕事を動かせるようになるまで、あと数年。
まずはこの過酷な奥向きの泥沼生活を耐え抜くところから、俺の二度目の人生のプロジェクトマネジメントは幕を開けたのだった。
とりあえずストックが結構あるので最初は飛ばしていきたいと思います。今日でもう一つか二つ上げる予定です




