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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第3部「木崎原風雲録」

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第36話 鑰掛口のボトルネック

白み始めた東の空が、重苦しい鉛色から鈍い銀色へと移ろいでいた。 谷底を埋め尽くす朝霧の底から、湿った土を蹴立てる無数の軍靴の擦過音、そしてガチャガチャと不快に擦れ合う鉄の小札の音が、地鳴りのようにせり上がってくる。 樺山浄慶屋敷の焼け跡から立ち上る一本の黒煙が、初夏の生ぬるい風に巻かれて鑰掛口の狭隘部へ流れ込んでいた。饐えた灰と、焼けた藁の臭気。


「若君ィ、来ますよ! 来ちゃいますよ!」 孟宗竹防弾束の陰で、弥三郎が濡れた手ぬぐいを噛み締めながら、引きつった眼差しを谷底へ落としていた。 「樺山殿の屋敷で散々足止めを食らわされたもんだから、完全に頭に血が上ってやがる! 騙された恥を雪ぐために、この加久藤城門を噛み砕く気満々ですよォッ!」 「弥三郎、騒ぐな。雑音を増やすな」 俺、十四歳の楠千代丸(島津又八)は、結束された竹束の隙間から、冷徹に眼下の勾配を計測していた。 十四歳の身体は、先刻の夜襲の緊張で小刻みに震えそうになる。だが、脳の芯だけは氷のように冷え切っていた。 敵の総勢は三千。 だが、この加久藤城の搦手・鑰掛口へと続く登城路は、左右を崩れやすいシラスの急崖に削り取られた、幅わずか二間(約三・六メートル)足らずの険しい獣道だ。


「城を守るな」 俺は振り返り、後方に控える城代・川上忠智と、その配下の城兵二十名へ向けて低く告げた。 忠智が漆黒の眉を跳ね上げ、十文字槍の石突で板敷きを突いた。 「何じゃと、又八殿」 「加久藤城の縄張り全体を守ろうとするから、兵が足りなくなるのです」 俺は手元の薄板を指先で弾いた。 「三千人を相手にする必要はありません。ここを通れる人数だけを相手にすればいい」 「小僧」 忠智の濁った双眸が、俺の顔を鋭く射抜く。 「それが簡単にできれば苦労はせん」 「だから、簡単にします」 俺は背後の工兵班へ右手を下ろした。 「猪之助、長吉! 孟宗竹防弾束を据えろ! 前へ出すな、崖の最もくびれた幅一間半の地点に楔として打ち込め!」 「へいっ! 合点でさあ!」 泥木工夫から叩き上げた班長・猪之助と、一番弟子の長吉ら工兵三名が、泥にまみれた前掛けを締め直し、極太の孟宗竹防弾束を軽々と担ぎ上げた。 青竹を縄で何重にも締め上げた巨大な束が、隘路の最も狭い岩肌の間に、斜め三十度の角度でガッチリと噛み合わされる。 敵の矢を防ぐための平坦な盾ではない。 登城路の幅をさらに半分に狭め、敵を縦一列に強制整流するための物理的な隘路の絞り込みだ。


「長吉、杭を打て! ぐらつかせるな!」 「うおぉぉりゃあっ!」 長吉が重い樫の大槌を振り下ろし、岩の裂け目に鉄の楔をめり込ませる。 ガツン、ガツンと鈍い破砕音が響き、急造の遮蔽壁が崖の岩盤と一体化していく。 その直後……


「城門を破れェッ! たかが老いぼれ三人に一杯食わされおって、日向武士の名折れぞ! 城内の島津どもを一人残らず撫で斬りにいたせッ!」 雄叫びとともに、伊東の先鋒・伊東祐信隊の先頭集団が、泥濘の坂道を雪崩を打って駆け上がってきた。 先頭を走るのは、朱塗りの具足を纏った槍武者たち。 四十、五十と連なる屈強な兵が、樺山屋敷で奪われた時間と手柄を取り戻さんばかりに坂を直登してくる。


「若君! 近い! もう十間を切ったぞ!」 櫓の上から、甚兵衛が愛用の丸太を構え、白髪混じりの髭を震わせて叫んだ。 「射ち下ろしましょう! 城兵殿、弓を放てッ!」 城兵たちが焦燥に駆られ、弓を引き絞ろうとする。 「待てッ! 矢を番えるな!」 俺は叫んだ。 「まだだ! 敵が坂の傾斜で足を滑らせ、竹束の前に頭を突っ込むまで引きつけろ! 今撃てば、後続が警戒して足を止めて広がる! 完全に詰まらせるんだ!」 「ぐ、ぐぬぬ……!」 甚兵衛が歯噛みし、城兵たちが唾を飲み込む。 八間、五間、三間。 先頭の伊東兵三名が、隘路を塞ぐ孟宗竹の束に気づき、勢い余って足を滑らせた。


「なっ、竹の柵だと!? 押し破れッ!」 先頭が止まった。だが、後続の兵は坂道の慣性と功名心で、前方が止まったことに気づかず、後ろから怒涛の勢いで押し寄せる。 「押すな! 前が詰まっておる!」 「何をぐずぐずしておるか、登れッ!」 前進も後退もできない、最悪の密集状態。 前列の兵の槍が後列の兵の草摺に刺さり、足元がもつれて折り重なるように泥濘に足を取られる。 物理的な隘路に、敵の突進力が自縄自縛となって凝縮した。


「今だッ!」 俺が右手を振り下ろした。 「楓! 敵の後方、青い四ツ目結の旗持ちを撃て!」 パンッ!! 乾いた破裂音が、朝の静寂を引き裂いた。 城壁の銃眼から、女狩人・楓が構えた特注の長銃が白煙を吐き出す。 坂の下、後続へ下知を飛ばしていた伊東軍の小頭の喉元から、旗指物がへし折れて転がり落ちた。 前衛に何が起きているか分からぬまま、後方の指揮系統が一瞬で麻痺する。


「甚兵衛! 石を落とせ! 城兵の皆さんも、狙わなくていい、あの竹束の前の窪みへ岩を投げ込め!」 「おうりゃあぁぁッ!!」 甚兵衛が人の頭ほどもある漬物石を力任せに投げ落とした。 続いて城兵たちが、崖沿いに積み上げられていた川原石を雨あられと投げ下ろす。 ドガッ! メキメキッ! 「ぎゃあああっ!」 「足が! 膝が砕けたァッ!」 隘路に身動きが取れず密集していた伊東兵の頭上へ、容赦のない質量兵器が直撃する。 兜を割られ、肩を砕かれ、先頭の兵が次々と血反吐を吐いて泥濘に崩れ落ちた。 倒れた兵が次の障害物となり、後続の足をさらに奪う。


「弓隊、放てッ!」 川上忠智の下知が飛び、至近距離から城兵の矢が降り注ぐ。 百を数える先頭集団が、隘路の蓋を前にして完全にすり潰されていく。 だが、伊東軍も歴戦の強者だ。 「怯むな! 矢を射返せ! 塀の上の小僧を射殺せッ!」 後方から駆け上がってきた伊東の弓組が、膝をついて城壁へ向けて一斉に矢を放ち始めた。 ヒュンヒュンと風を切る矢の群れが、城壁の板塀を激しく叩く。


「うわっ!」 投石をしていた城兵の一人が、喉元に矢を受けて仰向けに転落した。 「ひ、ひぃぃっ! 敵の矢が飛んできたぞ! もう駄目だ、退けッ!」 城兵の間に動揺が走る。全員が前へ出て戦おうとしていたため、一人が倒れると全体の足が止まり、投石の手が途切れてしまうのだ。


「持ち場を離れるなッ!」 俺は土嚢を蹴立てて叫んだ。 「全員が前へ出るな! 役割を分けるんだ!」 「分けるって……若君、どうすんですか!」 弥三郎が叫び返す。 「怪我人を運ぶ者を二人! 石を櫓の下から運ぶ者を四人! 矢を配る者を二人! 水を汲む者を二人だ! 前で戦うのは十名でいい、後の者は補給の足を絶対に止めるな!」 戦場で最も恐ろしいのは、敵の強さではない。 補給が途切れ、前線の兵が「矢がない」「水がない」と気づいた瞬間に発生する恐慌だ。


「若君! 矢が足りません! 狭間の矢が尽きかけてます!」 弥三郎が血相を変えて走ってくる。 「どこにある!」 「西の櫓下です!」 「誰が運んでいる!」 「誰も!」 「じゃあ、足りるわけがないだろうがッ!」 俺は弥三郎の胸倉を掴んで引き寄せた。 「お前が走れ! 西の櫓から矢束を抱えてこい! 蒲生専業武士の二人をつけろ! 一束でも落としたら減給だぞ!」 「へ、へいっ! 走りますよ! 減給は嫌だァァッ!」 弥三郎が死に物狂いで泥水を跳ね上げて走り出す。 石が運ばれ、矢が補充され、喉を乾かした城兵の口に竹筒の水が注ぎ込まれる。 前線の戦闘員が一切の後顧の憂いなく、機械のように石を投げ、矢を射続ける供給サイクルが確立された。 城兵五十と、大隅の小勢十五。 兵が息切れしない。資材が途切れない。 だからこそ、隘路の竹束一本が、千の軍勢をせき止める強固な防波堤と化していた。 しかし、戦局の均衡は、過酷な代償なしには維持できなかった。


ズガァァァンッ!! 凄まじい地響きとともに、敵の丸太衝角が、隘路の孟宗竹防弾束に激突した。 伊東軍の怪力武者数名が、倒れた味方の死骸を盾にしながら、強引に丸太を押し込んできたのだ。 メキメキと竹が裂ける不吉な音が響く。 「頭! 杭が……杭が抜けかかってやす!」 長吉が泥にまみれた顔で悲鳴を上げた。 岩盤に打ち込んだ鉄の楔が、敵の猛烈な圧力で軋み、外れかけている。 この竹束が外れれば、せき止められていた数百の伊東勢が一気に隘路を雪崩れ込み、加久藤城の門は一瞬で圧殺される。


「打ち直す! 大槌を持ってこい!」 猪之助が駆け出そうとした瞬間、敵の弓組が一斉に竹束の隙間へ矢を射ち込んできた。 ビシッ、ビシビシッ! 「ぐあっ!」 猪之助の左肩に矢が突き刺さり、大槌を取り落として泥濘に転がった。 「頭ッ!」 長吉が叫んだ。 その時、遮蔽物の裂け目から敵の長槍が蛇のように突き出され、倒れた猪之助の喉元を狙って繰り出された。 「猪之助ッ!」 俺が叫び、腰の守り刀に手をかけた……その刹那。


ガギィィィンッ!! 鈍く重い金属音が、空間を震わせた。 割り込んできたのは、古びた鉄錆色の具足を纏った老武士――中村孫六兼貞だった。 五十四歳の枯れ木のような身体が、猪之助の前に立ちはだかっていた。 孫六は自らの十文字槍を振るい、敵の槍先を叩き落とした。 だが、次の瞬間、竹束の向こうから繰り出されたもう一本の突撃槍が、孫六の草摺の隙間――右の脇腹を深く貫いた。 ドスッ、という肉と骨を断ち割る湿った音が、俺の耳朶を容赦なく叩く。


「孫六ッ!!」 甚兵衛が絶叫した。 鮮血が、老武士の錆びた具足の上を滝のように流れ落ちる。 だが――孫六は倒れなかった。 「ぐ、ぐあああっ……!」 孫六は血を吐きながら、自らの脇腹に突き刺さった敵の槍の柄を、両脇と素手で万力のように挟み込んだ。 全身の筋を浮き上がらせ、自らの肉体を楔として、槍の柄を地面の岩肌へ力任せに押し付けたのだ。 「若君……! 蒲生の槍は……松坂城の昔より……ここで一歩も退き申さんぞッ!!」 孫六の咆哮が、血煙の隘路に轟き渡った。 槍を奪われ、体勢を崩した敵の武者が、竹束の隙間からのめり出す。 「死ねぇぇぇッ!」 甚兵衛が狂乱の形相で駆け寄り、樫の丸太をその敵兵の脳天へ叩き落とした。 頭蓋が砕ける鈍い音が響き、敵が泥濘に沈む。


その横で――。 「頭……! 杭は……打ち込みやしたぜ……!」 息も絶え絶えな声が聞こえた。 長吉だった。 二十歳にも満たない若い工兵が、師匠である猪之助の大槌を拾い上げ、矢雨の降り注ぐ竹束の前面へ身を晒していた。 その背中には、三本の矢が深く突き刺さっている。 血塗れの長吉は、最後の力を振り絞り、大槌を鉄の楔へ叩き込んでいた。 ガツン――!! 完璧に打ち込まれた杭が、孟宗竹防弾束を岩盤へ固定した。 長吉の口からドッと血が溢れ出し、大槌を握りしめたまま、膝から崩れ落ちて竹束に突っ伏した。


「長吉ッ! 長吉ィィッ!」 肩に矢を受けた猪之助が、泥を這いながら弟子の亡骸にすがりついて泣き叫ぶ。 そして、槍の柄を抱え込んだまま仁王立ちしていた孫六の身体から、静かに力が抜けた。 両目をカッと見開き、敵を睨み据えたまま――五十四歳の古武士は、立ったまま絶命していた。


二人。 大隅の獅子目から連れてきた、俺の手勢十五名のうちの二人が、目の前で物言わぬ屍と化した。 胃の底が、焼けた鉛を流し込まれたように熱く、そして急速に凍りついていく。 十四歳の身体の奥で、何かが悲鳴を上げていた。 死んだ。 俺の引いた設計図を守るために、生身の人間が、血を流し、命を削り落として死んだのだ。


「若君」 駆け戻ってきた弥三郎が、矢束を取り落としそうになりながら、息を呑んで孫六と長吉の遺体を見つめた。その瞳に、絶望の涙が滲む。 「二人も……孫六殿も、長吉も……」 「弥三郎」 俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。 「矢を配れ」 「え……?」 「矢を配れと言っているんだ。二人が命を張って、この竹束を守り抜いてくれたんだぞ。ここで足をもたつかせたら、二人の死が無駄になる」 俺は腰の守り刀の柄を、爪が食い込むほど強く握りしめた。 泣くのは後だ。後悔するのも後だ。 今、俺が部隊長として果たすべき責任は、残った十三名を生かして連れて帰ることだけだ。


竹束の向こう側で、異変が起きていた。 孫六と長吉が命懸けで杭を固定したことで、衝角による突破に失敗した伊東軍は、隘路の中で完全に身動きが取れなくなっていた。 前列の死骸が足元を塞ぎ、後続の兵が押し合いへし合い、怒号と混乱が頂点に達している。 「退け! 一度坂を下りろ!」 「退けぬ! 後ろから本隊が押しておるのだ!」 統率を失い、完全に足が止まった三千の先頭集団。 その光景を見下ろしていた川上忠智の眼光が、ギラリと光った。 「今なら、出られる」 忠智が低く唸った。 俺は忠智の横へ歩み寄り、静かに告げた。 「今です。敵の足が完全に止まりました。狭隘部で前後が衝突し、隊列が崩壊しています。今なら押し返せます」 忠智の口元が、獰猛な笑みに歪んだ。 「分かっておる!」 忠智は十文字槍を高く掲げ、城内の全将兵へ向けて雷鳴のごとき下知を轟かせた。 「者ども、門を開けィッ! 伊東の不甲斐なき兵どもを、坂の下まで叩き落としてやれィッ!」


ギギギィと重い門の扉が開け放たれる。 城兵三十名が、槍を構えて一斉に坂道へと躍り出た。 忠智が先頭に立ち、混乱する伊東勢の横腹へ向けて突撃していく。 その直前、忠智が振り返り、俺へ向けて叫んだ。 「若君も来るか! 手柄首を拾わせてやるぞ!」 「行きません」 俺は即座に首を横に振った。 「なに?」 「ここが崩れたら全員が死にます。城は俺が守ります」 忠智は一瞬目を丸くし、やがて獰猛に笑い捨てた。 「ふん。可愛げのない小僧め」 槍を振るって駆け下りていく忠智に続き、城兵たちが怒涛の勢いで坂を下り、混乱する伊東軍を次々と突き崩していく。 坂道に響き渡る勝鬨と、敵の悲鳴。 城内に残されたのは、俺と、傷ついた手勢十三名だけだった。


静まり返る鑰掛口で、俺は立ち尽くしていた。 足元には、孫六の血に染まった土。 竹束に突っ伏した長吉の背中を、猪之助が震える手で撫で続けている。 弥三郎が、力なく俺の隣にへたり込んだ。 「若君。俺たち、勝ったんですかね……」 「いや」 俺は遠く、坂の下で繰り広げられる乱戦を見つめ、小さく呟いた。 「戻ってこいよ、忠智殿……」 川上忠智の果敢な出撃によって、正面の敵は押し返された。 だが、城代が主力を率いて打って出たことで、この加久藤城の守りは、今、完全に空っぽになっていた。 そして戦場は、一瞬の隙を見逃すほど甘くはなかった。 城の背後

、霧深き搦手裏の断崖から、微かな小石の崩れる音が、俺の耳に届いていた。



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― 新着の感想 ―
コメント失礼します。 「勝ったんですかね……」に「いや」と返すしかない、この戦場の容赦なさがたまらない。 竹束一本で三千を詰まらせる知略の痛快さから一転、孫六と長吉の最期で、その知略が決して盤上の駒…
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