第37話 城背後の小競り合いと届かぬ音
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9月11日午前9時頃、第35話を一部改稿しました。
物語の展開に変更はありませんが、防壁構築に関する時間経過と場面の前後関係を調整しています。
五月四日の朝霧が、加久藤城を取り囲む深い谷底を白々と埋め尽くしていた。
大手門の坂下から響き渡っていた伊東勢の喚声と川上忠智ら城兵の勝鬨は、距離を増すごとに遠のき、湿った山林の奥へと吸い込まれるように小さくなっていく。
「行ったな」
俺――十四歳の楠千代丸(島津又八)は、血と泥に汚れた孟宗竹防弾束の脇に立ち、手にした薄板の角を握りしめ直した。
十四歳の身体は、鑰掛口の激闘を終えて極限まで張り詰めたまま、冷たい汗を肌に噴き出させている。
川上忠智率いる加久藤の城兵三十名は、坂道で身動きの取れなくなった伊東祐信隊の崩壊を見逃さず、一気呵成に討って出た。
だが、主力が打って出たということは、今この加久藤城内に残る戦闘人員は、俺の手勢十三名と、城内の奥向きを守る老兵数名のみ。
外郭の守りは、事実上の空っぽだった。
「若君ィ、僕ぁね、もう足の親指の感覚が完全に消え去って、草鞋を履いてるのか石を踏んでるのかすら分かりませんよ!」
すぐ脇の板敷きに力なく腰を落とした弥三郎が、泥にまみれた十文字槍を抱きしめたまま、青ざめた唇を震わせて愚痴をこぼした。
「忠智殿たち、完全に血が頭に上って敵を追い回しに行っちまいましたよ! 戻ってこねえぞ、あの人たち! もしこの隙に別の敵が登ってきたら、城内の女子供もろとも全員まとめて一巻の終わりじゃないですかァッ!」
「弥三郎、喚くな。呼吸を整えろ」
俺は振り返らず、低く硬い声で制した。
「忠智殿を責めるな。現場の指揮官として、目の前で隊列の崩れた敵を押し返すのは戦術の定石だ。だが、全体の防衛ラインという観点で見れば、最悪の持ち場放棄であることも事実だ」
視線を足元へ落とす。
そこには、冷え切った筵を被せられた二つの遺体が横たわっていた。
五十四歳の枯れ木のような肉体を槍衾の最前線に晒し、自らの脇腹に敵の槍を固定して果てた中村孫六兼貞。
そして、矢雨の中で大槌を握り締め、孟宗竹の杭を打ち直して息絶えた若い工兵・長吉。
二人の命と引き換えに、この鑰掛口の隘路は維持された。
筵の端から覗く長吉の泥まみれの草鞋の先を見つめながら、工兵班長の猪之助が、肩の矢傷を麻布で固く縛ったまま、音もなく大槌を握り直している。
十五人のうち、二人が死んだ。
(義弘兄上の言葉が、胸の奥で重く軋む)
『十五人引き連れてきたのなら、十五人全員生かして大隅へ連れて帰れ』
理想と現実の落差が、十四歳の身体の胃袋を冷たく締め上げる。
数字を合わせるだけのコンサルティングなら、損耗率一三パーセントは許容範囲のコストで片付けられたかもしれない。
だが、この泥と血の匂いが漂う現場において、失われた二つの数字は、二度と代わりの利かない生身の人間だった。
「若君」
その時、城壁の裂け目から、影のように滑り込んできた人影があった。
楠行者衆の若手斥候・小六だ。
その顔面は泥と木の葉に塗れ、肩で激しく息を乱している。
「若君、道純頭領より注進にございます! 搦手裏、西側の断崖下に怪しき気配あり!」
「西の断崖だと?」
甚兵衛(六十六歳)が愛用の樫の丸太をぐっと握り直し、白髪混じりの髭を逆立てて進み出た。
「あそこは登攀不能の険しき谷底! 猿でさえ足を滑らせるような崖ですぞ! まさか敵がそのような場所から――」
「道純の目を疑うな」
俺は甚兵衛の言葉を遮った。
「加久藤城の弱点は、大手でもこの鑰掛口でもない。三方が断崖絶壁であるがゆえに、誰も登ってこないと城兵全員が思い込んでいる裏手の崖そのものだ。忠智殿が前線へ出払った今、城の搦手裏は完全な死角になっている」
俺は小六を見据えた。
「敵の規模と動きは」
「十数名……およそ十五、六名ほどかと。大手での攻防に加わらず、谷筋の藪を縫って搦手の崖下へと迂回してきた伊東の別動隊にございます。長柄の槍は持たず、小太刀と熊手、鉤縄を携えておりまする。崖をよじ登り、裏門の閂を外す腹積もりかと」
「手慣れた間諜か、あるいは山岳戦の心得がある手勢か」
「道純頭領と疾風が崖上で見張っておりますが……いかがいたしましょう。出撃して、登り切る前に一人残らず切り伏せますか」
小六の問いに、甚兵衛が太い腕を鳴らした。
「若君! 某が参りましょう! 孫六と長吉の仇、あやつらを崖下へ叩き落として首級を並べてやりますぞ!」
「待て、甚兵衛」
俺は首を横に振った。
「殺すな」
「殺すな、とは……?」
甚兵衛だけでなく、弥三郎までもが目を丸くして俺を見つめ返してきた。
「若君、敵ですよ!? 登ってきて城に火でもつけられたら、俺たち全員アウトですよ! なんで見逃すような真似を――」
「見逃すとは言っていない」
俺は冷徹に言い放った。
「追い返せ、と言っているんだ」
「追い返す?」
「そうだ。敵の目的を考えろ。わずか十五名前後の別動隊が、単独で城を落とせるはずがない。あいつらの狙いは、城内が本当に手薄かどうかを確かめ、隙があれば裏門を開けて本隊を呼び込むことだ。今、あいつらと白兵戦を演じて殺し合いをすればどうなる? こちらの人数が露見する。わずか十数名で城を守っていると知れれば、敵は死に物狂いで後続を呼び、崖下から百、二百と押し寄せてくるぞ」
弥三郎の喉がゴクリと鳴った。
「あいつらに必要なのは、死体ではない。『加久藤城の裏手には、正体不明の伏兵が何重にも待ち構えている』という強烈な誤認だ」
俺は腰を落とし、手元の薄板を指先で叩いた。
「敵に『ここから登るのは無理だ』と確信させ、自発的に退却させる。道純に伝えろ。鉄砲は撃つな。姿も見せるな。松明を消し、崖の上から枯れ木と土砂を落とせ。別方向から法螺貝を吹き、木立を揺らして足音を立てろ。敵が登り口に手をかけた瞬間、頭上から見えざる伏兵の気配だけを浴びせかけて追い散らせ」
「御意にございます!」
小六が深く一礼し、城壁の裂け目へと駆け戻っていった。
「姿を見せずに追い返す、か」
弥三郎が首筋をボリボリと掻き、引き攣った笑みを漏らした。
「また若君の戦わないための戦術ですね。敵の首を一つも取らねえで合戦に勝とうなんて、戦国の侍が聞いたら腰を抜かしますよ」
「戦わないで済むなら、それに越したことはない。甚兵衛、猪之助、弥三郎。俺たちも裏手の櫓下へ回るぞ。万が一、崖を登り越えてきた奴がいれば、その時だけ叩き伏せる」
俺たちは静かに身を起こし、朝霧が立ち込める搦手裏の雑木林へと足を速めた。
加久藤城の西側、切り立ったシラスの断崖。
崖下からは、水かさの増した小川のせせらぎとともに、ガサリ、ガサリと湿った笹の葉を押し分ける微かな音が響いていた。
霧の深さは数間先も見通せないほどだ。
崖の縁に伏せた道純の隣に、俺は身を滑り込ませた。
「若君、来まする」
道純がしわがれ声で囁く。
崖の途中、岩肌の窪みに打ち込まれた鉄の鉤縄が、ギシリと軋んでいた。
伊東軍の別動隊――黒装束に近い軽装の武士たちが、息を殺して岩肌をよじ登ってくる。先頭の男が、あと三間で崖の上に手をかけようとしていた。
その瞬間――崖の上の木立の奥から、低く不気味な法螺貝の音が、重低音となって鳴り響いた。
ボオォォォ、と霧を震わせる。
その音は一箇所からではない。
西の尾根、東の岩陰、そして頭上の櫓――三方向から時間差で鳴らされ、まるで山全体に無数の軍勢が潜んでいるかのような反響を生み出していた。
「な、なんだ、この音は!」
崖を登りかけていた伊東の先頭武者が、驚愕に目を見開いて動きを止めた。
次の瞬間、頭上の崖から、人の胴体ほどもある巨大な丸太と、濡れた土砂が一斉に雪崩れ落ちた。
ザザザザッ! ドガガッ!
「うわっ!」
頭上を掠めた土砂に視界を奪われ、岩肌にしがみついた武者が悲鳴を上げる。
さらに、霧の奥から乾いた竹を激しく打ち鳴らす破砕音が、パパパパンッと連射のように響き渡った。
「伏兵じゃ! 崖の上に伏兵がおるぞ!」
「一人や二人ではない、城内の本隊がこちらへ回っておる!」
「馬鹿な、搦手裏は見落とされていたはずでは――」
「退け! 崖下へ退けッ! 登れば上から一網打尽にされるぞッ!」
暗闇と朝霧、そして何重にも響き渡る音の罠。
敵の別動隊は、一度も味方の姿を目にすることなく、自らの恐怖心によって「ここには大軍の待ち伏せがある」と完全に確信させられていた。
鉤縄を切り離し、我先にと崖を滑り降りていく足音が、谷底へと遠ざかっていく。
敵は退いた。
一滴の血も流さず、一発の銃声も響かせず、加久藤城の背後を脅かしていた刃は、綺麗に霧の彼方へと消え去ったのだ。
「逃げたか」
俺が小さく息を吐いた。
道純が崖下を見下ろし、低く頷いた。
「逃がし申した」
「それでいい」
俺は薄板を懐に収めようとした。首級ゼロ。だが、城の背後は完全に守り切られた。
これでいい。これが俺の、楠千代丸の戦い方だ。
――そう、安堵の息を漏らしかけた、その刹那だった。
「若君ッ!」
木立の奥から、小六の悲鳴のような叫び声が木霊した。
「小六!? 何事じゃ!」
道純が素早く身を翻し、笹藪を蹴立てて駆け出す。俺も、甚兵衛も、弥三郎もその後を追った。
崖の縁から数十間離れた、搦手裏の細い獣道。
そこに――倒れている人影があった。
「疾風ッ……!」
道純が膝をつき、抱き起こしたその身体は、楠行者衆きっての俊足を誇る若者――疾風だった。
二十歳そこそこの引き締まった山伏の身体。
だが、その左胸から背中にかけて、一本の投げ槍が深々と突き刺さっていた。
鮮血が、黒染めの作務衣をどす黒く染め上げ、泥の上に水たまりを作っている。
「疾風! おい、疾風ッ!」
小六が必死にその頬を叩くが、疾風の瞳の焦点は定まっていなかった。
口元から、泡立った血が溢れ出る。
「頭領……若君……」
途切れ途切れの、掠れた声が疾風の喉から漏れた。
「退く敵の……最後尾の一人が……不審に思い、引き返そうと……崖下を覗き込み申した……。若君の……お姿が……見られそうになり申したゆえ……手前が……単身、姿を晒して法螺を吹き……崖下へ松明を投げ込み申した……」
「馬鹿者がッ!」
道純の顔半分の刀傷が、激しい怒りと悲痛に歪んだ。
「姿を晒すなと、あれほど若君が仰ったであろうがッ!」
「へへ……」
疾風の血塗れの唇が、微かに歪んで笑った。
「敵は……完全に……怯えて逃げ散り申した……。されど……投げ返された槍が……一筋……運悪く……」
疾風の節くれだった手が泥を掴み、そして俺の小袖の裾を弱々しく握りしめてきた。
「若君……大隅の……あの、飯隈の田畑は……青々として……美しゅうございましたな……」
「疾風、喋るな。息を止めろ」
俺は疾風の前に膝をつき、その冷たくなりゆく手を両手で包み込んだ。
「猪之助! 薬だ! 止血の布を持ってこい! 弥三郎、傷口を圧迫しろ!」
「若君、もう……」
弥三郎が、泣きそうな顔で俺の肩を引いた。
見れば、疾風の左胸の傷口からは、肺を貫かれた特有の空気が血とともに漏れ出していた。
戦国のこの時代において、肺を貫通された傷は、現代の集中治療室をもってしても絶望的な致命傷だ。
「若君に……拾われ……山で飢え死ぬはずだった命を……誇りある役目で……使わせていただき申した……」
疾風の瞳から、光が急速に失われていく。
「大楠の……若木を……お守り……でき申した……」
カクン、と首が折れた。
俺の小袖を握りしめていた指先から、ふっと力が抜けた。
ドサリと、若い行者の身体が道純の腕の中に沈む。
「疾風ッ……!」
小六が顔を覆って泣き崩れた。
道純は動かなかった。ただ、膝の上の骸を固く抱きしめ、天を仰いで歯を食いしばっていた。その目尻から、一本の涙が深い刀傷を伝って流れ落ちる。
三人目。
大隅から連れてきた手勢十五名のうち、三人目の死者だった。
(……っ)
俺の胸の奥で、何かがパチンと音を立てて千切れた。
敵を殺さず、綺麗に追い返す。
スマートな戦術、被害を出さないための合理的な撤退。
そんな机上の理屈をあざ笑うかのように、戦場は、退却する敵の偶然の一投によって、最も足の速い有能な若者の命を奪い去っていった。
理屈では救えない。
計算通りにはいかない。
人が人を率いて戦場に立つということは、どれほど知恵を絞り、どれほど合理性を突き詰めようとも、自らの采配の隙間から零れ落ちる命の重みを、この両肩に背負い続けるということなのだ。
俺は立ち上がり、腰の守り刀の鯉口に指をかけた。
母から託された、一度も抜いたことのない守り刀。
抜いて、敵を追いかけ、八つ裂きにしてやりたいという衝動が、十四歳の身体の奥底からマグマのように湧き上がってくる。
だが――俺は、刀を抜かなかった。
親指を強く押し込み、カチリと鍔を鳴らして刃を鞘に収め直した。
「運べ」
俺の声は、低く、かすれていた。
「疾風の遺体を、孫六と長吉の隣へ運ぶんだ。絶対に、この城に置き去りにはしない」
「はっ」
猪之助と小六が、涙を拭いながら疾風の身体を抱え上げた。
それから半刻も経たぬうちに、加久藤城の門前に地鳴りのような軍靴の音が響き渡った。
「開門ッ! 飯野より援軍、遠矢良賢、五代友喜が手勢参陣仕ったッ!」
木戸が開け放たれ、朱塗りの島津の旗印を掲げた援軍が、怒涛の勢いで城内へと雪崩れ込んできた。
馬関田、吉田、大口方面からも続々と狼煙が上がり、島津の兵たちが加久藤城の周囲を固めていく。
加久藤を攻めあぐね、鑰掛口で手痛い打撃を受けた伊東祐信・又次郎の軍勢は、前後の連絡を絶たれ、池島川方面へと完全に退却を開始していた。
「勝ったぞッ! 加久藤城を守り抜いたぞッ!」
戻ってきた川上忠智と城兵たちが、槍を天に突き上げて勝鬨を轟かせた。
女子供が涙を流して抱き合い、城内はお祭り騒ぎのような歓声に包まれる。
だが――その狂乱の輪から離れた搦手の土嚢の陰で、俺は力なくその場にへたり込んでいた。
膝が、ガクガクと震えて止まらない。
十四歳の身体の全筋肉が弛緩し、両手を地面についたまま、荒い息を吐き出し続ける。
「若君」
弥三郎が泥だらけの顔で歩み寄り、俺の隣にへたり込んだ。その手もまた、小刻みに震えている。
「若君、大丈夫ですか。顔、真っ白ですよ……」
「弥三郎」
俺は震える自分の両手を見つめた。
手のひらには、疾風の冷たい血の感触が、まだこびりついているように思えた。
「怖かった」
十四歳の声帯から、掠れた本音が零れ落ちた。
前世で三十年近く生き、コンサルタントとして幾多の修羅場をくぐり抜けてきたはずの精神。
だが、生身の人間が目の前で肉を裂かれ、骨を砕かれ、息絶えていくこの戦国の現場において、俺はただの無力な一人の人間に過ぎなかった。
「当たり前ですよ」
弥三郎が天を仰ぎ、深々と息を吐いた。
「僕だって、もう漏らしそうでしたよ。でもね、若君。若君が踏み止まってくれたから、俺たち生き残ったんですよ。俺も、爺様も、猪之助も、道純も、小六も、楓も……みんな、生きてる」
弥三郎の言葉に、甚兵衛が黙って歩み寄り、太い掌を俺の小さな肩の上に置いた。
言葉はなかった。ただ、その分厚い手のぬくもりだけが、俺の強張った背中を温めていく。
だが――歓声に沸く城内の空気を切り裂くように、遥か東の方角から、鈍い地鳴りのような音が風に乗って届いた。
ドォォォン、と重い音が響く。
続いて、乾いた銃声。無数の喚声。
そして、幾重にも重なり合って響き渡る、凄絶な法螺貝の音。
「なんだ?」
弥三郎が弾かれたように顔を上げた。
城壁の上に立った遠矢良賢が、木崎原の広野の彼方を見据え、鋭い声を張り上げた。
「始まったぞ! 木崎原じゃ! 兵庫頭様の本隊が、退却する伊東の軍勢と激突仕ったッ!」
空気が、一瞬で凍りついた。
加久藤城の戦いは終わった。
だが――十倍の兵力差を覆すための、島津義弘の本当の死闘は、いま木崎原の荒野で火蓋を切ったばかりだった。
遠く立ち上る硝煙を見つめながら、俺は震える足でゆっくりと立ち上がった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、楠千代丸の「合理性」だけでは割り切れない部分を書いた回でした。
被害を減らすために考え、うまく敵を退けた。
それでも、失うものはある。
十五人を連れて帰れという義弘の言葉が、ここから又八にどう残っていくのか。
そして次はいよいよ、木崎原です。
「続きを読んでもいいかな」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、いいねなどをいただけると、今後の執筆の励みになります。
もちろん、読んでいただけるだけでも十分ありがたいです。
引き続き『蒼溟の覇王』をよろしくお願いいたします。
次は明日の7時投稿予定です




