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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第2部「獅子目兵站記」

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第29話 大隅南部の経済包囲と飯隈の奪還

本日2話目です。

元亀元年(一五七〇年)十月下旬。

秋の澄んだ空の下、大隅・高須の港は、かつての寒村の面影など微塵もない大活況に沸き返っていた。

波止場には、大型帆船が所狭しと並び、掛け声とともに大量の物資が荷揚げされていく。

純白に輝く高須の極上塩、獅子目の竹炭、そして孟宗竹の繊維から漉き上げた安価で丈夫な「竹紙」の束。それらの富を求め、錦江湾の沿岸各地だけでなく、吾平(あいら)や星塚(ほしづか)といった大隅南部の土豪たちが、競うように米や雑穀を積んだ荷駄を連れて押し寄せていた。

「若君、星塚の地頭から『来年の塩と竹紙を優先して回してくれるなら、米三十石を前納する』って泣きついてきましたぜ」

波止場の長机で出納帳をめくっていた弥三郎(二十二歳)が、呆れたように息を吐いた。

「吾平の土豪どもも、高須の干物と塩なしじゃ冬を越せねえってんで、頭を下げてうちの傘下に入りたがってます。槍を一筋も交えずに、塩俵と紙の束だけで大隅南部をまるごと胃袋から掴んじまうんですから、商人顔負けのえげつなさですよ」

「弥三郎、これが『経済的包囲網』だ」

俺――十二歳の楠千代丸(島津又八)は、波止場の丸太に腰掛け、手元の薄板に大隅南部の勢力図を描き足しながら言った。

十二歳になり、少年らしい精悍さが顔立ちに現れ始めているが、その頭脳は前世のコンサルタントとしてサプライチェーンの支配力を冷徹に測っていた。

「武器で脅せば反発を生むが、塩と食糧の流通を握れば、相手は自発的にこちらへ頭を垂れる。高須の海運と獅子目の生産力は、大隅南部において圧倒的な独占プラットフォームになった。これで外枠の包囲は完了だ」

「ガハハ! 天晴れじゃ若君!」

背後から樫の丸太をドンと突き立て、白髪混じりの髭を震わせて笑い声を上げたのは甚兵衛(六十二歳)だ。

「大隅の土豪どもがこぞって蒲生の門前へひれ伏しておる! 亡き範清様も草葉の陰で快哉を叫んでおられますぞ! 若君、この勢いで一気に飯隈の地を買い戻し、蒲生の旗を打ち立てましょうぞ!」

「ああ。高須の富と人手が十分に揃った今なら、かつて手放した飯隈を買い戻し、本格的な前線要塞として再整備できる」

俺が頷いた、その時だった。

ササッ――。

波止場の荷影から、漆黒の濡れ蓑をまとった道純が音もなく滑り込んできた。

その無表情な顔に、珍しく濃い苦渋の色が張り付いている。

「若君。飯隈の検分より戻り申したが、極めて厄介な事態が生じておりまする」

「厄介な事態……? 何があった、道純」

俺が眉をひそめると、道純は低く嗄れた声で告げた。

「飯隈の地――三年前、我らが無人の緩衝地帯として捨て置いたあの広大な空白地に……『招かれざる外来者』が居座り申した」

「外来者……?」

「肝付と伊東の境目で暴れ回り、追われて逃れてきた野伏・野盗の凶徒ども……総勢、百余名。頭目は『赤目の陣蔵』と名乗る凶悪な破落戸にございます。我らが放置していた飯隈の空き砦を勝手に修繕し、周辺の山林を占拠して、近隣の百姓から乱妨取りを働いておりまする」

「は?」

出納帳をめくっていた弥三郎の手が、ピタリと止まった。

そろりと顔を上げ、死んだ魚のような目で俺を凝視する。

「おい、若君」

「な、何だ、弥三郎」

「だから言ったでしょうがァァァァッッ!!!!」

弥三郎の喉が張り裂けんばかりの絶叫が、高須の港を切り裂いた。

持っていた筆を机に叩きつけ、俺の胸ぐらに鬼の形相で詰め寄ってくる。

「三年前にあんた何て言いました!? 『飯隈は防衛コストが高い不良債権だ! 捨て置けば敵の兵力を縛る緩衝地帯になる!』って、ドヤ顔で損切りしたでしょうがァッ!! 空白地帯を作ったら、敵じゃなくて凶暴な野盗がタダ飯食らいに居座ってんじゃねえか!!」

「いや……これは……権力の空白が生み出したスクワッティング(不法占拠)という未知の変数が……」

「未知じゃねえよ!! あんたが『誰も守るな』って言って捨てたからだろうがァッ!!」

弥三郎は頭を抱え、波止場の板敷きを転がり回って足をバタつかせた。

「僕ぁね! もう胃どころか腸まで捻じれ切れそうですよ!! なんで俺たちが、大隅の経済を握った瞬間に、若君が捨てた土地に巣食った百人の人殺しどもと戦わなきゃならんのですかァッ!! しかもあそこは見渡す限りの広々とした平地ですよッ! 遮る山もなければ、敵をハメる袋小路の谷もない! 四方八方から丸見えの開けた平坦地なんですよォッ!!」

弥三郎の叫びは、現地の地形を知り尽くした者ならではの悲痛な正論だった。

「そんなだだっ広い平地に、百人を超える凶暴な野武士や破落戸どもが砦を補修して陣取ってやがるんです! 真正面から攻め寄せたら、遮蔽物のない平野で泥沼の平地戦ですよ! こっちの武士だって何十人も死にます! なんで俺たちが、若君の『損切り』の尻拭いのために平地で命を削らなきゃならんのですかァッ!!」

「弥三郎、喚くな。真正面から力攻めするなど、前世でも今世でも一度たりとも考えたことはない」

俺は波止場の丸太から立ち上がり、手元の薄板に炭で描いた飯隈の周辺図を指先で叩いた。

(弥三郎の言う通りだ。飯隈は台地の上に広がる平坦な農地・開拓地。獅子目のような『狭隘なキルゾーン』を活かした罠や伏兵は通用しない)

だが、平地であるということは、防衛側に有利な険しい天然の要害が存在しないということでもある。

百余名の野盗集団が平地の砦に籠城しているのなら、その命綱は完全に「周囲の流通」と「水源」に依存しているのだ。

「甚兵衛、道純」

「ははっ! ここにおわしますぞ、若君!」

甚兵衛が樫の丸太をドンと突き立てて前に進み出た。

「道純、飯隈に居座る『赤目の陣蔵』一味の物資の出入りはどうなっている?」

「はっ」

道純が濡れ蓑を翻し、冷徹に報告を紡ぎ出す。

「奴らは周辺の百姓から米を奪い、飯隈の平地の井戸水と、高須方面から流れる川筋から水を引いて籠もっておりまする。しかし、略奪に頼る烏合の衆ゆえ、塩や味噌、医薬品の蓄えはほとんどございませぬ。塩が尽きかけ、手下の破落戸どもが近隣の村へ略奪に出ようとしては、我が楠行者衆が闇夜でことごとく狩り取っておりまする」

「よし。包囲の輪を一段締め上げるぞ」

俺は薄板の上に、飯隈を完全に取り囲む「経済的・物理的遮断ライン」を書き殴った。

「第一に、飯隈へ通じる四方の街道・間道を完全に封鎖しろ。高須の塩、魚、干物、そして油の供給を一切絶つ。近隣の土豪や村々には『飯隈の野盗に一粒の米、一升の塩でも横流しした者は、高須港からの物資供給を永久に停止する』と通達を出せ」

「経済制裁による兵糧攻めか……!」

弥三郎が息を呑む。

「第二に、水利の遮断だ。飯隈の平地へ流れ込む上流の用水路を、工兵班の手でせき止め、すべて獅子目の新田へと流路を変更しろ。平地の砦に残された井戸水にも、楠行者衆の秘薬……下剤と激しい苦味を持つセンブリのエキスを極秘裏に投げ込み、飲用水を完全に汚染する」

「げ……下剤とセンブリ……!?」

甚兵衛が目を白黒させて髭を震わせた。

「毒で皆殺しにするのではなく、腹を下させて戦意を削ぐのでございますか……!?」

「そうだ。平地の砦に閉じ込められた百人の荒くれ者が、真夏の太陽の下で塩を奪われ、水を奪われ、連日下痢に苦しみ、互いに疑心暗鬼に陥る……刀を一筋も交えずに、内側から組織を自己崩壊(メルトダウン)させるんだよ」

俺は手元の薄板をパチンと弾いた。

「そして第三段階――極限まで飢えと渇きで衰弱した頃を見計らい、道純の行者衆が砦の内部へ調略の矢文を撃ち込む。『頭目の赤目の首を差し出せば、残りの者は命を助け、高須の塩と飯を腹一杯食わせてやる』とな」

静まり返る高須の波止場。

潮風が吹き抜ける中、弥三郎が十文字槍を抱きしめ、引きつった笑いを浮かべながら天を仰いだ。

「はぁぁ。平野のど真ん中で合戦をやるんじゃなくて、外から蛇の生殺しにして共食いさせるわけですか」

弥三郎は深いため息をつき、苦笑を浮かべた。

「相変わらず、やってることがえげつねえ……! でもね若君、平地で血を流さずに済むなら、その陰湿極まりない兵糧攻め、喜んで段取りしてやりますよォッ!!」

「よし、直ちに作戦を開始しろ。飯隈を、我が蒲生の手に取り戻すぞ」

飯隈の平地砦を取り囲むこと十日。

四方の街道を封鎖されて高須からの塩と食糧を完全に絶たれ、唯一の水源である井戸にはセンブリと下剤の濃縮エキスを投げ込まれた野盗集団「赤目の陣蔵」一味は、戦う前から完全に崩壊していた。

「開門じゃあぁぁっ! 助けてくれぇっ!」

「塩を……塩水を一杯恵んでくだされぇぇっ!」

砦の粗末な板戸が内側から乱暴に引き倒され、泥まみれの破落戸たちが次々と這い出してきた。

全員が激しい下痢と脱水で頬を削げ落とし、武器を握る力すら残っていない。砦の奥では、自暴自棄になって暴れ回ろうとした頭目の赤目自身が、飢えた手下どもに後ろから羽交い締めにされ、縛り上げられて転がされていた。

「若君の仰せの通り、一筋の矢も放たずに内側から崩れ申した」

道純が音もなく影から現れ、冷徹に頭を下げた。

刀を交えることなく、兵糧・塩・水利を遮断して自壊させる「完全な無血開城」。

だが――本当の勝負は、この奪還した平地と、捕らえた百余名のならず者たちの「選別と再配置」だった。

飯隈砦の広場。

急ごしらえの長机の前に、俺と、手元の帳面を開いた弥三郎が並んで腰を下ろしていた。

「おい、新入り候補ども! 前へ出ろ!」

弥三郎は野盗たちを射殺すような鋭い眼光で見据え、言い放った。

「これより、若君直々の『選別面談(スクリーニング)』を行う! 過去に人殺しや略奪を主導した救いようのない悪党は、即座に大姶良城の橋口殿へ引き渡して首を刎ねてもらう! だがな、ただ食い詰めて頭目に脅されていただけの奴、まともに土木や畑仕事ができる奴は、更生の機会を与えて蒲生の準構成員として雇ってやる! 嘘をついたら道純さんの行者衆が闇夜で喉笛を掻き切るからそのつもりでいろよォッ!!」

弥三郎の痛烈な脅しと段取りの良さに、平伏した男たちがガタガタと震え上がる。

面談が進むにつれ、意外な事実が次々と明らかになっていった。

百余名のうち、根っからの凶悪犯は頭目の赤目を含む数名のみ。

残りの大半は、周辺の戦乱で田畑を焼かれた逃散農民や、伊東・禰寝・肝付などの過酷な軍役に耐えかねて逃亡した端武者たちだったのだ。中には、かつて蒲生落城の折に散り散りになり、他家で冷遇されて食い詰めた末に野盗へ身を落としていた「元・蒲生家の下級小者」すら十数名混ざっていた。

「お、おおお……っ! お主は、かつて蒲生本城の馬屋におった三蔵ではないか!」

甚兵衛が白髪混じりの髭を震わせ、泥まみれの男の肩を掴んで涙ぐんだ。

「爺様、面談中に感動の再会で仕事を止めるんじゃないよ!」

弥三郎が怒鳴りつけつつも、その筆は手際よく台帳へ名前と技能を書き留めていく。

「若君、選別が完了しましたぜ」

弥三郎が算盤をパチパチと弾き、薄板の棚卸し台帳を俺の前に差し出した。

「処分対象の凶悪首謀者は赤目をはじめ四名のみ。残る百名余りは、農民が五十、陣地普請の土木工兵が三十、即戦力の武者が二十五名――そのうち十数名はうちの元家臣です。さらに飯隈奪還の噂を聞きつけて、近隣から旧蒲生の武士や職人たちが雪崩れ込んできてますぜ」

弥三郎は台帳の頁をめくり、誇らしげに、かつ呆れ果てたような声で数字を読み上げた。

「専業武士団は八十名から一気に百五十名へ倍増。行者衆が五十名、水運警備衆が六十名、飯隈の開拓防衛要員が八十名……職人や女子供まで含めりゃ、我が陣営の総人口は三百八十名から【約八百五十名】へと跳ね上がりました」

「百五十名の専業武士に、総勢八百五十人の大所帯か」

弥三郎は手元の台帳を閉じ、天を仰いで深いため息をついた。

「若君、もう笑えませんよ。山奥の捨て石どころか、兵糧も武器も自前で揃えた立派な独立領主(小大名)になっちまいました。……飯隈のこのだだっ広い平野、どうやって要塞にする気なんです?」

「簡単だ、弥三郎」

俺は立ち上がり、見渡す限りの広大な飯隈の平坦地を見渡した。

「獅子目が『隠れ工房と迎撃の山城』なら、この平坦な飯隈は『大規模な兵糧集積と軍馬・物資の補給拠点(ロジスティクスハブ)』にする。周囲に孟宗竹の防弾竹束を連ねた三重の逆茂木を張り巡らし、地下には暗渠排水パイプを通した隠し田と調練場を広大に整備するぞ」

山奥の獅子目、川筋の大姶良、海の高須、そして平野の飯隈。

点と点が結ばれ、生産・流通・兵站が完璧に循環する「不落の軍事経済特区」が、ついに完成したのだ。


明日は7時投稿予定です。

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