外伝 虎の爪、雅の衣 ―島津家久覚醒記―第四話 『虎は雅の衣を纏いて眠る』
本日5話目です。
元亀元年(一五七〇年)の春、鹿児島城の本丸庭園。
満開の山桜が風に舞う濡れ縁で、十五歳となった島津又七郎(家久)は、端正な姿勢で鉄瓶の湯気を見つめていた。
前髪を切り落とし、引き締まった頬にはうっすらと髭の剃り跡がある。
粗削りだった少年の肉体は、歳月を経て、しなやかな豹のような均整の取れた若武者へと変貌を遂げていた。その身に纏うのは、泥臭い野良着ではなく、仕立ての良い藍染めの直垂。
カラン、と柄杓が茶釜の縁を鳴らす。
滑らかな手つきで湯をすくい、茶碗へ注ぐ所作には、一切の無駄な揺らぎがない。
「……ふむ。手前も見事、茶の立ち上がりも申し分なし。まこと、見違えるような腕前になられましたな」
縁側の向かいに座る茶頭・玄斎が、目を細めて髭を撫でた。
その隣では、京より下向している連歌師・兼如が、満足げに白扇を畳んでいる。
「日向や大隅の荒くれどもが『薩摩の四男坊は戦狂いの野良犬』などと噂しておるのが、笑止に思えまするな。これほどの歌道と茶の湯の嗜み、京の公卿と並んでも些かも引けを取りませぬぞ」
兼如の賛辞に、又七郎は口元をわずかに緩めて一礼した。
だが、その茶碗を置いた指先には、日々の鷹狩と弓の引き絞りで刻まれた硬いタコが、皮膜のように張り付いている。
「お褒めに預かり恐悦に存じまする、兼如殿。……なれど某は、父上より『田舎侍と侮られぬよう、身内としての恥を雪ぐための手習い』を命じられたに過ぎませぬ」
淀みのない、落ち着いた貴公子としての受け答え。
兼如と玄斎は感心したように頷き、茶を飲み干して席を立った。
二人の人影が廊下の角を曲がり、完全に気配が消えた――その瞬間。
「……ッだァァーーッ!! やってらんねぇぇッ!!」
又七郎は直垂の襟元を乱暴に緩め、畳の上に大の字になって転がった。
先刻までの雅やかな佇まいは一瞬で霧散し、いつものやんちゃで粗野な目つきが剥き出しになる。
「なんだってんだよ! 湯を汲むのに右足から出せだの、茶を回す角度が足りねえだの! 足が痺れて感覚がねえっつの! 鹿を追って山を半日駆ける方がよっぽど楽だわッ!」
素足をバタバタと板敷きに打ちつけ、首筋をボリボリと掻きむしる。
どれほど教養を身につけ、雅の衣を纏おうとも、骨の髄に染み付いた野良犬のような荒々しさは、何一つ変わっていなかった。
だが――。
転がったまま見上げる春の青空の下、又七郎の瞳は、数年前とは比べものにならぬほど冷徹に研ぎ澄まされていた。
(……だが、この『衣』の便利さは認めざるを得ねえな)
懐から取り出したのは、使い込まれて端が擦り切れた『孫子』の竹簡。
都の使者や他家との談判の席で、礼節を尽くして相手を油断させ、こちらの牙を覆い隠す。相手が「ただの田舎侍」「無害な若武者」と侮って間合いを詰めてきた瞬間――相手が敷いた土俵そのものをひっくり返し、罠へ引きずり込んで首を刈る。
父・貴久が言った「雅を知らぬ武勇はただの凶器」という言葉の真意を、今の又七郎は完全に己の血肉としていた。
その時、庭の木々の梢がバサリと鳴った。
空から鋭い風切り音とともに舞い降りてきたのは、見事に仕立て上げられた大鷹だ。
又七郎は寝転がったまま左腕を掲げ、革手袋でその鋭利な爪を受け止める。
鷹の足元には、大隅の山林から届けられた極小の竹筒が括り付けられていた。
「……大隅の、獅子目か」
又七郎は起き上がり、竹筒から薄い和紙の切れ端を抜き出した。
そこには、大姶良と高須の物流を掌握し、シラス台地の谷底で着々と兵糧と鉄砲の備蓄を進める「あの男」の動向が記されていた。
楠千代丸――大隅の死地で泥水をすすりながら、島津本家すら手を出せぬ防壁を築きつつある異能の弟。
(又八……お前が山奥で資材と兵站をこねくり回して、俺たちのための舞台を整えてるんだな)
又七郎は口端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
北の丸の裏庭で、五歳の小倅が弥三郎と甚兵衛を使って見せた「見えない罠」。
あの屈辱から始まった己の修練は、今や戦術と教養、そして冷徹な勝負勘を併せ持つ「一門の将」としての形を成していた。
「おい、馬を引けッ!」
又七郎は立ち上がり、直垂を翻して近習たちへ下知を飛ばした。
腰の太刀を確かめ、左腕の鷹を据え直すその姿には、島津家を背負って立つ若き猛将の覇気が満ち溢れている。
いずれ訪れるであろう、日向・伊東との決戦の地「木崎原」。
楠千代丸が後方から送り込んでくる兵站と鉄砲を受け取り、この研ぎ澄まされた爪で敵の大軍をすり潰すその日まで――島津家久の覚醒の時は、静かに満ちようとしていた。
これで家久外伝は終わりで次から第二部です。今日第二部一話を21時に投稿して明日からは基本的に一日一話更新になります。




