外伝 虎の爪、雅の衣 ―島津家久覚醒記 第二話 『鷹の眼、茶の息』
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夜明け前の澄んだ冷気が、本丸の稽古場に満ちていた。
十一歳の島津又七郎(家久)は、板敷きの上に正座し、父・貴久から投げ渡された唐本『孫子』の頁をめくっていた。
読み慣れぬ漢文の連なり。行燈の油煙に目をしばたたかせながら、擦り切れた指先で文字を追う。
『兵とは詭道なり。故に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し……』
(……これだ)
又七郎の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
数日前、北の丸の裏庭で起きた屈辱の光景が、頭の中で鮮明に甦る。
あの時、五歳の又八は自ら木刀を抜くことすら制し、ただ縁側に座っていた。
木刀を振りかざして突進した己に対し、立ちはだかったのは竹箒を持った弥三郎(十五歳)だった。
弥三郎が無様に怯えて逃げ腰になるのを見て、「勝てる」と確信して踏み込んだ瞬間――足元に張られた荷揚げ用の麻縄に足をすくわれ、紙漉きの糊混じりの泥水を浴びせられて無様に転倒したのだ。
気がつけば、弥三郎の剪定鋏と甚兵衛の丸太、そして又八が構えた竹竿に完全に包囲されていた。
(あいつは、最初から自分の腕力で勝とうとなんざしていなかった。弥三郎をエサにして俺の目を眩ませ、罠のある場所へ引きずり込んで完封したんだ)
個人の武勇で突撃することしか頭になかった己に対し、五歳の弟はすでに『孫子』が説く「人を動かし、虚を突く」戦術を、庭先の日常道具で体現していたのだ。
「……くそっ。文字面で読めば当たり前のことなのに、なんであんな小倅に先を越されてやがんだ」
又七郎は膝を叩き、本を懐にねじ込んだ。
朝の光が差し込むと同時に、今度は腰に佩いた刀を確かめ、城外の雑木林へと駆け出していった。
「ホゥッ、ホゥッ!」
澄んだ冬晴れの空に、鋭い呼び声が響く。
腕に分厚い革の手袋(結び懸)をはめた又七郎の手元へ、風を切って一羽の若鷹が舞い降りてきた。
爪が革に食い込むずっしりとした重み。獲物を狙う鷹の琥珀色の瞳は、冷徹に眼下の野原を捉えている。
又七郎が得意とするのは、幼少より親しんできた鷹狩だった。
(鷹を放つのは、力任せに腕を振ることじゃねえ。……風の向きを読み、獲物が草むらから飛び出す間合いを測り、逃げ道を塞ぐ位置へ鷹を滑り込ませる)
ふと、兵法書の言葉と鷹狩の呼吸が、頭の中で一本の線に繋がった。
鷹をただ飛ばすのではなく、勢子に草むらを叩かせて獲物の走る方向を操り、最も仕留めやすい隘路へと追い込む。
(……戦も同じだ。正面から槍を突き合わせる前に、敵が『ここを通るしかない』という地形へ追い込み、足を止めさせれば、何倍の敵だろうとすり潰せる)
野生の勘だけで動いていた少年の頭脳に、戦術という名の骨格が急速に組み上がっていく瞬間だった。
だが――。
「又七郎様! 姿勢が崩れておりますぞ! 手前を急ぐあまり、柄杓の扱いが雑になっております!」
午刻、城内の奥御殿の一室。
畳の上に正座させられた又七郎の額を、細い竹の指し棒がピシッと叩いた。
「いってぇッ! なんだよジジイ、茶なんて飲めりゃあ何でも同じだろうがッ!」
又七郎が膝を崩して怒鳴り返すと、茶頭を務める老僧・玄斎は眉をひそめ、深々とため息をついた。
「これだから田舎武士の若様は困る。茶の湯とは、ただ湯を沸かして飲む遊興ではございませぬ。静寂の中で己の雑念を払い、一挙手一投足に至るまで呼吸を整え、対座する相手の腹の内を無言で探る……極限の駆け引きの場でございますぞ」
「……相手の腹を探る?」
「左様。茶碗の回し方一つ、茶の点て方一つで、相手が恐れておるのか、焦っておるのか、あるいは侮っておるのかが手にとるように分かるもの。京の公家や他国の使者と対するとき、無作法を晒せば『島津の侍は猿同然』と足元を見られ、談判で喉笛を掻き切られますぞ」
玄斎の冷ややかな言葉に、又七郎はぐっと言葉を詰まらせた。
昨夜、父・貴久から叩きつけられた叱責が耳の奥で鳴り響く。
『都の公家や他国の大名から、「薩摩の島津はただの田舎侍よ」と侮られてどうする! 歌一つ詠めず、茶の作法一つ知らぬ男が、他家との外交で対等に渡り合えると思うてか!』
又七郎はギリリと奥歯を噛み締め、崩しかけた足を再び引き締めて正座し直した。
「……もう一回だ。柄杓の持ち方から教えろ」
「ほう……」
玄斎が意外そうに目を細める。
乱暴で手のつけられない暴れ馬と聞いていた四男坊の瞳に、獲物を狙う鷹のような、貪欲な光が宿っていたからだ。
荒削りな武勇の奥底に、兵法の冷徹さと、雅の衣という名の「見えない鎧」を纏い始めた島津又七郎。
その成長は、やがて島津家中を揺るがす戦場で、強烈な異彩を放つこととなる。
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