外伝 虎の爪、雅の衣 ―島津家久覚醒記― 第一話『折れた木刀と古唐本』
本日2話目の更新です
夜の静寂を切り裂くように、風を断つ鈍い音が本丸の裏庭に響いていた。
「……だぁぁッ! ちくしょうがッ!」
十一歳の島津又七郎――後の島津家久は、汗みどろの額を腕で乱暴に拭い、素振りの体勢から力任せに木刀を地面へ叩きつけた。湿った黒土が跳ね、素足の指先にこびりつく。荒い呼気が白く立ち上り、肩が激しく上下した。
両の掌は、豆が潰れて生々しい赤肉が覗いていた。だが、どれほど素振りを重ねても、どれほど腕の筋肉を張らせても、数日前に北の丸の裏庭で味わったあの屈辱が、胸の奥底から消え去ることはなかった。
(……指一本、触れられもしなかった)
五歳の妾腹の弟・又八(楠千代丸)。あの日陰者の小倅は、自らは木刀を握ることもなく、ただ幼児の足で立ち尽くして指図しただけであった。
逃げ回る弥三郎の竹箒で視界を奪われ、物陰の甚兵衛が引いた荷揚げ縄に足をすくわれ、台所口からぶちまけられた泥水で滑り倒され――気がつけば木刀を弾き飛ばされ、五歳児の突き出す竹竿と手下どもの包囲の中に転がされていたのだ。
武芸の技量なら、圧倒的に勝っていたはずだった。踏み込みの鋭さも、一撃の重さも、十五歳とはいえ武士の体すらできていない軟弱な弥三郎ごとき、叩き伏せるなど造作もないはずだったのだ。それなのに、五歳の童に指図された手勢と庭の道具を前に、間合いを詰めた瞬間に心理を読まれ、足元をすくわれ、手も足も出ずに完敗した。
「腕っぷしだけじゃ……駄目なのかよ」
絞り出すような呟きが、夜露に濡れた庭石に吸い込まれていく。
同じ妾腹という日陰の境遇。本家の三人の兄たち――大名家の後継として重臣に傅かれる義久、前線で槍を振るう義弘、鋭い知謀で家中を取り仕切る歳久。彼らの背中を追うため、自分には「戦場で誰よりも敵の首を獲る豪傑になる」道しかないと思い定めていた。武士は力だ。首を獲り、槍を振るい、敵をなぎ倒せば、出自の低さなどねじ伏せられると信じ込んでいた。
だが、あの五歳の弟が見せたのは、個人の武勇とは全く別の次元にある「人を連動させて敵をハメる戦術」――戦の理だった。
一人で考えても、答えは出ない。ただ木刀を振り回すだけの自分と、周囲の人間や道具を手のひらの上で連動させる又八との間にある、埋めようのない溝。奥歯をギリリと噛み締め、又七郎は泥まみれの木刀を拾い上げた。
(……親父殿に、聞くしかねえ)
思い詰めた少年の足は、躊躇うことなく本丸の奥、父・貴久の私室へと向かっていた。
「……又七郎か。夜更けに何事じゃ」
行燈の薄明かりの下、書きかけの書状から顔を上げた島津貴久は、寝乱れた小袖のまま平伏した四男を見下ろした。泥と汗にまみれ、擦り切れた袴の裾からは、まだ十代前半の引き締まった脛が覗いている。
又七郎は敷居に両手をつき、畳に額を擦り付けるようにして声を絞り出した。
「父上……! 某に、戦のやり方を教えてくだされ!」
「戦のやり方、だと?」
貴久は筆を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。五十を前にした歴戦の武将の双眸が、射抜くように息子の頭頂へ注がれる。
「お前は毎日、日が暮れるまで木刀を振り回しておると聞いておるぞ。弓も馬も、同年代の小姓どもより頭一つ抜けておる。これ以上、何を教えろと言うのじゃ」
「それだけでは……駄目なのでございます!」
又七郎は弾かれたように顔を上げた。血走った瞳の奥に、悔しさと焦燥、そして純粋な渇きが宿っている。
「槍をどれほど鋭く突こうと、刀をどれほど強く振ろうと、敵に手足を縛られ、泥沼に引きずり込まれれば、一撃も当たらずに首を狩られます! ……某は、ただの猪武者になりとうはございませぬ! 敵の動きを読み、人を動かして罠にハメる……本物の『戦の勝ち方』を知りたいのでございます!」
言葉を放ち終えた又七郎の肩が、激しく上下する。北の丸での敗北を直接口にはしなかったが、貴久にはすべて見透かされていた。貴久の唇の端が、わずかに吊り上がる。
「ふっ……。又八に転がされたか」
ピクリと又七郎の眉が跳ね上がった。恥辱に顔を赤く染め、再び平伏しようとする息子の前に、貴久は机の脇に積まれていた古い竹簡と墨塗りの小箱を無造作に放り投げた。
バサリ、と乾いた音を立てて畳に転がったのは、手垢で黒ずんだ古い唐本の束だった。
「……父上、これは?」
「『孫子』と『孟徳新書』じゃ」
貴久はあぐらをかき直し、太い腕を膝の上に置いた。
「武辺を誇るだけの男なら、槍の柄を握り、馬を駆って敵陣へ突っ込んで討ち死にすればそれでよい。……だがな、又七郎。お前は島津の一門じゃ」
「一門……」
「そうじゃ。妾腹であろうとなかろうと、島津の血を引き、いずれ軍勢の先頭に立って何百、何千の将兵の命を預かる『将』よ」
貴久の声は低く、だが部屋の空気を底から揺らすような重みを持っていた。
「一人の兵なら、己の腕っぷしで敵を倒せば足りる。だが将たる者は、人を動かし、地形を読み、敵の驕りを誘って陣形を崩さねばならん。……『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』じゃ。まずはその書を頭に叩き込め。戦とは、刀を抜く前に勝敗の八割が決まっておるものじゃ」
又七郎は震える手で、転がった唐本を拾い上げた。紙の擦れる匂いと、古い墨の香気。指先から、今まで自分が触れてこなかった「知」という名の武器の重みが伝わってくる。
だが、貴久の言葉はそれだけで終わらなかった。
「……それとな、又七郎。明日からは、武芸の稽古を昼までに切り上げよ」
「え……?」
「午刻からは、近衛殿より遣わされた連歌師と茶頭のもとへ通え。和歌を詠み、茶を点て、筆を執るのじゃ」
予想もしなかった言葉に、又七郎は思わず目を剥いた。
「わ、和歌に茶の湯……!? 父上、某は武士でございます! 都の軟弱な遊びなど――」
「馬鹿者がッ!」
貴久の怒号が落ち、板戸がビリビリと震えた。
「誰が遊びと言った! 都の公家や他国の大名から、『薩摩の島津はただの田舎侍よ、武骨なだけの野蛮人よ』と侮られてどうする! 歌一つ詠めず、茶の作法一つ知らぬ男が、他家との外交や談判で対等に渡り合えると思うてか!」
立ち上がった貴久の大柄な影が、十一歳の少年をすっぽりと包み込む。
「雅を知らぬ武勇は、ただの凶器じゃ。教養なき強さは、犬の遠吠えに等しい。……島津の将となるならば、刀を振るう腕と同じ手で、筆を執り、茶碗を回せ。京の貴族どもに『薩摩の四男坊、ただ者ではない』と喉を鳴らさせてみせよ」
暗がりの中、父の眼光がギラリと光った。
又七郎は息を呑み、胸の奥で何かが弾ける音を聞いた。力だけを求めていた粗削りな少年の世界が、今、根底から音を立てて広がり始めていた。
「……ははっ! 謹んで、お受けいたしまする!」
唐本を胸に抱きしめ、又七郎は深く畳に頭を叩きつけた。後の名将・島津家久が、「野戦の芸術家」でありながら「当代一流の教養人」へと歩み出す、最初の夜だった。
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