老雄の愛憎 ―島津貴久と日陰の五男― 第三話夜風の物見櫓
貴久外伝、これで終わりです、次は家久外伝を挟み第二部になります。
本丸の奥、軍議の間。
初夏の風が吹き抜ける大広間には、重苦しい沈黙と、研ぎ澄まされた刃のような気配が淀んでいた。
上座にどっかりと腰を据える島津貴久の前に、三人の若武者が整然と居並んでいる。
長男・義久(三十歳)、次男・義弘(二十八歳)、三男・歳久(二十六歳)。
島津の正統なる後継者たる、本家の三兄弟だ。その手前、末席の板敷きには、白絹と桐箱に収められた「特注サボン」の包みが三つ、静かに置かれていた。
「……父上」
静寂を破ったのは、腕組みをしたまま眉間に深い不快の皺を刻んでいた義弘だった。
「呼び出しとあれば、日向の伊東か肝付への手当ての軍議かと思えば……何ですか、その女子供の泥石は。奥の小倅(又八)がこねた泥を配るために、我らを集められたのですか」
吐き捨てるような直言。前線で常に槍を振るう義弘にとって、戦の役に立たぬ小商いの品など、視界に入れる価値すら怪しいものだった。
だが、貴久は怒るでもなく、低く喉を鳴らした。
「義弘。貴様は日向の境目で、敵の矢傷や刀傷を負った手勢を何人見殺しにしておる」
「……何でございますか、いきなり」
「傷口が膿み、熱を出して死ぬ兵の数じゃ。……この泥石で傷を洗い、泥と脂を落としてから薬草を貼ってみよ。傷の治りが倍は早くなり、膿んで手足を切り落とす手勢が半減する」
義弘の太い眉がピクリと跳ね上がった。
「……手勢の損耗が、減る……?」
「左様よ。兵の補充がきかぬ国境の城において、手負いが生き残る意味が貴様に分からぬはずはあるまい。……城下の鍛冶屋に作らせた『普及品』の泥石を、来月より飯野城の兵糧庫へ毎月五十塊送り届ける。兵の身体と手足をこれで洗わせよ」
義弘は言葉を失い、膝の上の刀の柄を握り直した。
武辺一筋の男であっても、「手勢の損耗を抑える資材」という実利を叩きつけられれば、もはや反論の余地はなかった。
その横で、扇子を静かに弄んでいた三男・歳久が、細い目をさらに細めて口を開いた。
「……なるほど。軍役の消耗を抑える輜重(兵站)としての手当て、誠に理にかなっております。……ですが父上、この桐箱に収められた極上の品は、兵に配るような代物ではございますまい」
歳久の指先が、白檀の香りを放つ特注サボンを指す。
その涼やかな双眸の奥には、六歳児が仕掛けた「異様な経済構造」の裏を見通そうとする、冷徹な知性が光っていた。
「山形屋の嘉兵衛が、城下で鼻息を荒くして触れ回っておりますぞ。『島津御用・薩摩霊石』と銘打ち、博多や堺の豪商へ法外な高値で持ち込む手はずを整えているとか。……父上、あのような六歳の童に、島津の銭蔵を揺るがすほどの利権を握らせておくおつもりですか」
「握らせてなどおらん」
貴久は短く切り捨て、歳久を真っ直ぐに見据えた。
「利権はすでに本家が召し上げた。又八に与えたのは、知恵の対価としてのわずかな扶持米と、山伏どもの手間賃に過ぎん。……歳久、この極上サボンのうち、年に百個の裁量をお前に預ける」
「……百個を、拙者に?」
「そうだ。極上のサボン三百五十個のうち、二百五十個はすべて京の近衛殿へ直接送り届ける。……戦乱で困窮する公家や女房どもに配らせ、島津の名を朝廷の奥深くに刻み込むための『近衛殿の顔を立てる献上品』とするのじゃ」
貴久は薄く笑い、続けた。
「そして残る百個の枠こそが、歳久、お前の武器だ。……近衛殿から配られた至宝を目の当たりにし、京の公卿や、織田、毛利、大友といった諸国の大名どもが、必ずや『あの白い薬石を我が家にも分けてくれまいか』と喉から手を出して島津へ使者を寄越してくる。その者たちへ『どれだけ譲り、何を代わりに差し出させるか』――その外交利権の手綱を、すべてお前に差配させる」
歳久の口元が、わずかに引き結ばれた。
(……なるほど。朝廷の最奥を近衛殿の権威で固め、外から群がる諸勢力をこの百個の配分権で手玉に取るか)
金銀を積むより、南蛮渡来の極上の香りを放つこの石を「限定して下賜する」方が、都の貴族や大名どもはよほど平伏する。
六歳の童が持ち込んだ銭儲けの種を、父親である貴久が一瞬で「中央政局を操る外交兵器」へ組み替えてみせたのだ。歳久は深く頭を下げ、桐箱を押し戴いた。
そして、最後に残された長男・島津義久が、重々しく口を開いた。
「……父上。物資としての利便、外交の利権、いずれも異存はございませぬ。……なれど、問題はあの童そのものにございます」
義久の漆黒の双眸は、感情の一切を削ぎ落とした統治者の光を宿していた。
「わずか六歳にして、原価を弾き、専売の枠組みを作り、本家を巻き込んで公認を引き出した。……その知恵の鋭さは、もはや異様。しかも後ろには、滅ぼされた蒲生の遺臣と霧島の山伏どもが控え、あの童の手足を支えております。……あれを生かしておくことは、将来、島津の家中に二つの頭首を抱える火種となりかねませぬぞ」
冷徹な後継者としての、至極もっともな危機感。
大名家の家督を守るためならば、どれほど有能な血族であろうとも間引かねばならぬ――それが戦国の掟だった。
貴久は肘掛けに腕を置き、静かに息を吐いた。
「義久。お前の懸念はもっともじゃ。……仇敵・蒲生の血を引く者が、中途半端に才気を放ち、城下の膝元で力を蓄えれば、いずれ家中を割る刃となろう」
「ならば――」
「だがな」
貴久は太い声で長男の言葉を遮り、鋭利な眼光を突きつけた。
「儂が現役でおるうちは、あの小僧の手綱などいくらでも握り潰せる。……そして義久、いずれお前が島津の家督を継いだ時、あの異能の弟を使いこなすだけの度量が、お前にないと思うておるのか?」
義久の喉仏が、わずかに動いた。
「切れ者の身内を恐れて殺すだけなら、凡百の国人領主と変わらん。島津が三州を呑み、九州を制する大名となるならば……あの異質の頭脳すらも、自らの手足として使い倒す器量が要る。……違おうか、義久」
「……」
義久は深く息を吸い込み、畳に両手をついた。
「……父上のお言葉、肝に銘じまする」
「うむ。……だが、城下に長く置いておくつもりもない。いずれ時期を見て、相応の『試練』を与える。……死んで野垂れ死ぬならそれまでの器。もしその死地を己の知恵で覆して帰ってくるならば、その時は島津の確固たる柱として席を与えればよい」
貴久は立ち上がり、軍議の席を後にした。
――その夜。
本丸館の背後、山裾の土塁の上に組まれた素朴な物見櫓から、貴久は一人、北の丸の暗がりを見下ろしていた。
高い石垣も天守もない、平屋の館が連なる薩摩の中世城郭。その日当たりの悪い長屋の奥で、頼りない行燈の明かりが一つだけ、ぽつりと灯っている。
(……又八。恨むなら父を恨めよ)
太い指先が、物見櫓の粗削りな手すりを強く軋ませる。
凡庸な妾腹であったなら、奥向きの片隅で一生平穏に飼い殺してやれたものを。
なまじ己の度肝を抜くほどの知恵と才覚を見せてしまったがゆえに、この子は戦国の血みどろの濁流へとその身を投じる運命を背負ってしまった。
(生き残ってみせよ、又八。……島津の家を呑み込むほどの柱となって、儂の前に立ちふさがってみせよ)
冷たい夜風が吹き抜ける中、戦国大名・島津貴久は、暗闇の中に息づく幼き怪物の未来を見据え、静かに目を閉じたのだった。
次は15次更新予定です。




