第136話 安芸の評定と引き延ばしの舌先
天正六年(一五七八年)十二月上旬
中国山地から吹き下ろす凍てつく木枯らしが、安芸・吉田郡山城の重厚な屋根瓦を鳴らしていた。
毛利宗家の本拠、評定の間。
中央に据えられた大きな銅の火鉢には赤々と炭が熾されていたが、座敷を満たす空気は極寒の雪嶺よりも冷たく張り詰めていた。
上座に座す毛利家当主・毛利少輔太郎輝元の前には、九州から届いたばかりの一通の書状が広げられている。
八代の島津義弘、新納忠元、そして佐嘉の島津崇清の三名連名による、正式な軍事通牒であった。
そこには、正親町天皇の綸旨の写しを添えて、こう記されていた。
――『朝廷より九州全土の静謐と治安代行を委ねられた島津である。毛利家が大友の混乱に乗じて掠め取り、不当に占拠し続けている門司城、ならびに豊前沿岸の全拠点を、即刻朝廷および島津へ引き渡されたし』
「……薩摩の田舎侍どもが」
火鉢の脇に座していた吉川治部少輔元春が、地を這うような低音で吐き捨てた。
筋骨逞しい巨躯を軋ませ、膝の上の太刀の鞘を鷲掴みにする。
その眼には、獰猛な武人の怒火が燃え盛っていた。
「龍造寺の山城守を泥田で討ち取ったと聞いておれば、よほど気色が良くなったと見える。朝廷の綸旨を振りかざし、毛利に門司を明け渡せだと? 片腹痛いわ!」
元春は書状を睨みつけ、広間の一同を見回して咆哮した。
「門司は関門海峡を扼し、周防灘と瀬戸内海の西口を塞ぐ我が毛利の喉首ぞ! 先代・元就公が幾多の血を流して大友より奪い取って以来、二十年近く守り抜いてきた城じゃ! ここを島津に引き渡してみよ。村上水軍や警固衆の面目は地に落ち、瀬戸内の制海権は根底から覆る! 断じて一歩も引いてはならぬ! 押し寄せてくるならば、海峡の急流に沈めて魚の餌にしてくれるまで!」
元春の激昂は、単なる血気によるものではなかった。
軍事の現場を束ねる司令官として、門司城を失うことが毛利の海洋安全保障の崩壊を意味することを、誰よりも正確に理解しているがゆえの怒りであった。
並み居る重臣たちが元春の気迫に呑まれる中、火鉢の向かいに座る男が、静かに湯呑みを持ち上げた。
小早川左衛門佐隆景である。
毛利両川のもう一方の柱たる智将は、湯気の向こうから冷静沈着な双眸で兄を見据えた。
「兄上の仰る通り、門司を易々と手放すわけには参りませぬ。……だが、今すぐ島津と全面衝突に及ぶのは、毛利を自ら滅びの淵へ追い込む下策にございます」
「何だと、隆景!」
元春が眉を吊り上げた。
隆景は動じることなく、指先で卓上の絵図面を指し示した。
「東の戦況をお忘れか。播磨では羽柴筑前守が三木城を包囲し、いまだ城中の別所長治は耐え忍んでおる。摂津では荒木村重が織田に背いて有岡城に籠もり、調略に訪れた黒田官兵衛を土牢に閉じ込めて頑強に抗戦を続けておる。……だが、先月の第二次木津川口海戦で我が毛利水軍は織田の鉄甲船に敗れ、大坂の本願寺への補給路はなお細々と繋いでおるものの、極めて危うい状況にあるのですぞ」
隆景の冷徹な指摘に、広間がしんと静まり返った。
「毛利の主力が東の織田戦線に釘付けになっているこの間隙に、西の島津と関門で大会戦を起こしてみなされ。もし海峡で敗れでもすれば、毛利は東西から挟み撃ちにされ、中国十カ国の屋台骨が音を立てて崩れ去る。……島津との戦は、毛利の総力戦となり、東の防壁を自ら取り払う結果にしかなりませぬ」
「ならば、無抵抗で門司をくれてやれと申すのか!」
元春の詰問に、隆景は首を横に振った。
「引き渡すとは申しておらぬ。……島津の実情を冷静に見極めるべきだと申しておるのです」
隆景は居住まいを正し、当主の輝元へ視線を向けた。
「島津は大友を耳川で破り、龍造寺を沖田畷で討ち取った。確かに九州においては破竹の勢いに見えましょう。……だが、彼らが討ち取ったのはいずれも九州の陸の勢力にすぎぬ。大友の旧領も肥前も、平定したばかりで足元はまだ泥濘のままのはず。いくら勢いがあろうと、海峡を挟んで海上補給を維持し、毛利警固衆と渡り合えるだけの水軍戦力も兵站も、島津にはまだございませぬ。関門の制海権を握っておる限り、門司城は容易には落ちぬのです」
隆景の計算は、毛利家が長年培ってきた海洋支配と兵站の常識に裏打ちされた、極めて合理的な現状認識であった。
遠征を終えたばかりの軍勢が、休む間もなく関門海峡の荒波を越え、本州の巨頭たる毛利と全面的な海戦に踏み切れるはずがない。
島津の通牒は、大軍の余威を駆った恫喝に違いない――隆景の眼には、そう映っていたのである。
その時、重臣たちの末席から、衣擦れの音とともに一人の僧が進み出てきた。
黒衣の法衣に身を包んだ、安芸安国寺の住職・安国寺恵瓊であった。
剃髪した頭を深々と下げ、口元に捉えどころのない笑みを浮かべる。
「左衛門佐様の仰る通りにございます。……いま戦端を開くは愚の骨頂。されど、門司を明け渡せば毛利の威信は地に落ちる。なれば、打つべき手はただ一つにございましょう」
当主の輝元が身を乗り出した。
「恵瓊、申してみよ」
「はっ。……島津の舌先には、毛利の舌先をもって応酬すべきにございます」
恵瓊は細い目を光らせ、手にした数珠を静かに爪繰った。
「島津の使者に対し、『綸旨の写しを拝見したが、文面にある大友旧領の境界の定めに疑義あり、真意を確かめるため京の禁裏へ使者を立てて照会する』と申し送るのです。さらに、門司はかつて大友家と正当に交わした約定と買い取りの一札に基づく地であると主張し、『安芸本家の長老衆による評定には日数を要する』と言い添えればよろしい」
元春が鼻を鳴らした。
「時間稼ぎか。小細工が通用する相手か」
「通用させねばならぬのです、治部少輔様」
恵瓊は平然と言い放った。
「使者の往復と手続きのやり取りで、ひと月、ふた月と時間を引き延ばす。……その間に、東の織田が播磨や摂津で自滅すれば、毛利は東の憂いを断って西へ全軍を向けられる。逆に、島津が九州の戦後処理で足踏みし、内紛でも起これば、彼らの軍事的圧迫そのものが立ち枯れいたしましょう」
隆景が静かに頷いた。
「……悪くない。島津が本気で攻めてくる気合があるのか、それとも空威張りか。使者を介した駆け引きの中で、その出方と実力を見極めることもできる」
元春はなおも不服そうに奥歯を噛み締めていたが、隆景と恵瓊の論理的な包囲網を前に、やがて荒い息とともに佩刀を畳の上へ置いた。
「……好かんな。戦うなら戦う、退くなら退くで腹を決めぬ策は。だが、背後の織田に腹を裂かれる危険を冒せぬというならば、今は呑むほかあるまい」
「忝のうございます、兄上」
隆景は一礼し、輝元を仰ぎ見た。
「殿。返答の使者には、安国寺恵瓊殿を博多へ向かわせるのが最適かと存じます。あの海千山千の僧ならば、島津の若造どもを煙に巻き、引き延ばせるだけ引き延ばしてくれましょう」
毛利輝元は重々しく頷いた。
「恵瓊。博多へ赴き、島津の使者と対陣せよ。……毛利の領土は一寸たりとも渡さぬという腹底を崩さず、時を稼いでまいれ」
「御意にございます」
安国寺恵瓊は深く叩頭し、薄暗い広間の床を見つめて冷ややかに唇を歪めた。
東の織田信長を睨みつつ、西の島津を舌先で手玉に取る――毛利首脳陣が導き出した「極めて合理的で、隙のない時間稼ぎ」の車輪が、いま静かに回り始めた。
広間の火鉢を見つめながら、隆景は小さく息を吐いた。
この時間稼ぎによって、毛利は東西挟撃の危機をひとまず回避したはずであった。
だが、その稼ぎ出した猶予の間に、島津が九州の地で何を積み上げようとしているのか――その底知れぬ計算の全貌までは、隆景の明晰な頭脳を以てしても、まだ測りきれていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
伊東も大友も龍造寺も毛利も田舎侍、と言いますが……
大友はともかく、それ以外とは家の由緒や守護大名としての来歴で言えば、島津のほうが上なんですけどねw
それに、当時の薩摩は日本三津の一つ、坊津を抱えた土地です。外国から来る人々にとっては日本の最前線であり、日本有数の国際交易の窓口でもありました。
今の坊津を見ても、なかなか想像できないですけどねw




