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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第7部 崇清の婚姻と九州統一

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第135話 佐嘉の開城と安芸への飛脚

すみません、トラブルがあり投稿が遅れました。

天正六年(一五七八年)十一月下旬

沖田畷の泥田に冷たい有明海の潮風が吹き抜けてから、二日後のことである。

肥前・佐嘉城の奥御殿、厳重な監視下に置かれていた鍋島直茂の部屋へ、給仕の小頭が密かに一通の書状と小さな布包みを滑り込ませた。

直茂が包みを解くと、鈍く光る金箔の破片が覗いた。

龍造寺隆信が誇らしげに身に着けていた、あの豪奢な当世具足の大袖の一部である。

「……殿」

小頭が耳元で、かすれ声で囁いた。

「諫早の湊より、島津の早馬が届けたものに相違ございませぬ。沖田畷にて……山城守様は討ち死に遊ばされました」

直茂は両目を固く閉じ、深く、重い息を吐き出した。

悲憤の涙は出なかった。胸を締め付けたのは、あまりにも予想通りの結末に対する、焼けつくような虚脱感と冷徹な諦観であった。

(諫言を蹴飛ばし、泥田へ突っ込んで果てられたか……)

直茂は静かに目を開け、島津崇清から届いたもう一通の書状を広げた。

そこには、流麗でありながら一分の隙もない文字で、こう記されていた。

――『盟約の刻は来れり。直茂殿、貴殿の弟・信房殿の身柄は、合戦の泥濘にて手当てを施し、命に別状なき状態で保護し置く。佐嘉城の門を開き、肥前の民を無用の戦火より救われよ。主家の血統は朝廷の傘の下、都の名家として永遠に保全することを約す』

直茂は小頭へ短く顎を引いた。

合図を受けた小頭が音もなく背後の障子を蹴破ると、廊下に控えていた鍋島の腹心数名が雪崩れ込み、部屋の隅に立っていた目付の武者二名を瞬く間に板敷きへ組み伏せ、猿轡を噛ませて縄を打った。

「直茂様! 表御殿が騒がしゅうございます!」

小姓が駆け込んできた。

「山城守様の凶報が漏れ広まり、龍造寺一門の武者どもが『直茂を島津への内通者として討ち取れ』と抜刀して押し寄せてまいります!」

「騒ぐな」

直茂の声は、冬の氷のように冴え返っていた。

「鍋島の手勢を直ちに本丸の要所へ配備せよ。蔵の米と金には一切手を触れさせず、門の守備を交代させよ。……儂自ら、一門の者どもと対面する」

直茂は佩刀の柄に手をかけることもなく、羽織の胸元を正して堂々と表の広間へと歩み出た。

広間には、抜身の大刀を構えた龍造寺の一族や譜代の重臣たちが殺気立って群がっていた。

「直茂ッ! 貴様、殿を泥沼へ送り出し、己は城に籠もって島津と通じておったな!」

「殿を討たれ、このまま佐嘉が引き下がれると思うか! 城下の者を総動員し、島津の田舎侍どもを迎え撃つぞ!」

怒号と唾飛沫が飛び交う中、直茂は中央の上座の前に平然と座を占め、眼光鋭く一同を見据えた。

「喚くなッ!!」

直茂の腹の底からの怒号が、広間の柱を震わせた。

並み居る武者たちが気圧されて息を呑む。

「城下の者を動員して何をいたす! すでに筑後も北肥後の国衆も、大友旧領の返還を命じる朝廷の綸旨を盾にした島津の威光の前に膝を屈しておるわ! いま佐嘉に籠もって戦えば、残るはただの飢餓と撫で斬りの地獄ぞ!」

「なれば、龍造寺の家名を島津に踏みにじられろというのか!」

一門の若武者が叫ぶと、直茂は首を横に振った。

「踏みにじらせなどせぬ。島津の五男・崇清殿より約定を交わしておる。……大友の旧領を朝廷の裁可に従って引き渡し、矛を収めるならば、山城守様の嫡男・政家様をはじめとする龍造寺の血筋は、都へ送り届けて公家に準じる名家として朝廷の保護の下に置く」

直茂は座敷を見回し、諭すように言葉を継いだ。

「武力で天下を争う器を失ったならば、名誉ある檻に入り、家名を千代に残すことこそが真の忠義。……泥を啜って一族郎党が果てるか、家名を都へ逃がして肥前の民を生かすか。これ以上無駄な血を流す者は、この直茂が自ら叩き斬る!」

その気迫と、逃げ道のない現実を前に、抜刀していた武者たちの切っ先が次々と床へと落ちた。

誰一人として、直茂の言葉を覆す手立てを持たぬことを、誰もが骨身に染みて理解していたのである。

「……城門を開け」

直茂の静かな号令が下された。

「島津の軍勢を、迎え入れる」

*

佐嘉城の大手門が軋んだ音を立てて開け放たれた時、門外に立っていたのは、数千の大軍ではなかった。

商人風の羽織を着流した島津崇清と、わずか数十名の警護兵、そして蒲生島津の重鎮・中馬大蔵重忠であった。

その後方から、粗末な筵を敷いた荷車が一台、静かに進み出てくる。

荷車の上には、右肩に白い晒を巻き、顔色を蒼白にさせた若武者が横たわっていた。

「……兄上」

「信房……!」

直茂の膝が思わず折れかけた。

書状には手当てを施したとあったが、戦国の習い、敵の駆け引きや気休めかもしれぬと疑っていた。だが、目の前にいる弟は、確かに生きて呼吸をしていた。

「沖田畷の乱戦の後、我が方の衛生班が戦場の負傷者を収容する際に見つけましてな」

崇清が歩み寄り、穏やかな笑みを浮かべた。

「泥水の中で槍傷を負って倒れておられたが、すぐに煮沸した真水で洗い、薬草の粉と清潔な布を当てて手当てをさせておいた。骨までは達しておらん。半月も養生すれば、また馬にも乗れよう」

信房の手を握りしめ、その体温を確かめた直茂は、立ち上がると崇清の前へ進み出て、泥にまみれた城門の土間へ両膝をついた。

額を深く地面へ擦り付ける。

「……崇清殿。鍋島加賀守直茂、貴殿の深謀と信義の前に、心服仕り申した。……佐嘉城の蔵、検地帳、武器兵糧の目録、すべて島津の御手へ差し出し申す」

主家の敗北を受け入れ、新たな主従関係に身を置く者の姿であった。

だが、崇清は直茂の差し出した帳面を受け取ると、目を通すこともなく、そのまま直茂の手元へと押し戻した。

「お引き取りください、直茂殿」

「……は?」

直茂が呆然と顔を上げた。

崇清は苦笑交じりに双眸を細め、佐嘉の広大な城下町を指差した。

「俺たち薩摩の田舎侍が、この肥前の複雑な水路や泥田、頑固な国衆の血筋を直接統治できるはずがありませんよ。そんな工数のかかる無駄な真似をすれば、島津の兵站はたちまちパンクします」

崇清の口から出たのは、戦国大名の常識を根底から覆す論理であった。

「佐嘉の城も、肥前の領民も、田畑の収税も、すべてこれまで通り鍋島殿が差配なさればよろしい。肥前の在地支配は、そっくりそのまま鍋島家に委ねます」

「……な、何を仰せか。ならば、島津は何を求められるとおっしゃるのか」

恐れすら宿して問う直茂に対し、崇清は静かに首を振り、羽織の袖から一枚の箇条書きの書付を取り出した。

「島津が鍋島殿に求めるのは、領地を丸ごと奪うことではありません。……島津の庇護の下における『自治』の約定です」

直茂は息を呑み、差し出された書付を凝視した。

そこには、極めて整然とした、しかし逃れようのない主従の枠組みが記されていた。

「第一に、内政の自由はお認めいたします。肥前国内の検地、田畑の年貢収取、家臣団の知行割り当て、領民の裁判は、すべて鍋島殿の裁量に委ねる。島津から口出しの代官を送り込むことはいたしませぬ」

「……まこと、でございますか」

「ええ。ただし――代償として、三つの筋目を通していただきます」

崇清は指を一本ずつ立てて、淡々と告げた。

「一つ、独自の外交権の放棄。他国の大名や朝廷、中央の織田などとの勝手な交わり、および私戦の一切を禁じます。肥前の公儀としての窓口は、朝廷より九州の治安代行を委ねられた島津が代行いたします」

「……御意」

「二つ、有明海沿岸の重要港湾における排他的独占権の放棄、および通商路にかかる不要な関所の撤廃。今後、新たな関所を設ける際は島津の承認を要するものとします。島津の商船や軍船の入港・荷役を拒むことはできず、我が方の流通網を受け入れていただきます」

直茂の背筋に冷たいものが走った。

土地を取り上げる代わりに、外の世界と結ぶ呼吸口をすべて島津が握るというのだ。

「そして三つ――」

崇清の瞳の奥が、鋭い光を放った。

「島津が外征や合戦に及ぶ際、動員要請には基本的に応じる義務を負っていただきます。兵糧の拠出と、鍋島の手勢を率いての従軍です。具体的な動員兵数や割当は追って双方の協議で定めますが……島津の盾となって肥前を守る以上、軍役は果たしていただかねばなりません」

内政という果実を与えられながら、手足と首元には「外交権の剥奪」「通商の開放」「軍役の義務」という三つの頑丈な首輪が嵌められる。

(……自治領、か。力づくで奪い取れば反乱の火種が残る。だがこうして内政の誇りを与え、外への手足をもぎ取って自らの陣営に組み込めば、鍋島は永遠に島津の枠組みから逃れられぬ……!)

直茂は鳥肌が立つのを覚え、今一度、深く頭を垂れた。

「……承知仕り申した。鍋島加賀守直茂、島津の庇護を仰ぎ、肥前自治の責務、命を賭して果たし申す。龍造寺政家様と一族は、直ちに都へ登らせる手配を整えましょう」

「頼みますよ、直茂殿。貴殿のような明晰な実務家が味方についてくれて、誠に心強い」

崇清は満足げに頷くと、くるりと背を向け、有明海の水平線の向こう――北東の空へと視線を向けた。

そこには、周防灘と関門海峡を隔ててそびえる、巨大な名門の影があった。

「大蔵」

「はっ!」

背後に控えていた中馬重忠が、大太刀を佩いた威容で進み出た。

「肥前の始末に目処がついた。八代におられる義弘兄上、忠元殿と連名で、安芸の吉田郡山城へ早馬を飛ばせ」

崇清は懐から、正親町天皇の綸旨の写しを叩いた。

「朝廷より九州の静謐と治安代行を委ねられた島津である。……毛利家が大友から掠め取り、不当に占拠し続けている門司城、および豊前の全拠点を、即刻朝廷ならびに島津へ明け渡せ、とな」

中馬重忠が獰猛な笑みを浮かべて一礼し、早馬の手配へと駆け出していった。

肥前の暴れ熊を泥田に沈め、九州本土の足場を固めた島津の刃が、いよいよ本州の巨頭――毛利家へと向けられようとしていた。


お読みいただきありがとうございます。


いよいよ…九州統一最後の壁、中国の覇者にして九州にも領土を持つ毛利が視野に入ってきました…

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