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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第7部 崇清の婚姻と九州統一

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第134話 泥田の巨熊と海の雷鳴

天正六年(一五七八年)十一月

島原半島・沖田畷。

有明海から吹きつける鉛色の冬風が、枯れ葦を激しく波打たせていた。

泥濘の細道に押し込められた龍造寺軍の先頭は、もはや隊列の体を成していなかった。

先頭を進んでいた数千の騎馬と歩卒が底なしの黒土に足を取られて立ち往生し、その後方には二万を超える大軍勢の縦列が街道を埋め尽くして身動きが取れなくなっている。

左手(東)の有明海は広大な干潟泥、右手(西)の雲仙岳裾野は切り立つ崖と竹薮。

「押すな! 泥に脚を呑まれるぞ!」

「前の者を押し出せ! 日野江へ突き進むのじゃ!」

怒号と悲鳴が入り混じる中、人夫六人に担がれた龍造寺隆信の頑丈な軍輿が、ずぶりと泥田に沈み込んだ。

「役立たずどもめが! 早う輿を上げんか!」

金箔押しの甲冑を軋ませ、隆信が輿の縁を扇子で打ち叩いて咆哮する。

その巨漢を支えようと足掻く人夫たちの脛を、冷たい泥水が無慈悲に絡め取っていた。

その時である。

ドオォォン――……!

左手、有明海の海上から、腹の底を揺るがす重低音が響き渡った。

「な、何事じゃ!?」

隆信が脂汗の浮いた顔を跳ね上げ、海を睨みつけた。

灰色の波を蹴立てて現れたのは、白い竹骨帆をピンと張った島津快速関船の船団であった。

沖合に投錨して船体を安定させた旗艦の舳先で、崇清は遠眼鏡を下ろし、甲板の砲手たちへ扇子を向けた。

「海戦の定石は船の足を奪うことですが……今回は例外です。敵を泥濘に縫い留めるため、陸へ撃ち込みます」

崇清は静かに息を吸い込んだ。

「目標は泥田中央の密集地帯! あの金色の輿を目印に、敵の縦列を叩け! 子砲装填、撃ち方始め!」

「おうよッ! 国崩し、ぶっ放せェッ!!」

甚五郎の号令とともに、砲架の梁へ鉄楔が打ち込まれる。

ドガァァァンッ!! ズドォォォォンッ!!

関船の舷側から火を噴いた青銅フランキ砲が、唸りを上げて鉛弾を撃ち出した。

砲弾は海を越え、身動きの取れぬ龍造寺軍の頭上へ降り注いだ。

泥田が数十丈の高さまで跳ね上がり、吹き飛んだ泥水と鉄片が密集する兵たちをなぎ倒す。

「う、海から大筒じゃッ!?」

「島津の水軍が海におるぞッ!」

陸上戦しか頭になかった兵たちにとって、射程外の海上から撃ち込まれる鉄雷は悪夢に他ならなかった。

密集した隊列は大混乱に陥り、馬は狂乱していななき、泥の中で主を振り落として暴れ狂う。

「……甚五郎、陸への砲撃はやめだ。これより各船は海上の退路遮断に回れ」

崇清は腰の短筒を空へ向け、引き金を引いた。

パァン、と赤い狼煙が冬空に上がる。

砲撃の停止と突撃を知らせるその合図を受け、南の微高地から大地を裂く陣太鼓が鳴り響いた。

ドンドコドンドコ、ドンドコドン!

「掛かれェッ! 一匹残らず泥に叩き落とせィッ!!」

島津兵庫頭義弘の咆哮とともに、孟宗竹の防弾壁が一斉に倒され、伏せていた精鋭たちが飛び出してきた。

「チェストォォォッ!!」

先陣を切ったのは、蒲生島津の中馬大蔵重忠と、息子の巨漢・重方である。

重忠が大太刀を振るって立ち往生する武者を甲冑ごと叩き割り、重方が泥濘をものともせぬ強靭な脚力で敵の護衛をなぎ倒し、道を切り開く。

右翼の山裾からは犬童頼安の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせ、左翼の海側からは新納忠元と川上忠智の抜刀隊が泥水を蹴立てて突撃した。

「殿をお守りせよッ! 輿を引け!」

先鋒の江里口信常が必死に叫び、護衛の兵たちが泥に沈む輿を持ち上げようとする。

だが、後続は背後の混乱から我先に逃げ惑い、前線の退路を完全に塞いでいた。

その隙を見逃さず、重方が護衛の槍衾を丸太のような腕でへし折ると、その背後から躍り出た重忠の大太刀が、ついに隆信の軍輿へと届いた。

「龍造寺山城守隆信と見受けたりッ!」

泥田に転がり落ちた隆信は、血走った眼で睨み返し、腰の太刀を抜こうとした。

「お、の、れ……島津の田舎侍めが……ッ!」

その巨腕が伸びきるより早く、重忠の刃が容赦なく振り下ろされた。

鮮血が泥水を赤く染め上げ、金箔押しの甲冑が泥の中へと崩れ落ちる。

「龍造寺隆信、中馬大蔵重忠が討ち取ったりィィッ!!」

重忠の勝鬨が沖田畷に轟き渡った。

「殿ォッ!!」

主君の討死を目の当たりにした猛将・江里口信常は、狂乱の形相で太刀を抜き放ち、単身で島津本陣へ向けて突進した。

立ち塞がる足軽数名を瞬く間に斬り伏せ、義弘の鼻先数間まで迫ったが、横合いから飛び込んだ川上忠智の槍に貫かれ、壮絶に泥田に散った。

一方、隆信に人質同然で前線へ押し出されていた直茂の弟・鍋島信房は、泥水の中で深手を負って倒れていたところを島津勢によって取り押さえられ、捕縛された。

隆信の討死から、龍造寺軍の組織的な抵抗が瓦解するまで、わずか半刻。

海へ逃れようとした船は島津水軍に阻まれて帆と舵を砕かれ、山へ逃げ込んだ残兵は有馬勢と島津の伏兵によって包囲されていった。

肥前を震え上がらせた暴れ熊の軍勢は、崇清の引いたキルゾーンの中で、一瞬にして砕け散ったのである。

*

海上、関船の甲板。

泥田の勝鬨を遠眼鏡越しに見届けた崇清は、小さく息を吐き出した。

「……終わりましたね」

「うむ。呆気ないほどの幕切れよ」

家久が野太刀を鞘に納め、肩をすくめた。

「大軍を集め、自ら泥沼へ突っ込んで死ぬとはな。……直茂の諫言を聞いておれば、これほどの無様な死に様を晒すこともなかったろうに」

「自分の力を過信し、兵站と数字を見失った指揮官の末路ですよ」

崇清は帳面を懐から取り出し、手早く筆を走らせた。

「甚五郎、早船を一艘出せ。……有明海を北上して諫早の湊へ船をつけ、そこから早馬を佐嘉城へ走らせるんだ。鍋島直茂殿へ、隆信公討死の報と、約束の確認書状を届ける」

「へい! すぐに出しやす!」

水煙を上げて走り去る早船を見送りながら、崇清は有明海の向こう、佐嘉の空を見据えた。

戦場での殺戮はここで終わる。

信房の身柄を確保し、隆信亡き後の肥前を無血で開城させ、真の「九州新秩序」へと組み込むための冷徹な政治劇が、まさにここから始まろうとしていた。


お読みいただきありがとう御座います。


ついに九州由来の勢力はほぼ統一したことになります。九州で島津傘下でないのは毛利と毛利に臣従してるもの、あとは細かな独立勢力のみでしょうか…

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