第130話 肥前の暴れ熊と伸び切る弓弦
天正六年(一五七八年)十月吉日
大隅の高隈山で茂一たち現場に下面発酵の仕込み手順を託した崇清は、高須から舟で鹿児島港へ、早馬で薩摩西岸の出水へ抜け、そこから快速関船で不知火海を北上して肥後・八代の古麓城へ入った。
城代を務める新納武蔵守忠元、阿蘇から駆けつけた甲斐宗運の使者と短く軍議を交わした崇清は、そのまま弥三郎と少数の楠行者衆のみを連れ、商人風の旅装に身をやつして肥前・筑後の境――佐嘉から筑前へ軍勢が向かう本道を見下ろす、基山近くの街道沿いへと潜入していた。
街道沿いの茶屋の軒先から、崇清は遠眼鏡を袖口に隠し、北へと続く大通りを見据えていた。
眼前に広がるのは、凄惨なまでの軍事動員と、その足元で軋む兵站の現実であった。
街道を北へ向かって進んでいるのは、龍造寺の旗印を掲げた雑多な軍列である。
先頭を行く佐嘉の直参武者は華美な甲冑で威風堂々と馬を進めているが、その後に続く筑後や北肥後の国衆に動員された足軽や人夫たちの足取りは、鉛のように重い。
着古した麻布の陣羽織に、錆の浮いた槍。背負っている兵糧袋は哀れなほど平たく萎み、草鞋の切れた足を泥に引きずりながら、ただ無言で歩かされていた。
崇清の視線の先で、徴発の小競り合いが起きた。
龍造寺の輜重隊を率いる武頭が、沿道の百姓の土蔵へ土足で踏み込み、備蓄の大豆や籾俵を無理やり荷車へ積み込んでいる。
泣き叫んで縋りつく年寄りを、武者が無造作に槍の柄で殴り倒した。
「……酷えな。あんな無茶苦茶な巻き上げ方をしちゃあ、来年の種籾まで尽きちまう」
横で麦藁笠を深く被った弥三郎が、帳面を抱えた手をわなわなと震わせ、苦々しく吐き捨てた。
「人夫の足元を見なせえ。草鞋の替えも配られず、泥水を啜りながら歩かされてやがる。輜重の差配をやってる奴の頭が腐ってますぜ。前線に着く前に運ぶ人間がバタバタ斃れるに決まってる。……これで冬を越せるわけがねえ」
「奪う米が、もう現地にないんだ」
崇清は遠眼鏡を覗いたまま、冷ややかに呟いた。
「龍造寺隆信はこれまで、敵の城を落とし、刈田狼藉で他人の村から奪った食い物をその場で兵に食わせることで、前進の勢いを保ってきた。だが、立花道雪殿と高橋紹運殿が海からの兵站を得て立花山と岩屋の城で鉄壁の防陣を敷いた。前進が完全に止められたんだ」
崇清は遠眼鏡を畳み、懐へ収めた。
「前進が止まれば、略奪で現地調達する餌が尽きる。そうなれば、何万もの軍勢の飯を、本拠の佐嘉城から自前の補給で運ぶしかない。だが佐嘉から筑前の山中まで、泥濘と山道を踏み越えて米を運べば、運ぶ人夫自身が途中で半分以上の兵糧を食い潰す。補給線は極限まで伸び切り、筑後や北肥後の国衆には割に合わぬ重い軍役と届かぬ恩賞だけが押し付けられる。……極限まで引き絞られた強弓と同じだ。弦を張り詰めたまま、放つことも緩めることもできなくなっている」
茶屋の奥の木陰から、一人の山伏が音もなく姿を現した。楠行者衆の頭領・道純である。
「……崇清様。佐嘉城内の様子、探ってまいり申した」
道純は低く頭を垂れ、懐から小さな紙片を差し出した。
「龍造寺隆信、日に日に酒乱と猜疑心が募っております。筑前の戦線が動かぬことに苛立ち、諫言に及んだ譜代の家臣を手打ちにし、従属した筑後国衆――特に柳川の蒲池鎮漣殿の一族に対し、『島津や大友と内通しているのではないか』と邪推を深めております」
「身内への疑心暗鬼か。典型的な末期症状だな」
「はっ。懐刀の鍋島直茂殿が必死に補給路を駆け回り、国衆の不満を宥めて回っておりますが……直茂殿の胃はすでに限界、家中は完全に軋みを上げております」
「直茂殿の苦悩も当然だ」
崇清は静かに首を振った。
「あの男はこの数ヶ月、前線と佐嘉を何度も往復し、破綻寸前の兵糧の穴埋めに奔走してきた。軍勢を動かすための米と銭の数字が見えているのは、龍造寺家中であの男一人だ。このまま前線を維持すれば自重崩壊すると、骨身に染みて分かっているはずだ」
崇清は腕を組み、街道を行き交う疲弊した軍列を見つめた。
「……道純。西肥前――島原の有馬の動きはどうなっている?」
「日野江城の有馬家、龍造寺から過酷な兵糧と軍役を課され、もはや領内の民を食わせることすら叶わぬ窮地に追い詰められております。……当主の晴信公はまだ十二歳の若年。これ以上の収奪に耐えかねた有馬の宿老・家老団が、幼君を守るため、不知火海を隔てた八代の新納忠元殿のもとへ密使を送ってまいりました。『島津の傘下に加わり、命を繋ぎとうございます』と、血判を押した書状を携えております」
弥三郎が身を乗り出し、小声で囁いた。
「若……! 有馬の家臣どもを抱き込んで、龍造寺の横腹を突きますかい?」
「いや、力で突く必要はない」
崇清は首を横に振り、静かに双眸を細めた。
「八代の忠元殿には、不知火海の夜陰に紛れて有馬へ米と塩、それに少量の弾薬を運び込ませておけ。有馬の家臣団が龍造寺の締め付けに耐えられるだけの命綱を握らせつつ、表向きの挙兵はまだ止めさせる」
「……撒き餌でございますね」
道純の確認に、崇清は冷徹に頷いた。
「そうだ。龍造寺という肥前の熊が、自ら退路を断って島原の泥沼へ全軍で突っ込んでくるためのな。……だが、その前に盤面を一段階進める。このまま薩摩へ戻る気はない」
崇清の言葉に、弥三郎が目を丸くした。
「えっ? 高隈山の酒造りはどうなさるんで? 初仕込みを見届けるんじゃなかったんですかい」
「高隈山の方は、茂一とさよ、それに茂平次たち現場の職人を信じて任せる。あいつらなら俺の設計図通りにやり遂げるさ。本音を言えば山頂に張り付いて麦汁の温度や酵母の沈み具合を睨んでいたいが、北の盤面がここまで煮詰まった以上、山の上で呑気に発酵を待っている猶予はない。俺が今ここでやるべきなのは、この伸び切った龍造寺の弓弦を、根元から叩き切ることだ」
崇清は懐から、朝廷より下された綸旨の写しを軽く叩いた。
「先般、八代での大友解体によって、朝廷より正親町天皇の綸旨を賜った。『大友が返上した全領国の沙汰と治安代行を、島津家に命ずる』という公儀の御旗だ。龍造寺が掠め取った筑前・筑後・北肥後は、朝廷の定めに照らせば大友が島津に託した領土の不法占拠に他ならん。我らには公儀の代理としてこれを討ち滅ぼす大義名分がある。これを盾として、佐嘉城へ二通の通牒を叩きつける」
「二通、でございますか」
道純が身を乗り出した。
「ああ。一通は総大将の龍造寺隆信宛て。もう一通は、軍師の鍋島直茂宛てだ」
崇清は指を二本立て、その冷徹な政治的包囲の骨子を口にした。
「まず隆信宛てにはこう突きつける。『朝廷より大友旧領の沙汰を委ねられた島津に対し、不法な侵奪をやめ、掠め取った筑前・筑後・北肥後を即刻返上せよ。大人しく家督を譲って隠居するならば、龍造寺の家名は保全し、都で高家として遇してやる。従わぬならば朝敵として討滅する』とな」
「……五州太守を気取るあの暴れ熊が、そんな勧告を呑むはずがありませんぜ」
弥三郎が顔をしかめると、崇清は薄く笑った。
「呑むはずがない。だからこそ、もう一通の鍋島直茂宛てが急所に突き刺さるんだ」
崇清は道純を見据えた。
「直茂宛てにはこう認める。『大友の旧領を返上し、隆信公の暴走を止めるならば、鍋島の家名は滅ぼさず、勝者たる島津が肥前在地の統治・差配権をそのまま鍋島へ安堵する。主家を道連れに一族もろとも討ち死にするか、主家の血脈を都の高家へ逃がして己の家と領民を救うか、どちらかを選べ』と」
道純が息を呑み、静かに戦慄の溜息を漏らした。
「……主従の間に、逃げ道のない決定的な楔を打ち込むおつもりですか」
「直茂殿は現場の疲弊を誰よりも知っている。補給線の破綻と国衆の離反を肌で感じ、このまま戦えば龍造寺が滅ぶことを痛感しているからこそ……この条件は抗いがたい救いの綱に見えるはずだ。直茂殿は必ず、己の命を賭して隆信に降伏勧告を飲むよう諫言する」
「だが、あの傲慢な隆信公は絶対に激昂して跳ね除ける……」
弥三郎の言葉を、崇清が引き取った。
「そうだ。隆信が直茂の諫言を蹴飛ばし、勧告を破り捨てた瞬間――龍造寺家中は完全に二つに割れ、主従の絆は修復不能に砕け散る。直茂宛ての書状を差し出しても『なぜ貴様だけに安堵が約されるのか』と猜疑の毒になり、隠せば裏切りとなる。誰も安全な枝にはいられない」
崇清は立ち上がり、街道の泥を踏み締めて八代の方角へ歩き出した。
「八代へ戻り、忠元殿と宗運殿の連名でこの二通の書状を認めるぞ。……肥前の熊が自ら首を括るための縄を、いまここで首元へ届けてやる」
冬の冷たい風が、有明海の潮の香りを運んでくる。
雲上の山頂で静かに眠る麦酒の酵母と、肥前の巨城へ送り込まれる冷徹な二通の破滅宣告。
北部九州の盤面を巡る最終幕が、静かに、そして容赦のない手つきで引き金を引かれようとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
いよいよ北部九州が煮詰まってきました。
佐賀の熊は徐々に罠に追い込まれます。
そういえば現在九州に熊は少なくとも公式情報ではいないとなってますね。
昔は普通にいたらしいですが……
我が九州人は気性が荒い人が多いので狩り尽くしたのでしょうか?
※コピペミスでこちらの原稿管理のためつけていた(確定改訂版)という文字がタイトルに入っていたのでタイトル修正しました。




