第129話 雲上の毬花と沈む酵母
天正六年(一五七八年)九月二十五日
飯隈の勘定所で豊後への救荒兵糧と筑前への補給手配をひと通り終えた五日後、崇清は蒲生弥三郎と中馬重方を従え、大隅半島の脊梁・高隈山の山頂直下へと登り詰めていた。
標高千メートルを超える北向きの谷間には、平地の蒸し暑さが嘘のように冴え返った秋風が吹き抜けている。眼下に広がる錦江湾は朝靄に煙り、足元の斜面には、初夏に重方が運んだ巨石を基礎とする「石組み保冷貯蔵庫」と、そこへ冷たい湧水を導く石水路が頑丈に据え付けられていた。
作業小屋の軒下から、木工道具を腰に下げた茂平次が小走りに駆け寄ってきた。手には竹籠を抱え、日焼けした顔に職人特有の引き締まった笑みを浮かべている。
「若君、足元の露に気をつけてくだせえ!」
「おお、茂平次。山上の普請、見事にまとまったな」
「へい! 初夏に重方様が担ぎ上げてくださった花崗岩のおかげで、谷水を引く水路も、日陰を掘り抜いた石蔵も狂いなく組み上がりました。……で、若君、例の棚ですぜ。親方が朝からへばりついて離れねえんでさぁ」
茂平次が指差す南向きの緩斜面へ回ると、竹で組まれた幾重もの長大な立体棚が、秋の柔らかな陽光を浴びてそびえ立っていた。
二年目を迎え、岩盤の隙間に深く根を下ろしたツル草は、竹棚を覆い尽くさんばかりに繁茂している。その無数に伸びた蔓の先々には、青々とした松ぼっくりにも似た、鈴なりの「毬花」が風に擦れ合って乾いた葉音を立てていた。
重方が見上げて感嘆の声を漏らす中、棚の足元で竹籠を抱え、真剣な目つきで蔓を検分していた初老の男が、崇清の足音に気づいて慌てて膝を突いた。
「こ、これは若君様! 遠路の山道をお運びいただき、恐れ入りまする!」
元は肥後の大麦味噌や溜まり醤油を手掛けていた醸造職人・茂一であった。南薩の国替えに伴って技術を買われ、崇清直属の「高隈醸造責任者」として山上に詰めさせている男である。
その背後から、作業着の袂をたすき掛けにした小柄な娘が、竹笊を抱えてぺこりと頭を下げた。茂一の娘・さよである。父親譲りの鋭い鼻利きの才を持ち、工房の種麹や発酵桶の温度管理を実務で支える現場の要であった。
「堅苦しい挨拶はよい、茂一、さよ。……今年の毬花のつきはどうだ?」
「はっ! 昨年の試作とは比べものになりませぬ!」
茂一が立ち上がり、棚から丁寧に手摘みした毬花の一つを崇清の手の平に差し出した。
崇清は親指の爪を立て、毬花を左右に割った。
かさかさとした薄緑の苞の内側、中心軸の根元に、鮮やかな黄金色の微粒子がびっしりと詰まっていた。
――ルプリンだ。
指先でその黄色い粉を軽く擦り潰すと、一瞬にしてツンと鼻腔を貫いたのは、鮮烈極まりない柑橘と青い松ヤニ、そして引き締まった気品あるハーブの薫香であった。
「……本物だ」
崇清は思わず息を呑み、小さく呟いた。
薬草のヨモギでも枯らした十薬でもない。前世の記憶に刻み込まれた、正真正銘のホップの香り。
「試しに一粒噛んでみましたが、舌が引きつるほど苦くて渋うございました」
さよが苦笑いを浮かべながら、手元の帳面を差し出した。
「されど若君の仰せ通り、この黄色い粉が濃いものは、ただ苦いだけでなく後味に甘い蜜のような香りが残ります。今朝から摘み頃の房を選んでおりますが、棚の八割方が見事に色づいてございます」
「上出来だ、さよ。よくここまで見極めたな」
崇清は頷き、茂一と茂平次へ向き直った。
「茂平次、収穫した毬花は絶対に天日に晒すな。直射日光を当てると紫外線で香りの油分が分解し、苦味の質が落ちる。北側の作業小屋に竹網を張った風通しの良い乾燥棚を組み、冷涼な山風だけで陰干しにするんだ。水分を十割のうち一割程度まで落としたら、湿気を吸わぬよう和紙と竹皮で厳重に包み、石蔵の暗がりに保管しろ」
「へい! 風乾棚なら材木はもう挽いてあります。今日中に組んで広げやす!」
茂平次が力強く請け負い、道具箱を抱えて作業小屋へと駆けていく。
「そして茂一、本番はここからだ」
崇清は茂一を連れ、北側の「石組み保冷貯蔵庫」の石扉を開けた。
ひんやりとした冷気が足首を包み込む。花崗岩をくり抜いた半地下の土間には、湧水を引いた冷却水路が巡らされ、奥には冬の雪氷を詰め込むための断熱氷室が暗がりを湛えていた。
「大麦モルトの麦汁を煮沸し、乾燥させた毬花を二度に分けて投入する。一度目は強い苦味を煮出すため、二度目は火を止める直前、あの柑橘の香りを麦汁に閉じ込めるためだ」
「ははっ。煮汁にあの苦草を……」
「問題はそのあとだ。煮沸した麦汁を水路の冷水で一気に冷まし、酒蔵から選抜した酵母を投入する。……だが、絶対に温度を上げてはならん」
崇清は石水路を指差した。
「味噌や酒の蔵では、醪が自己発熱して泡を噴き上げるのを良しとするな? だが、今回は真逆だ。液温を厳密に五度から十度前後という、手が痺れるほどの低さで維持し続けるんだ」
「ご、五度から十度……!」
茂一が目を丸くし、ごくりと喉を鳴らした。
「若君、そんな冷水のような温度では、酵母が凍えて死んでしまうのでは……? 泡も立たず、腐敗の元になりかねませぬぞ」
「普通の酒酵母なら止まる。だが、俺がここ数年、各地の酒蔵の醪や野生の果皮から気の遠くなるような数を試し、選び抜いた『低温でも活動を維持し、発酵が終わると互いにくっつき合って底へ沈み落ちる性質』を持つ株を使う」
崇清は断言した。
「常温で発酵させれば、酵母は液中で元気に暴れ回り、香りは華やかだが重くて濁った『上面発酵』になる。かつて俺たちが飲んだのはそれだ。……だが、この山上の冬の冷気と氷室の冷水で醪を冷やし続ければ、酵母は低温のまま静かに糖を喰い尽くし、役目を終えると綺麗に固まって樽の底へと沈降していく。それが『下面発酵』だ」
「……低温で耐え、終われば底へ固まり落ちる酵母……」
さよが呟き、父の茂一と顔を見合わせた。
味噌蔵で育った二人にとって、発酵とは湧き上がる熱気と格闘するものであった。それを冷気の中で働かせ、最後に底へ沈めて澄ませるという選抜の理屈は、驚きとともに職人の腑に落ちるものであった。
「酵母が底へ沈んで澄み始めたら、さらに氷室の底で〇度から三度前後の極低温に保ち、数ヶ月間じっくりと寝かせる。濁りや雑味がすべて澱となって完全に落ち、春を迎える頃には――雪解け水のように澄み渡り、黄金色に輝く、喉を突き抜けるような奇跡の酒が生まれる」
崇清の瞳に宿る熱に当てられたのか、茂一の職人魂に火がついた。白髪混じりの頭を掻き毟りながら、ぐっと拳を握りしめる。
「……なるほど。腐らせずに眠らせ、極限まで澄ませる、と。平地の蔵じゃ逆立ちしても真似できぬ芸当ですが……この雲の上の氷室と冷水路、それに重方様が運んでくださった花崗岩の囲いがあれば、やってやれないことはありませぬ」
「任せられるか、茂一、さよ」
「お任せくだされ! 若君がこれほどの設備を山の上に揃えてくださったのです。味噌屋の意地にかけて、その底に沈む麦酒、必ずや冬の寒波の中で仕込んでみせましょうぞ!」
茂一が力強く胸を叩いた、その時であった。
谷の下方から、息を乱した早馬の足音とともに、一人の楠行者衆の忍びが駆け上がってきた。
弥三郎が素早く間配りし、書状をひったくるように受け取って崇清へ差し出す。
「……佐嘉の龍造寺だ」
弥三郎が小声で囁いた。
「耳川の余波で筑後を手中に収めた龍造寺隆信が、ついに我慢しきれず軍勢を動かしました。筑前へ向けて秋月・筑紫の国衆を総動員し、立花道雪殿の守る立花山城の支城群へ押し寄せているとのこと。……それだけでなく、北肥後の隈部や赤星を威圧し、阿蘇の国境近くまで軍勢を張り出させております」
崇清は書状を素早く検分し、静かに目を細めた。
「……やはり我慢が利かなかったか。大友の領地を奪うことに目が眩み、後方の補給も顧みず、左右に手を広げすぎている」
「どうなさいますか? 佐土原の家久様や、八代の新納忠元殿からも『北の動きをどう見るか』と注進が届いております」
「俺が直接、北部九州の前線を見に行く」
崇清は即座に踵を返した。
「八代から水軍船で有明海・不知火海沿岸を抜け、佐嘉と筑前の境を直に見分する。龍造寺の過伸展がどこまで進み、どこで自重崩壊の火の手が上がるか、この目で確かめねばならん」
崇清は足を止め、振り返って茂一とさよ、そして茂平次を見つめた。
「茂一、さよ。俺は北へ向かう。毬花の乾燥、麦汁の煮沸、そして十一月に入ってからの氷室の初仕込み……すべてお前たち現場に託すぞ」
「ははっ! 道中、ご無事で! 山の上は我らにお任せあれ!」
茂一とさよが深く頭を下げ、茂平次が力強く手を振った。
雲上の冷涼な風を背に受けながら、崇清は重方と弥三郎を促し、一気に山道を駆け下りていった。
大隅の山頂に残された黄金のホップと、北の空で限界まで引き絞られつつある龍造寺の強弓。
静と動の歯車が、晩秋の九州を巻き込んで大きく軋みを上げ始めていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
脂っこいものを食べながら飲むピルスナーはうまいですよね。
私はマルエフが好きですね。プレモルもいいですが…




