第128話 勘定所の算盤と過伸展の影
天正六年(一五七八年)九月二十日
飯隈御殿の「表」に位置する勘定所には、朝からパチパチと乾いた算盤の音と、帳面をめくる紙擦れの音が絶え間なく響いていた。
奥向きの静謐さとは対照的に、ここは九州全土の動静が数字となって集積される前線司令部である。 壁一面に掲げられた巨大な木製海図には、薩摩・大隅から日向、豊後水道、さらには玄界灘に至る沿岸航路が朱色の線で刻まれ、主要な湊や城郭には木札が掛けられていた。
「若君! 佐賀関から早船が戻ってまいりました!」
煤けた手拭いで額の汗をぬぐいながら駆け込んできたのは、弥三郎であった。 手には、塩分を含んだ海風でわずかに波打った数枚の報告書が握られている。
「大友の領民たち、騒動を起こすどころか皆が手を合わせて拝んでいるそうです。府内と臼杵へ運び込んだ米一万石と塩二千石、すでに浦々の炊き出しへ綺麗に回されております。宗麟公の乱心で寺社を焼かれ、飢えに苦しんでいた百姓や浜の者たちが、『島津様のおかげで命が繋がった』と涙を流して喜んでいるとのことです」
「そうか。……手戻りなく配給が回ったなら重畳だ」
崇清は手元の算盤から目を離さず、手慣れた筆致で帳面に数字を書き留めた。
「食わせれば人は従う。だが、一度途切れさせれば、感謝は三日で倍の怨嗟に変わるぞ。高須と細島の間で、米と塩の二次補給便を滞りなく回せ。臼杵の宗麟公がどれほど南蛮の神に祈りを捧げようと、民の胃袋を握っているのは我らだ。絶対に補給の足を止めるな」
「承知いたしました。抜かりなく手配いたします!」
弥三郎が帳面を抱えて指示を飛ばす中、部屋の隅の長机で筆を走らせていた中馬重方が、大きな背筋を伸ばして顔を上げた。
「……若君。筑前からも、立花山城の道雪殿と岩屋城の紹運殿より、受領の連判状が届いております」
重方が差し出した文には、老将・立花道雪の力強い筆跡で、博多経由で届けられた火薬五百斤、鉛千斤、そして玄米八百石に対する礼状が記されていた。
「道雪殿、大友宗麟公が八代で領主権を返上されたと知らされた際は、主家の崩壊に深く胸を痛め、静かに男泣きされたと聞いております。……されど、大友の掟を破って独走されたのは宗麟公であり、いまや府内からの兵糧も一切届かぬ中、我らが海から送り届けた支援物資を前にして、深く頭を下げられたとのこと。『島津殿の信義と細やかな配慮、まことに忝い。この筑前、龍造寺の勝手には決してさせぬ』と、固く約定を交わされました」
「あの二人らしい実直さだな」
崇清は静かに頷き、その双眸の奥に冷徹な光を宿した。
「道雪殿も紹運殿も、大友の家名と民を守るためにこそ、理を弁えて我らの手を握ってくれたのだ。我らとしても彼らに恥をかかせる気はない。約束通り、背後から万全の支えを送り続けるまでだ。……彼らが筑前の要衝で踏ん張ってくれている限り、龍造寺は博多を呑み込むことも、肥後を南下することもできない」
崇清は立ち上がり、壁の九州図の前に歩み寄った。 視線が注がれたのは、肥前・佐嘉城から筑後、そして筑前と北肥後へ向けて、不自然なほど左右に大きく張り出した紫色の勢力線――龍造寺隆信の陣営であった。
「……弥三郎、重方。よく見ろ」
崇清は、佐嘉から伸びる細長い補給線を指先でなぞった。
「耳川で大友が崩れたのを見て、龍造寺は破竹の勢いで軍勢を広げた。筑後を呑み、北肥後を押さえ、筑前へ雪崩れ込んだ。……一見すれば、九州の過半を手中に収めんとする飛ぶ鳥を落とす勢いだ。家中でも『龍造寺こそが島津の真の敵』と騒ぎ立てる者がおる」
「違いありません」 弥三郎が頷いた。 「薩摩の内城でも、忠棟殿あたりが『龍造寺が筑前を落とせば、勢いに乗って肥後へ大軍を雪崩れ込ませてくるぞ』と気色ばんでいるとか」
「忠棟殿は数字に明るいが、現場の摩擦力を見落としている」
崇清は首を横に振った。
「急激に領地を広げた軍団というのはな、前進を続けている間だけは無敵に見えるものだ。敵の城を落とし、刈田狼藉で他人の米を奪い、従えた国衆に『次の領地』を餌としてばら撒くことで、前進の推進力を得ているからな。……だが、その前進が一度でもピタリと止まればどうなる?」
「あ……」 重方が太い眉をピクリと動かした。
「止まった瞬間、奪うべき餌がなくなる。何万という軍勢の飯を、佐嘉城からの自前の補給で賄わねばならなくなる。……補給線は極限まで伸び切り、筑前の泥濘と山道で兵糧は消え去る。従っている筑後や北肥後の国衆どもは、『割に合わない重い軍役』と『届かない恩賞』に不満を募らせ、一気に遠心力が働く」
崇清は指先をトントンと壁の地図に打ち付けた。
「そう。極限まで引き絞られた強弓と同じだ。弦を張り詰めたまま、放つことも緩めることもできぬ状態が、最も脆い。……道雪殿と紹運殿が海からの物資を得て岩のように立ち塞がっている今、龍造寺の自動破城槌は完全に前進を止められた。これ以上、前に進むことも、兵を引くこともできん」
「……進めぬとなれば、苛立つのは総大将の隆信公ですね」 弥三郎が呟いた。
「そうだ。前進が止まれば、疑心暗鬼が生まれる。『なぜ勝てないのか』『味方に裏切り者がいるのではないか』とな。……龍造寺はすでに、外側ではなく内側から腐り始めている。こちらから一兵も出兵する必要はない。我らが兵糧と海を握り、北の防波堤を支え続けているだけで、奴らは自らの重みと猜疑心で勝手に崩壊する」
崇清の言葉には、確信に満ちた冷徹な響きがあった。 耳川での大勝に浮かれず、大友の崩壊を待つ間に都の権威を握り、相良を無血で南薩へ収め、そしていま、北の巨人を「兵站の停止」によって盤上に縛り付けている。
「……さて」
崇清はすっと表情を和らげ、懐から別の小さな帳面を取り出した。
「北の盤面はこのまま維持だ。……それよりも弥三郎、奥向きの差配だ」
「はい? 奥向きのでございますか?」 弥三郎が目を丸くした。
「幾殿の化粧料である吾平の蔵から、どれだけの年貢が入る見込みだ? それから、都から連れてこられた月ヶ瀬殿や弓張殿らの賄い料、飯隈の奥台所との按分はどうなっている」
「うわあ……若、戦の絵図面を引いていた舌の根も乾かぬうちに、今度は女中たちの台所勘定ですか!」
「当たり前だ。外の軍略をどれほど完璧に回そうと、足元の家政が赤字を出せば組織は崩壊する」
崇清は真顔で算盤を引き寄せ、玉を弾き始めた。 脳裏に浮かぶのは、昨夜、かつらを外し、素顔のまま涙をこぼしていた幾の大きな瞳と、その隣で無邪気に笑っていた亀寿の姿であった。
(……あいつらが安心して飯を食い、笑っていられる場所を守る。そのためなら、九州全体の兵站なんぞいくらでも弾いてやるさ)
「弥三郎、吾平の開墾計画と、奥向きの冬物の仕入れ帳を出せ。……今日中に全部検算するぞ」
「承知いたしました! 結局、私の仕事は減らない寸法ですね!」
弥三郎の軽妙なぼやきが、秋風の吹き抜ける飯隈の勘定所に響き渡った。 表で張り巡らされる冷徹無比な兵站の罠と、奥で芽生えた温かな日常。 島津又八郎崇清の真骨頂たる「戦わずして勝つための日常」が、再び力強く回転を始めていた。
お読みいただきありがとうございます!
奥向きの温かな日常から一転、物語は「表」の勘定所へ。
豊後への緊急救援物資の完遂と、筑前の立花・高橋両将を海から支える兵站線の確立を描いた第128話となりました。
「極限まで引き絞られた強弓ほど、脆いものはない」
進軍を止められ、自重と疑心暗鬼で内側から軋み始めた北の巨頭・龍造寺隆信。
武力で衝突することなく、数字と補給で敵を縛り付ける崇清の盤面が静かに効力を発揮し始めています。
……そして本人は、九州全体の戦略を弾いた直後に「奥向きの冬物の台所勘定」に頭を抱えるという、相変わらずの実務家ぶりでした。
次回より、物語はいよいよこの膠着した九州の次の局面へと動き出します。
どうぞお楽しみに!




