第127話 奥向きの三頭と蜜柑色の誓い
飯隈御殿の奥向きに、柔らかな秋の夕陽が差し込んでいた。
白石を敷き詰めた専用の湯殿で、幾(清子)は長旅の汗と埃をきれいに洗い流していた。 都の重苦しいかつらは外され、赤茶色の直毛が濡れて背に艶やかに張り付いている。 桶からすくい上げた湯からは、崇清が手配した蜜柑の皮と椿油の爽やかな香りが立ち上っていた。
「……信じられませぬ」
体を拭う手拭いを差し出しながら、月ヶ瀬の局が呆然と呟いた。 その双眸には、まだ先刻の崇清との対面の余韻が鮮烈に焼き付いていた。
「あのお方が……あのように真っ直ぐに、姫様の素顔をお褒めくださるとは。……世辞でも、憐れみでもございませんでした。この月ヶ瀬、人の目の奥を見ることだけは長年仕えて培ってまいりましたが、あのお方の目は……心底から姫様を慈しんでおられました」
「……月ヶ瀬」
幾は湯上がりの火照った頬を手で覆い、小さく息を吐いた。 白粉も塗らず、お歯黒もせず、手足が長く痩せた自分の姿。都では「不器量」「行き遅れ」と嘲笑され続けた己の身体を、「凛として美しい」「澄んだ瞳だ」と全肯定された瞬間の衝撃が、いまも胸の奥で激しく脈打っていた。
「私は……夢を見ているのではあるまいな。明日になれば、やはり物置へ追いやられるのではないか」
「滅相もございませぬ!」
月ヶ瀬は力強く首を振った。
「都の公家どもの物差しなど、あのお方の足元にも及びませぬ。世間が何と言おうと、崇清様が姫様を尊んでくださるならば、それがこの屋敷の法度にございます。……この月ヶ瀬、我が命に代えて、姫様をお支えいたしまする」
湯殿を出て奥の広間へ戻ると、そこにはすでに奥向きの「現実」が待ち構えていた。
上座の隅に座る弓張の局が、苦々しい表情で茶碗を睨みつけている。 その隣では、中臈の有明と下女が身を縮こまらせていた。 先ほど出された冷たい南蛮菓子のあまりの美味さと、崇清が幾の素顔を絶賛した光景に打ちのめされ、近衛家の威光を振りかざす余地を完全に失っていたのだ。
「……ふん。素顔を褒めたとて、所詮は田舎者の奇異な好みにすぎませぬわ」
弓張が負け惜しみを呟く。だが、その声にはかつての鋭さはなく、どこか上擦っていた。
その時、襖がすっと静かに開いた。
入ってきたのは、蒲生譜代の筆頭女中・岩崎と、島津宗家の格式を背負う乳母・常安であった。 その後ろには、盆に湯気を立てる膳を載せた女中たちが、一分の乱れもない足取りで控えている。
「御台所様、お召し上がりのお支度が整いました」
岩崎が深々と頭を下げた。 角張った顎を引き結んだその顔付きには、何十年も現場を取り仕切ってきた老練な威厳が宿っている。
「大隅の黒豚と根菜を煮込んだ汁に、飯隈の白米、それに錦江湾の焼き魚にございます。若君より『長旅で胃の腑が弱っているゆえ、油気は控えめに、出汁を濃く取れ』との言いつけにございました」
運ばれてきた膳を見た瞬間、月ヶ瀬派の下女たちだけでなく、弓張派の有明までもがゴクリと喉を鳴らした。 澄んだ出汁の香りと、真っ白に炊き上がった米の輝き。都の長屋の困窮生活では、正月の祝儀ですら口にできなかった極上の飯であった。
「……あの、岩崎殿」
幾がおずおずと声をかけた。
「崇清殿は……どちらに?」
「若君は表の勘定所にて、日向や豊後からの注進状に目を通しておられます」
岩崎は穏やかに、だが誇らしげに目を細めた。
「豊後の国へ送った救済の米や塩が滞りなく届いたか、筑前の立花・高橋両将への船足に狂いはないか、それらをすべて一人で弾いておいでです。……北の龍造寺とやらも、筑前と肥後の境目でピタリと足が止まり、身動きが取れなくなっているとか。若君は『踏み込みすぎた軍勢が立ち止まった時ほど、脆いものはない』と笑っておいででした。……夜には奥へ戻られますゆえ、御台所様には気兼ねなく寛いでいただくよう言付かっております」
「……」
幾は小さく息を呑んだ。 都の公卿たちが雅な歌会に興じている間にも、この南国の夫は、海を越えた九州全土の命と兵糧の差配を一手に引き受け、巨大な敵を盤上で縛り付けているのだ。
「……御台所様、此度は遠路まことによくおいでくださいました。これからはこの飯隈が、貴女様の家でございます」
「……はい」
幾が素直に頷いたその横で、弓張が悔しそうに口元を引き結んだ。 都の格式を盾にマウントを取ろうにも、目の前の岩崎は現場の数字と実務で奥を完璧に掌握しており、隣の常安は「島津宗家当主の格式」を背負って寸分の隙も見せない。 近衛の使用人の娘という看板など、この二人の前では風前の灯火であった。
その時――廊下の向こうから、パタパタと小気味よい足音が近づいてきた。
「若君! 若君はお戻りですか!?」
可愛らしくも、どこか凛とした少女の声。 襖が勢いよく開け放たれ、姿を現したのは、真紅の小袖を身に纏った九歳の少女であった。
島津宗家の嫡女――亀寿。
「これ、亀寿様! 走ってはなりませぬと申したばかりでしょう!」
後ろから生真面目な若手侍女・しのが慌てて追いかけてくる。 亀寿は部屋の中央に座る幾を見るなり、ピタリと足を止めた。大きな瞳をパチパチと瞬かせ、首を傾げる。
「……そなたが、京から参られた幾殿か?」
「……は、はい。近衛より参りました、幾と申します」
幾が背筋を伸ばして礼を執ると、亀寿はスタスタと歩み寄り、幾の顔をじっと覗き込んだ。
部屋中の女中たちが息を呑む。 島津宗家の姫と、都から輿入れしてきた正室。 奥向きの主導権を巡る最初の火種になりかねない対面であった。常安もしの息を殺して見守る。
だが、亀寿の口から出たのは、まったく予想外の言葉であった。
「……髪、綺麗じゃな」
「え……?」
「赤茶けて、秋の木の実のようじゃ。それに背が高くて格好よい! 都の公家は白粉ばかりで白鬼のようだと聞いておったが、そなたは日向の光を浴びたように生き生きとしておる!」
無邪気で、一切の邪気のない賞賛。 亀寿自身、生まれつき肌が浅黒く、内城の奥向きで「島津の姫らしくない」と陰口を叩かれていた過去があった。だからこそ、同じように小麦色の肌を持ち、堂々と素顔を晒す幾の姿に、直感的な憧れと親しみを抱いたのだ。
幾の胸が、じんわりと温かくなった。
「……ありがとうございます、亀寿様。貴女様こそ、朝露のように愛らしい」
「ふふっ、そうか!」
亀寿は満面の笑みを浮かべ、幾の隣へちょこんと腰を下ろした。
「わらわは若君の『妻』になる身じゃが、幾殿が正室なら安心じゃ! これから仲良くしてくりゃれな!」
背後で常安が「姫様、妻などと軽々しく……」と額を押さえ、岩崎が堪えきれずにクスクスと笑い声を漏らす。 ピリついていた奥向きの空気が、少女の無邪気な一言で一気に氷解していった。
その光景を見つめながら、幾の胸の奥に、かつてない熱い感情が芽生え始めていた。
(崇清殿は、私を丸ごと受け入れてくださった。この温かい屋敷の主として、私を迎えてくださった……)
だからこそ――。
幾はぎゅっと両の拳を握りしめ、隣に控える月ヶ瀬の顔を見つめた。
(私は、あのお方に恥をかかせるわけにはいかない)
「……月ヶ瀬」
「は、はい、姫様」
「明日から……私に、都の礼法と有職故実を、もう一度最初から教えておくれ」
月ヶ瀬が驚いて目を見張った。 かつて京都の長屋で、「どうせ不器量な私には無駄だ」とあれほど投げ出し、サボり続けていた都の作法。それを、幾が自らの意思で学びたいと言い出したのだ。
「私はあのお方の妻だ。……島津崇清という、途方もない器量のお方の正室なのだ。都の公卿や他国の大名があのお方を侮らぬよう、私が完璧な礼法を身につけ、あのお方の盾にならねばならぬ」
幾の大きな瞳に、揺るぎない覚悟の光が灯っていた。
月ヶ瀬の胸に、熱いものが込み上げた。 かつての投げやりな少女は、もうどこにもいなかった。愛され、居場所を得た人間だけが持つ、気高い誇りと強さがそこにあった。
「……御意にございます、御台所様」
月ヶ瀬は深々と頭を垂れ、その両肩を震わせた。
「この月ヶ瀬、我が身に伝わる都の典礼のすべてを、残らず叩き込んでみせましょうぞ。……崇清様に相応しき、日の本一の御台所となっていただきとう存じます!」
窓の外、飯隈の空には、錦江湾の潮風に乗って秋の満月が昇り始めていた。 都の閉塞と偏見から解き放たれた幾の新たな人生が、温かな仲間たちとともに、いま静かに動き出そうとしていた。
お読みいただきありがとうございます!
飯隈御殿の奥向きで、温かな湯と手厚い歓待に迎えられた幾(清子)。
島津宗家の格式を背負う常安、現場を握る岩崎、そして自らと同じく肌の色に屈託を抱えていた少女・亀寿との出会いが、頑なだった都の女中たちの心を解きほぐしていきます。
崇清の器量を知り、「このお方に恥をかかせぬよう、盾となる」と、かつて投げ出していた都の礼法の学び直しを決意した幾。
その頃、表の勘定所では、豊後仕置の兵站支援と、進軍を止めて脆さを露呈し始めた北の龍造寺への冷徹な観察が続けられていました。
次回より、物語は再び表の政戦・軍事の激動へ。
どうぞお楽しみに!




