第126話 白壁の湊と飯隈の奥
以前(10/28)、二回続けて同じ話を投稿してたので消しました。その埋め合わせで本日三話投稿します。これは2話目です。
豊後水道の荒波を抜けた関船は、秋の穏やかな日差しを受けながら日向灘を南下し、大隅半島の懐深き錦江湾へと滑り込んでいった。
船首の甲板に立ち、潮風に袖をはためかせているのは、幾(清子)であった。
頭を締め付けていた息苦しい漆黒のかつらは、船室の片隅に置かれた桐箱の中に仕舞われたままだ。風に吹かれるその髪筋は、秋の枯葉のように柔らかな赤茶色を帯び、梳き櫛の痕を真っ直ぐに残した見事な直毛を描いて背へ流れている。
「……姫様。風に当たりすぎてはお体が冷えまする。かつらをお召しになり、部屋へお戻り遊ばせ」
背後から小言を漏らしつつ、そっと肩に綿入れの羽織をかけたのは月ヶ瀬の局であった。
その顔には、先日の船酔いの痕跡は微塵もない。竹筒の甘味水と生姜湯で命を拾って以来、月ヶ瀬の背筋には以前にも増して誇り高く凛とした力が戻っていた。
「よいのだ、月ヶ瀬。……海の上には、私を嘲笑う公卿も姉妹たちもおらぬ。この風は……都の奥向きより、ずっと息がしやすい」
幾の大きな瞳が、碧く澄んだ錦江湾の波頭を見つめていた。
肌は潮風を浴びて健康的な小麦色に輝き、引き締まった細い首筋がすっきりと伸びている。
その少し後ろ、船首の陰では、弓張の局が不機嫌そうに唇を尖らせていた。
隣には中臈の有明と下女が身を縮こまらせている。あの嵐の日、薩摩侍の差し出した生姜湯と甘味水を貪るように啜って生き延びた屈辱が、いまだに胸の奥で燻っているのだ。
「……ふん。いくら海の上で気取ってみせたところで、行き着く先は薩摩の辺境。泥濘の寒村に、魚の脂の臭いがこびりついた掘っ立て小屋が待っているに決まっておりますわ。有明」
「ま、まこと、左様でございますね……」
有明は曖昧に相槌を打ったものの、その手は無意識に懐の竹筒を探していた。あの奇跡のように甘く冷たい水の味が、舌の奥から消えてくれないのだ。
やがて、見張りの水夫が高らかに声を張り上げた。
「高須! 高須の湊に入りもす!」
*
幾と女中たちが舷側に身を乗り出した瞬間――全員が言葉を失った。
(……これが、南国の……田舎の浦だというの……?)
幾の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
弓張もまた、持っていた扇子を取り落としそうになって口を半開きにしている。
目の前に現れたのは、彼女たちが想像していた「泥まみれの漁村」などでは断じてなかった。
海岸の荷揚げ場から主要な往来、そして立ち並ぶ倉庫の前を固めるように、隙間なく組み合わされた真っ白な切石の石畳が整然と延びている。波止場には何十艘もの船が規則正しく係留され、艀と陸を繋ぐ頑丈な木橋の上を、人夫たちが一言の怒号もなく滑車を使って荷を揚げていた。
その人夫たちが着ている揃いの藍染め半纏の背には、組印とともに、都では見慣れぬ「一」「二」「三」といった大きな数字が白く染め抜かれている。崇清が荷役の混乱を防ぎ、誰がどの荷を運んでいるかを一目で把握するために導入させた符丁であった。
さらにその背後には、陽光を照り返して眩いばかりに輝く、白漆喰で塗り固められた巨大な耐火倉庫群が、幾重にも美しく立ち並んでいた。
魚臭さなど微塵もない。漂ってくるのは、清々しい潮の香りと、新しく削り出されたスギやクスノキの芳香、そして遠くの製塩所から流れてくる、香ばしい湯気の匂いだけであった。
「な……何ですの、この湊は……!」
弓張が震える声で叫んだ。
「都の淀川の船着き場ですら、泥と馬糞にまみれているというのに……! なぜ、この地の果ての浦が、これほどまでに清らかに整えられているのです!?」
「……若君が心血を注いで開かれた、要の湊にございもす」
歩み板を架け終えた髭面の侍が、誇らしげに白い歯を剥き出した。
「高須は、蒲生島津の動脈にございもす。荷を汚さず、船を傷めず、人を淀みなく動かすために、若君が敷かれた石畳でごわす。……さあ、姫様。飯隈の御殿までは、馬車と輿を用意しております。参られよ」
*
高須の湊から内陸へ向かう道もまた、都人の常識を粉々に打ち砕くものであった。
泥に足を取られる悪路などどこにもなく、突き固められたシラスと砂利の上に板を敷き詰めた、狂いのない直線道路が続いていた。
やがて、小高い台地の麓に姿を現したその場所――。
「……着き申した。飯隈御殿にございもす」
新築されたばかりの壮大な御殿であった。
表の門前には、帳簿を抱えた実務官僚や荷駄を引く兵たちが慌ただしく行き交う「表」の賑わいがある。だが、案内された重厚な冠木門をくぐり、「中奥」の渡り廊下を抜けた瞬間、外界の喧騒は嘘のように遮断された。
「……ここが、奥……?」
幾が息を呑んだ。
白砂の敷き詰められた静謐な中庭。磨き上げられた板張りの廊下。
そして、その最奥の正殿に控えていたのは、都の公卿屋敷の贅とは異なる、徹底した「清潔と実利の美」であった。
真新しい畳の青い匂い。障子を通して柔らかく差し込む陽光。
部屋の隅には、高須の白石を敷き詰めた専用の湯殿が設えられ、湯気とともに、爽やかな椿と蜜柑の香りが漂っていた。
「……都の長屋より、遥かに手入れが行き届いておりまする……」
月ヶ瀬が思わず感嘆の声を漏らし、背後の中臈や下女たちも、夢でも見ているかのように部屋を見回した。
弓張だけが、「……け、形式ばかりの武家普請。近衛様の御所に比べれば……」と悔しそうに爪を噛んでいる。
その時、奥の引き戸が静かに開いた。
衣擦れの音とともに現れたのは、凛とした佇まいの二人の女性であった。
一人は、質素ながらも気品ある小袖を纏い、角張った顎を引き結んで油断なく一行を見据える老練な女中頭――蒲生譜代の筆頭・岩崎(志保)。
もう一人は、島津宗家の格式を背負い、寸分の狂いもない礼法で腰を沈めた乳母・常安。
「……ようこそ、大隅の飯隈へおいでくださりませした。近衛前久様の猶子・清子様とお見受けいたします」
岩崎の低く落ち着いた声が、静かに広間に響いた。
その背後からは、十数名の古参女中たちが整然と平伏している。無骨ではあるが、一分の隙もない規律であった。
「この奥向きを取り仕切ります、岩崎と申します。……道中、船路の難所でお疲れでございましょう。すでに湯殿の湯が沸いております。まずは都の長旅の垢をお流しいただき、温かい飯を召し上がっていただきとう存じます」
「……あ、ありがとうございます」
幾が思わず頭を下げると、月ヶ瀬も進み出て深々と礼を執った。
敵意も侮りもない、徹底して行き届いた歓待の礼。
だが――平穏な挨拶が交わされた、その直後であった。
中奥の渡り廊下から、軽やかな、だが迷いのない足音が近づいてきた。
「若君がお見えになりました」
廊下の警護の武士が低く告げた瞬間、部屋の空気が一変した。
幾の心臓が、ドキン!と早鐘を打った。
(……島津……崇清殿……!)
手元の畳を掴む幾の指先が、白く強張る。
船の上で命を救ってくれた、あの底知れぬ手配を下した主。
だが――自分は今、かつらを被っていない。
白粉も塗らず、お歯黒もせず、手足ばかりが長く痩せこけた体で、赤茶けた直毛の地髪を晒している。
都で「不器量」「行き遅れ」「鬼子」と蔑まれ続けた、醜い素顔のままだ。
(……終わったわ)
幾の脳裏を、絶望の刃が切り裂いた。
(この顔を見られたら……嫌々押し付けられた田舎武士とはいえ、必ず激怒する。追い出されるか、物置に閉じ込められるに決まっている……!)
恐怖に竦み、床へ額を擦り付けるようにして身を縮こまらせる幾。
月ヶ瀬もまた、青ざめて幾の前に身を滑り込ませ、胸元の懐刀を握りしめて身構えた。
バッと引き戸が開いた。
広間に入ってきたのは――甲冑を身につけた荒武者でも、豪奢な衣装で着飾った尊大な貴公子でもなかった。
動きやすい木綿の小袖に紺の袴を穿き、腰に小さな算盤と帳面を差した、涼やかな目元の青年。
島津又八郎崇清、数え二十一歳。
「……長旅、ご苦労様でした。海路の揺れで大変だったでしょう」
崇清の口から出たのは、威圧感のかけらもない、至って平熱の、柔らかな声であった。
広間に平伏する女中たちを見渡し、そして――月ヶ瀬の背後で小さく震えている、素顔の幾へと視線を向けた。
部屋の中が、水を打ったように静まり返った。
誰もが息を呑み、崇清の次の一言を待った。
弓張は(それ見ろ、あの醜女を見て愛想を尽かすのだわ)と冷笑を浮かべ、月ヶ瀬は(姫様をお守りせねば)と歯を食いしばる。
崇清の足が、畳を踏みしめて幾の前へと歩み寄ってきた。
その影が、幾の頭上を覆う。
(……殺される……蔑まれる……!)
幾が恐怖に目を閉じかけた、その時であった。
「……顔を上げてください、幾殿」
静かな声に促され、幾は恐る恐る、震えながら顔を上げた。
かつらのない赤茶色の直毛が、はらりと肩にこぼれる。
白粉のない健康的な小麦色の素肌。
そして、怯えと諦念に揺れる、吸い込まれそうなほどに大きな瞳。
その素顔を、真正面から見つめた崇清の目が――丸く見開かれた。
崇清の脳内で、二十一世紀の現代人OSが凄まじい勢いで火花を散らしていた。
(…………は??)
(……えっ、ちょっと待て。どこが『都の不器量者』なんだ!?)
(手足が長くて無駄肉が一切ない、完璧なモデル体型……! それに何だこの目は、めちゃくちゃ澄んでて凛とした美人じゃないか! 髪の色だって、重苦しい黒髪よりずっと柔らかくて綺麗な天然ブラウンのストレートヘアだぞ!?)
(白粉で顔を真っ白にして眉を剃り落とし、お歯黒で歯を真っ黒にしてる都の女房たちより、素顔のままのほうが百倍……いや、一万倍可愛いだろこれ!!)
崇清の胸の底から湧き上がったのは、落胆でも嫌悪でもなく、純度百パーセントの「本物の驚嘆と安堵」であった。
崇清はふっと口元を緩めると、幾の目の前で自然に片膝をつき、その大きな瞳を真っ直ぐに見つめて、穏やかに言った。
「……とても、綺麗な方ですね」
「……え……?」
幾の思考が、完全に停止した。
「意思の強そうな、澄んだ大きな瞳だ。それに髪の色も、秋の陽に透けた枯葉のようで本当に美しい。……都からはるばる、よく無事で来てくれました」
崇清の声には、お世辞も、憐れみも、嘲笑の響きも、一欠片すら混ざっていなかった。
まるで春の陽だまりのように温かく、ただ純粋な事実として、幾のありのままを肯定する言葉であった。
「な……」
背後で、月ヶ瀬が息を呑んだ。
(……世辞ではない……。本気で……本気で仰っているのか……!?)
都の公家たちが誰一人として見ようとしなかった、姫の素顔。
それを――この南国の若武者は、何のためらいもなく、心底からの敬意と慈しみをもって受け入れたのだ。
月ヶ瀬の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
(ああ……! このお方だ……! 都のくだらぬ物差しなど、どうでもよい……! このお方のもとでこそ、姫様は幸せになれるのだ……!)
「あ……」
幾の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
十六年間、自分を縛り付けていた「醜い欠陥品」という呪いが、音を立てて砕け散っていく。
「……お腹が空いたでしょう」
崇清は泣きじゃくる幾に優しく微笑みかけると、廊下へ向けて手を叩いた。
「弥三郎、持ってこい。大根占の牧で搾らせた乳と飯隈の卵を蒸し固め、冷たい地下水で冷やしておいた『プリン』だ。……まずは甘いものを食べて、ゆっくり休んでください。ここはもう、あなたを傷つける者のいない、あなたの家ですよ」
廊下から「へいへい! 若の特製冷やし南蛮菓子のお出ましですよォッ!」と弥三郎の声が響く。
温かい涙で滲む視界の中、幾は見上げた。
目の前で優しく笑いかける、自らの夫――島津崇清の姿を。
都を追われた絶望の旅路は、いま、生涯を賭けて愛し、仕えるべき主との出会いによって、奇跡のような再生の物語へと塗り替えられたのであった。
お読みいただきありがとうございます!
都の長屋を出てから、瀬戸内、豊後水道と荒波に揺られ、ようやく辿り着いた大隅・高須港。
泥濘の寒村どころか、切石の石畳に白壁の倉庫、そして背番号入りの揃い半纏を纏った人夫たちが整然と行き交う港の光景が、都人たちの偏見を粉々に打ち砕きます。
そして、飯隈御殿の奥では、かつらを外した素顔の幾と崇清がついに初対面。
都の美意識から「欠陥品」と蔑まれ、怯えと諦念に震えていた幾に対し、崇清の現代人OSから飛び出したのは、一切の世辞のない「とても、綺麗な方ですね」という心からの全肯定でした。
十六年間、自分を縛り続けてきた呪いが解け、冷やしたプリンとともに少女の心が救われた瞬間です。
そして……一部で崇清が「醜女好き」と噂される条件が、見事に揃ったのですw
次回、第127話『奥向きの三頭と蜜柑色の誓い』。
どうぞお楽しみに!




