第125話 瀬戸内の白帆と竹筒の甘味
摂津・兵庫津を発った蒲生島津家の大型関船は、秋の穏やかな風を孟宗竹の白帆に孕み、播磨灘を西へと滑るように進んでいた。
船の中央に誂えられた二十畳あまりの船室には、真新しい青畳が敷き詰められ、真綿を詰めた座布団が整然と並べられている。 だが、その部屋の空気は、穏やかな海原とは裏腹に、張り詰めた氷のように冷え切っていた。
「……あな、蒸しますこと」
上座の最も上等な角を占めた弓張の局が、扇子をパタパタとあおぎながら、細い眉をひそめて小さく鼻を鳴らした。 その背後には、弓張と同じく近衛家の奥向きから付けられた中臈の有明と、近衛仕込みを鼻にかける下女が、月ヶ瀬たちを冷ややかに見下ろすように控えている。
「いくら青畳を敷き、香を焚き染めようとも、所詮は血生臭い武骨者のいくさ船。……近衛様の御屋敷の、あの涼やかな渡り廊下に吹き抜ける風とは、比べるべくもございませぬな。有明」
「まこと、左様でございますね、弓張様」
有明は白粉で塗り固めた顔を僅かに歪め、わざとらしく袖で口元を押さえた。
「都を遠く離れ、このような板張りの檻に詰め込まれては、息が詰まりそうにございます。……それに、あの甲板を行き交う野卑な侍どもの足音。近衛の御所ならば、下部といえどあのような粗暴な振る舞いは決して許されませぬものを」
二人の棘を含んだ視線は、部屋の隅で小さくなっている下女たちへ、そして中央で膝を抱えて座る幾へと注がれていた。 「五摂家の猶子」という破格の看板を背負わされながら、実家は困窮した名家。化粧を拒み、髪は赤茶け、痩せこけた体躯の幾を、近衛本邸の奥勤めであった弓張らは端から「落ちこぼれの厄介払い」と見下していたのだ。
幾はかつらを被った頭を僅かに伏せ、唇を噛んで黙り込んでいた。 都の長屋でも聞き慣れた陰口である。いまさら反論する気力もなかった。
だが、幾の前に座る月ヶ瀬の局は違った。 生真面目な眉を吊り上げ、すっと背筋を伸ばすと、弓張の顔を射すくめるように睨みつけた。
「弓張殿」
低く、だが芯の通った厳しい声が、船室の空気を切り裂く。
「ここはすでに、都の近衛邸ではございませぬ。我が姫様を無事に薩摩の島津様のもとへ送り届けるための船の上でございます。……道中の安全を預かる殿方の船を『檻』などと侮り、あたら不平を鳴らすなど、それこそ近衛様の御名に傷をつける浅ましい振る舞い。控えられませ」
「な……っ!」
弓張の顔が、白粉の下でカッと朱に染まった。 立場としては、幾の生家に代々仕え、今回の輿入れの教育・典礼を取り仕切る月ヶ瀬が筆頭である。近衛の看板を盾に威張り散らそうと、年功と格式において月ヶ瀬に正面から逆らうことはできない。
「……ふん。私はただ、姫様のお体を案じて申したまで。田舎武士の施しに、よほど有難がっておいでですこと」
弓張が忌々しそうに顔を背けると、有明も慌てて視線を落とした。 月ヶ瀬の背後で身を縮こまらせていた小萩や浮橋、そして下女たちが、胸を撫で下ろして小さく息を吐き出す。 だが、その平穏は長くは続かなかった。
*
備後灘を越え、船が伊予灘から豊後水道へと差し掛かった頃であった。
ヒュオオオオッ、と船窓の外で鳴る風の音が一段と低く、鋭い唸りに変わった。 瀬戸内海の穏やかな内海を抜け、外洋の黒潮が激しくぶつかり合う豊後水道。 巨大な関船の船体が、ギシリ……と大きく軋み、右へ左へと深く傾ぎ始めた。
「きゃっ……!?」
小萩が悲鳴を上げ、畳に手をついた。 次の瞬間、ドォォン!と船底を突き上げるような大波が打ち寄せ、船室全体が大きく宙に浮き上がったかのように跳ねた。
「な、何事ですの!? 船が、船が沈むのでは……!」
有明が青ざめて叫ぶ。 だが、本当の地獄はそこから始まった。
規則性のない激しい揺れ。上下に突き上げられたかと思えば、左右にねじれるような不快な遠心力。 平衡感覚を根底から狂わせる大揺れに、都で牛車か平坦な淀川の川舟しか知らぬ女中たちの顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。
「う……っ、げほっ……!」
真っ先に崩れ落ちたのは、先ほどまで大口を叩いていた弓張であった。 胃の腑を雑巾のように絞り上げられる激痛と吐き気に襲われ、青畳の上に突っ伏して胸元を掻きむしる。 続いて有明と下女の一人も、顔面を土気色に変えてうずくまり、激しくえずき始めた。都風の気取りも、近衛のプライドも、容赦のない船酔いの前には一瞬で吹き飛んでいた。
「ひ、姫様……っ、ご無事……で……」
月ヶ瀬もまた、幾の体を必死に抱き止めようとしていたが、その唇は紫色に変色し、額には脂汗がびっしりと浮いていた。 幾自身、激しい目眩と嘔吐感に襲われ、胃の中がひっくり返るような苦痛に耐えかねて、畳を掴む指先を白く震わせていた。
(苦しい……。息が……できない……)
息苦しい黒髪のかつらが頭を締め付け、船室の湿気と、誰かが吐き戻した酸っぱい臭気が充満していく。 このまま波に呑まれて死んでしまうのではないか――幾が薄れゆく意識の中でそう絶望した、その時であった。
ガラリッ!
船室の引き戸が、乱暴なまでに力強い音を立てて開け放たれた。
「失礼仕るッ!」
現れたのは、兵庫津で輿を担いだ、あの無骨な髭面の薩摩武士であった。 両手には湯気を立てる鉄の小鍋と、太い孟宗竹の筒が幾本も抱えられている。背後には、同じく粗末な単衣を着た屈強な水夫が、白い晒布の束と素焼きの水瓶を抱えて雪崩れ込んできた。
「ひっ……!」
突っ伏していた有明が、怯えたように短く悲鳴を上げる。 だが、侍は女中たちの醜態に目をくれることすらなく、鋭く、だが迷いのない声で指示を飛ばした。
「若君(崇清様)よりの厳命でごわす! 『外洋の波に入れば必ず船酔いが出る。部屋を閉め切るな、風を通せ!』とな!」
侍の手下が素早く動き、船室の風下側の障子を細く開け放った。 ヒュッと涼やかな潮風が吹き込み、部屋にこもっていた淀んだ熱気と悪臭をたちまちのうちに押し流していく。
「弓張様……っ、あのような田舎者に……」 有明が虫の息で呟くが、侍は聞く耳も持たずにずかずかと上がり込み、月ヶ瀬と幾の前へ膝をついた。
「月ヶ瀬殿、姫様を抱え起こされよ。……これをお飲みいただきもす」
差し出されたのは、素焼きの椀に注がれた熱い白湯であった。 だが、ただの湯ではない。立ち上る湯気から、ツンと鼻腔をくすぐる鮮烈な生姜の香りと、爽やかな柑橘の匂いが広がった。
「若君が調合された『生姜と乾燥蜜柑の皮を煎じた湯』にございもす。胃の腑の痙攣を鎮め、吐き気を散らす薬湯にござる。……それから、これを口に含んでくだされ」
別の侍が差し出した竹皿の上には、真っ白な塩を吹いた小粒の干し梅と、薄く削られた橙の皮が盛られていた。
「……薬湯……?」
月ヶ瀬は震える手で椀を受け取った。 半信半疑のまま、苦しむ幾の口元へ椀を運び、ゆっくりと含ませる。
ゴクリ、と一口飲んだ瞬間――幾の大きな瞳が、微かに見開かれた。 喉を焼き焦がすような生姜の鋭い温もりが胃の腑へと落ち、氷のように冷え切っていた腹の底を、じんわりと内側から温めていく。 柑橘の皮の苦味と清涼感が舌の上に広がり、あれほど激しかった胸のムかつきが、嘘のようにスッと引いていったのだ。
「……あ……」
幾の喉から、微かな吐息が漏れた。 月ヶ瀬も慌ててその湯を口に運び、目を丸くした。
「な……何という、温もり……。腹の底の痞えが、みるみる解けてまいりまする……!」
「そっちの倒れてる者どもにも飲ませてやれ!」
侍は奥で転がっている弓張たちへ竹筒を差し向けた。 弓張は青ざめた顔を畳に押し付けながら、「な、南国の武士の……得体の知れぬ煎じ薬など……」と弱々しく抵抗しようとしたが、喉の渇きと胃の激痛に耐えきれず、差し出された湯を震える手で奪うようにして啜った。
「……ッ、う……」
一口、二口と流し込むにつれ、弓張の荒い呼吸が次第に落ち着きを取り戻していく。 隣で干し梅を口に放り込まれた有明も、強烈な酸味と塩気に唾液を溢れさせながら、呆然と侍の顔を見上げていた。
「……まだ終わりではございもはん」
髭面の侍が、ふっと口元を緩めた。 最後に差し出されたのは、冷たい井戸水で冷やされていた、太い孟宗竹の筒であった。
「若君が、『船酔いで干からびた体に、塩気と甘味を補わねば命に関わる』と、特別に積み込ませた水にございもす。どうぞ」
侍が竹の栓を抜くと、フワリと甘く、甘美な香りが漂い出た。 月ヶ瀬が恐る恐る幾の口へ運ぶ。
「…………!」
幾は息を呑んだ。 冷たく澄んだ水の中に溶け込んでいるのは、貴重な白砂糖と蜂蜜の上品な甘み、そしてほんの僅かな塩気と、絞りたての果汁の酸味。 渇き切っていた舌と喉が、その甘露を吸い尽くすように受け入れていく。 都の公家屋敷で口にしたどんな菓子よりも洗練され、命を繋ぐために計算し尽くされた、奇跡のような水であった。
「……あ、甘い……。冷たくて……体に、染み渡っていく……」
幾の乾いた唇に、微かな血色が戻った。
部屋の隅では、有明が竹筒の水を貪るように飲み干し、「な、何ですの、この甘さは……! 都の高級な水飴よりも、遥かに清らかで……」と涙目を白黒させていた。 弓張もまた、空になった椀を握りしめたまま、言葉を失って震えていた。 田舎侍の野蛮な船底で、自分たちが命を救われたという屈辱。そして、その施しがあまりにも完璧で、優しく、抗いようがないという現実。
「……お侍殿」
幾は乱れたかつらの端を抑えながら、初めてその大きな瞳で侍を真っ直ぐに見つめた。
「そなたたちの主……島津崇清殿は、いつもこのような差配をなさるのか?」
侍は一瞬驚いたように瞬きをし、次いで赤銅色の顔を綻ばせて、誇らしげに胸を張った。
「はっ! 若君は、兵糧と人の手入れに関しては、家中一の細やかさにございもす。『預かった命は、一人残らず生かして飯を食わせる』というのが、若君の口癖にございもしてな。……都の貴人方には至らぬ船路でございましょうが、高須の港に着くまで、この船乗りどもが命に代えてお守りいたしもす!」
侍たちは深々と頭を下げると、濡れた雑巾で吐瀉物を手早く拭い去り、新しい晒布を置いて嵐の甲板へと戻っていった。
静まり返った船室。 吹き抜ける潮風の中で、素焼きの香炉から立ち上る甘い香りが、女中たちの強張った心を静かに解きほぐしていく。
ぬ南国の空へ向けて、幾の瞳の中に灯った小さな光は、確かな輪郭を持って輝き始めていた。
お読みいただきありがとうございます!
豊後水道の荒波に揺られ、都のプライドもろとも船酔いで壊滅した女中衆。
彼女たちを救ったのは、崇清が事前に命じていた「生姜と蜜柑の皮の薬湯」「干し梅」「竹筒の冷たい甘味水」という、徹底された兵站と衛生の現場インフラでした。
「預かった命は、一人残らず生かして飯を食わせる」
顔も知らぬ夫の実像が、家臣の誇りを通して初めて幾(清子)の胸に灯った第125話となりました。
次回、輿入れ編・第3話。
船はいよいよ大隅・高須港へ入港します。
泥の寒村を想像していた都の一行を待っていたのは、整然と敷き詰められた白石畳と立ち並ぶ白壁倉庫。
そして、新築された飯隈御殿の奥にて、かつらを落とした素顔の幾と、崇清の「初対面」の時が訪れます。
どうぞお楽しみに!




