第124話 京立ちの朝と野蛮な迎え
天正六年(一五七八年)秋、京都・近衛邸。
朝靄に煙る公家町の板塀の向こうから、冷たい秋風が落ち葉を巻き上げていた。 五摂家筆頭・近衛家の広大な屋敷の裏手、日当たりの悪い土蔵の脇に佇む質素な長屋の一室で、十六歳の姫――清子(幼名・幾)は、膝の上で両の拳をぎゅっと握りしめていた。 畳の上に置かれているのは、古びた葛籠が幾つか並ぶばかり。 五摂家の姫の輿入れ支度とは到底信じられぬ、哀しいほどに身軽で粗末な荷物であった。
「……姫様。じっとしていてくださりませ。髢の留め金が、まだ噛み合っておりませぬゆえ」
背後から厳しい声をかけたのは、長年仕えてきた老女房・月ヶ瀬の局であった。 かつて従五位の公家屋敷に仕えていた頃からの付き人で、幾が幼い頃からその境遇を母のように見守ってきた、誇り高く生真面目な女中頭である。 月ヶ瀬は細い指先で、幾の頭に被せられた漆黒のかつらを整え、留め針を慎重に差し込んだ。 その針先の下から、さらりと一筋、地髪がこぼれ落ちた。 梳き櫛が吸い付くように通る、見事な直毛であった。 だが――朝の光を浴びたその髪筋は、都の貴族が尊ぶ濡れ烏の漆黒ではない。まるで秋の野山で陽に透けた枯葉のように、生まれつき柔らかな赤茶色を帯びていた。
(……ああ、神仏は、なぜこれほどまでに無慈悲なのか)
月ヶ瀬は奥歯を噛み締め、その髪を隠すようにかつらの内側へと押し込んだ。 都の公家社会において、赤茶けた髪は「不吉」「異形の血」と忌み嫌われる。外出時には、この息苦しい黒髪のかつらで隠すことが、幼い頃からの絶対の掟であった。
「……背筋をお伸ばし遊ばせ、姫様。帯が下がってしまいまする」
月ヶ瀬が幾の細い腰に手を回すと、その手のひらに、衣越しでもはっきりとあばら骨の硬い感触が伝わった。 肉付きがなく、手足ばかりが長い。 都の奥向きで尊ばれる「ふっくらと肥え、日陰で白く丸々とした雅」とは程遠い、あまりにも骨ばった痩せぎすの体であった。
「月ヶ瀬。……無理に帯を締め上げずともよい」
幾がふと顔を上げた。 白粉を引かぬその素肌は、日陰の深窓で育ったはずなのに、生まれつき健康的な小麦色に沈んでいる。 そして、月ヶ瀬を見上げたその双眸――顔の半分を占めるのではないかと思えるほどに、大きく見開かれた瞳であった。 切れ長の細い目を良しとする都の物差しからは、「ぎょろりとして意思が強すぎる」「慎みがない」と蔑まれ続けた大きな目。
「どうせ私のような不器量者が顔を白く塗り固めたところで、土壁を繕うようなもの。白粉が汗で浮いて、余計に嘲笑の種になるだけだ」と白粉を嫌がり、饐えた臭気のするお歯黒も頑なに拒んで、部屋に閉じこもるのを嫌って庭の草木を眺めたがる幾の性分も手伝って、親族や公卿たちからは「不器量」「行き遅れ」「素行不良の欠陥品」と嘲笑されてきた。
薄暗い長屋の次の間には、この過酷な旅に付き従う女中たちが身を寄せ合っていた。 月ヶ瀬の補佐を務める上臈が一人、身の回りの針仕事や着付けを受け持つ中臈が三人、そして雑役をこなす下女が五人。 月ヶ瀬と同じく困窮した屋敷で幾の薄幸を見守ってきた古参の者たちに、近衛本邸の奥向きから目付として付けられた弓張の局ら三名を加えた、十人あまりの供揃えである。 皆、都を遠く離れて南国の果てへ連れて行かれる不安に、押し黙って肩を震わせていた。
「帯など、どれほど綺麗に結んだところで、誰も見てはくれぬよ。……近衛の前久様も、よくぞこの厄介者の処分先を見つけてくださったものだ。薩摩の、名も知れぬ田舎侍の五男坊……。私のような欠陥品には、お似合いの島流しではないか」
幾の乾いた唇から零れたのは、自嘲の混ざった微かな諦念であった。
「滅相もございませぬ、姫様ッ!」
月ヶ瀬は帯を締める手を止め、幾の痩せた肩を抱きしめた。 その双眸には、悔し涙が溢れ返っていた。
「近衛様が何と仰ろうと、姫様はれっきとした名門の血を引く貴種にございます! それを……烏丸の茶房で銭を運んでくるからと、あの鬼の棲むような南国の野蛮人に人身御供のように売り渡すなど……! どうせ相手の田舎者も、摂関家に断れぬゆえ嫌々引き受けただけに決まっております! 着いた途端、山奥の物置に押し込められて粗雑に扱われるに決まっておりまする!」
月ヶ瀬は唇を噛み締め、胸元の懐刀を強く握り直した。
「案ずることはございませぬ。この月ヶ瀬をはじめ、ここに控える女中ども一同、たとえ相手が荒くれ者の薩摩武士であろうと、命に代えて姫様の尊厳をお守りいたします。……もしあの田舎侍どもが姫様を侮り、無体な真似をしようものなら、この喉笛を突いて果てる覚悟にございます!」
「……すまぬな、月ヶ瀬。皆も、不憫な主に付き合わせて」
幾は力なく微笑んだ。 どうせ自分は醜い。 どうせ誰からも愛されない。 だからせめて、向こうの田舎者が自分を見て眉をひそめようとも、取り乱さずに淡々とその冷遇を受け入れよう――。 幾はそう心に決め、静かに立ち上がった。
*
表の門前に出た瞬間、幾と女中たちは息を呑んで足を止めた。 そこに待機していたのは、近衛家の華やかな牛車でも、雅やかな公家の供揃えでもなかった。 麻の単衣に粗末な陣羽織を羽織り、日に焼けた赤銅色の顔筋に深い太刀傷を刻んだ、筋骨隆々の大男たち――蒲生島津家より迎えに派遣された、薩摩の武士たちであった。
「……お出ましでごわすか」
先頭に立っていた髭面の侍が、ガラガラとしたしわがれ声で頭を下げた。 目つきは鋭く、抜き身の槍のような殺気が全身から立ち上っている。 佩いている太刀の柄は使い古されて黒ずみ、草鞋を履いた足首には幾重もの擦り傷が走っていた。 御所の貴公子たちとは月とすっぽん、洗練された品配りなど欠片もない、血生臭い戦場からそのまま抜け出してきたような「本物の田舎侍」そのものであった。
「ひっ……!」
背後に控えていた下女たちが小さな悲鳴を上げ、中臈たちも互いの袖を握りしめて青ざめた。 月ヶ瀬が素早く幾の前に立ちはだかり、上臈とともに全身の毛を逆立てて侍たちを睨みつける。
だが、薩摩武士たちは女中たちの怯えや敵意など歯牙にもかけぬ様子で、無造作に幾や女中たちの葛籠を片手でひょいひょいと担ぎ上げた。
「荷はこれだけでごわすか。……若君(崇清様)より、『都の姫様方は船路の揺れに弱いゆえ、淀川までは無理をさせず、足元の確かな小輿で運べ』とのお言いつけにございもす。乗られよ」
差し出されたのは、飾り気のない、だが頑丈な樫の木で組まれた簡素な輿であった。 女中たちのためにも、歩かせずに済むよう頑丈な小車と馬が手配されている。
(……やはり、噂通りの無骨者たちだわ)
輿の中に身を滑り込ませ、御簾の隙間から荒々しい武士たちの背中を見つめながら、幾は小さく息を吐いた。 口調はぶっきらぼうで、公家のしきたりなど意に介さぬ様子。 夫となる島津崇清という男も、きっとこの男たちと同じように、粗暴で、品がなく、力と暴力だけを信じる野蛮な武辺者に違いない。 前久から「少しばかり知恵の回る田舎者」と聞かされていたが、所詮は南国の土豪の枠を出ないのだろう。
(……私は、あの男の玩具にされるか、あるいは用済みの荷物のように隅へ放り出されるのだわ)
ガタガタと揺れる輿の中で、幾は膝を抱え、暗い影の中に閉じこもった。
*
行列は鳥羽の街道を南下し、伏見の船着き場から川舟に乗せられ、淀川の濁った水路を滑るように下っていった。 川風は冷たく、幾と月ヶ瀬、そして女中たちは濡れた筵の端に身を寄せ合って震えていた。 都の華やかな街並みが遠ざかり、葦の生い茂る寒村の風景が広がるにつれ、自らが日の本の果てへと流されていく実感が、重い鉛のように胸に沈んでいく。
やがて――淀川の河口を抜け、潮の香りが急激に濃くなった。 摂津・兵庫津。 瀬戸内海の荒波が打ち寄せる、巨大な国際港湾の埠頭へ辿り着いた時であった。
「姫様、船着き場に着き申した。……これより、薩摩の船へ乗り換えていただきもす」
案内役の武士の声に促され、幾は月ヶ瀬の手を借りて恐る恐る輿の外へ足を踏み出した。 下女たちも青ざめた顔で舟を降り、身を寄せ合う。
(どうせ……泥まみれの、魚臭い艀のような小舟に押し込まれるのでしょう……)
そう覚悟して顔を上げた幾と女中たちの瞳が――驚愕に見開かれた。
「……えっ?」
埠頭の波止場に横付けされていたのは、幾たちが想像していたような粗末な泥舟ではなかった。 白木の木肌が陽光に輝く、巨大な外洋関船。 船首から船尾まで、狂いなく削り出されたクスノキとスギの厚板が隙間なく組み合わされ、目地には艶やかな漆と槙肌が美しく塗り込められている。 高くそびえ立つ帆柱には、孟宗竹の骨組みが幾重にも整然と張り巡らされた、見たこともない白帆が折り目正しく畳まれていた。 さらに、甲板の上には塵一つ落ちておらず、掃き清められた板敷きからは、清々しい木の香りが漂ってくる。 粗暴な田舎侍たちの船とは到底信じられぬほどに、その巨船は洗練され、頑丈で、圧倒的な威容を誇っていた。
「……月ヶ瀬、あれは……」
幾が思わず呟いた。 月ヶ瀬も、そして後ろに控える上臈や中臈たちも、開いた口が塞がらず、目を白黒させてその船を見上げていた。
「な、何でございましょう、あの船は……! 堺や兵庫の豪商が仕立てる大廻船どころか……まるで、かつて都の絵巻で見た『渡唐船』や大名の御座船のように、立派で……清らかではございませぬか……?」
「姫様、皆様、足元にお気をつけて」
先ほどまでの無骨な侍たちが、船首から渡された頑丈な歩み板の両脇に立ち、まるで壊れ物を扱うように恭しく手を添えてくる。 恐る恐る足を踏み入れた船内の中央には、都の公家屋敷の座敷をそのまま切り取ってきたかのような、清潔な青畳の小部屋が誂えられていた。 女中たちが全員ゆったりと座れるだけの広さがあり、障子の枠には真新しい和紙がピンと張られ、部屋の隅には、ほのかに甘い香りを放つ素焼きの香炉が置かれている。
(……どういうことなの?)
畳の上に腰を下ろした幾の胸に、激しい困惑の波が打ち寄せた。 野蛮で、粗暴で、貧しい南国の田舎大名。 自分のような不器量な欠陥品を、嫌々押し付けられたはずの夫。 なのに――なぜ、この船はこれほどまでに美しく、自分たちを迎える部屋はこれほどまでに温かく整えられているのか。
ギシリ、と太い錨が巻き上げられ、帆が風を孕む重い音が甲板に響いた。 瀬戸内海の青い海原へ向けて、巨大な船が滑るように動き出す。 都を遠く離れ、未知なる南国・薩摩へと向かう波の上で、幾の心の中に芽生えた小さな戸惑いは、解けぬ謎のように静かに揺らめき始めていた。
お読みいただきありがとうございます!
いよいよ新章突入! 近衛前久の猶子・清子(幼名:幾)の輿入れ編・第1話をお届けしました。
都の貴族社会の物差し(白粉・お歯黒・ぽっちゃり至高主義)から完全に外れ、「不器量」「行き遅れ」「素行不良の欠陥品」と蔑まれてきた幾。
自分のような厄介者が、鬼の棲むような南国の田舎侍へ人身御供として叩き売られたのだと、床の底まで期待値を下げて都を後にしました。
お付きの月ヶ瀬も、主君を守るためにトゲを逆立てて警戒度MAXです。
しかし、兵庫津で待っていたのは、崇清が誇る高須造船の粋を集めた「清潔で贅を尽くした大型外洋関船」!
「粗暴な田舎者のはずなのに、なぜ……?」という最初のギャップと困惑が刻まれました。
え?亀寿とパターンが一緒?
……はい……確かに。
でも、前久がこの輿入れを決めた時点では、崇清はまだ「烏丸サロンを使い、若一王子神社に正一位を賜った」程度の男です。前久からすれば「ちょっと有望かもしれないし、縁のある島津だからツバつけとこ」くらいの査定だったはず。
となれば、出てくるのは傘下の従五位の家の、貰い手のない行き遅れかけの娘。傘下への恩売りも兼ねて、です。
そもそも近衛と島津は、島津荘の荘園主と下司(管理人)という元の主従関係。相手が怒らないだろう線の「瑕疵のある姫」を娶せるのは、都の論理としては自然な落としどころだと……思うんですよ……。
次回は、輿入れ編・第2話!
瀬戸内海から日向灘を抜ける航海の中、船酔いに苦しむ姫たちを救う崇清の「徹底した船内インフラ(清潔・湯殿・保存食・甘味)」の衝撃をお届けします。どうぞお楽しみに。




