第118話 宇佐の神鏡と烏丸の密書
天正六年(一五七八年)初春、大隅・獅子目。
冷たい海風が谷間を吹き抜ける獅子目要塞の板敷き広間に、低く押し殺したすすり泣きが満ちていた。
日向・細島の港から船と馬を乗り継いで運ばれてきたのは、四十余名の男女であった。 八幡総本宮・宇佐神宮の大宮司一族、社家、神官、そして煤に汚れ、寒さに震える巫女や幼い稚児たちである。 着古した狩衣や白衣は潮水と泥で黒ずみ、足袋は擦り切れ、逃避行の凄まじさを物語るように誰もが骨と皮ばかりに痩せ細っていた。
広間の中央、白木の三方の上には、錦の裂に包まれた古式ゆかしい銅鏡――八幡総本宮の「御神鏡」が据えられていた。
「……又八郎様」
付き添ってきた楠行者衆の頭領・道純が、沈痛な面持ちで頭を下げた。
「大友宗麟の軍勢が神殿に火を放ち、宝物を暴いて金銀を奪い去った折、この方々は神鏡のみを胸に抱き、夜闇の豊前海へ小舟を漕ぎ出しました。……追っ手の関船から矢を浴びせられ、舟を押し出そうとした若い神官たちが、何人も波打ち際で射倒されたそうでございます。背中に矢を立てたまま海へ沈んだ者たちの手によって、この鏡だけが守り抜かれ申した」
社家衆の長老である老神官が、震える両手を畳につき、額を床板に擦り付けた。
「島津の若殿様……! 畏れ多きこととは存じながら、この通りにございます……! 我が宇佐の宮は焼かれ、神仏を尊ばぬ大友の刃によって、幾多の同胞が血の海に沈み申した。……南日向の社寺を安堵し、至誠の道を行く島津様と聞き及び、恥を忍んでこの薩摩の地まで逃れ参りました。どうか……どうか、八幡の大神様の御神体と、この幼き者たちの命ばかりは、お救いくだされ……!」
老神官の頬を、止めどなく涙が伝い落ち、乾いた畳を濡らしていく。 背後に控える神官たちも、幼子を抱いた巫女たちも、一斉に平伏して肩を震わせた。
崇清は静かに立ち上がり、老神官の前まで歩み寄ると、自ら膝を折ってその痩せこけた肩に手を添えた。
「――頭をお上げください、神官殿」
崇清の声には、策謀を巡らせる冷たさは微塵もなかった。 前世で下請けの過酷な現場を渡り歩き、理不尽な力に踏みにじられる痛みを誰よりも知る崇清の瞳に宿っていたのは、追いつめられた生身の人間に対する、飾りのない深い痛惜であった。
「遠路、よくぞご無事で辿り着かれました。……神を敬い、祈りを捧げてきた方々が、なぜこのような塗炭の苦しみを味わわねばならぬのか。理不尽極まりない凶行、胸が張り裂ける思いです」
崇清は振り返り、控えていた弥三郎と勝手場の者たちへ手早く指示を飛ばした。
「弥三郎! 勝手場の竈に火を入れろ。高須の純白塩と干し椎茸、鰹節で引いた熱い雑炊を大鍋いっぱいに炊かせろ。根菜を柔らかく煮込み、胃の腑を温めるんだ。……それから、納屋から真綿の入った清潔な着物と羽織を全員分出せ。湯殿の湯を沸かし、まずは潮と泥を落として身体を休めていただく」
「へ、へいっ! ただいま!」 弥三郎が帳面を懐へ押し込み、飛び出していく。
「若君、手前ども、着の身着のままで銭の一文も持ち合わせておりませぬ……! このような破格のもてなしをいただいては、返す手立てがございませぬ!」 老神官が慌てて辞退しようと手を振るが、崇清は穏やかに首を振った。
「返す手立てなど要りません。飢えた者に飯を食わせ、凍える者に着物を与えるのは、人として当たり前のことです。……それに、大友宗麟の狂乱は、南蛮の武器欲しさに目が眩んだ武士どもの業。同じ武門に身を置く者として、皆様にこのような辛酸を舐めさせたこと、真に申し訳なく思う」
崇清は立ち上がり、平伏する社家一同を見渡した。
「安心してください。島津の勢力圏にある限り、皆様を大友の追っ手には絶対に渡しません。獅子目の山裾、陽当たりの良い静かな地に直ちに仮宮を造営し、この御神鏡をお祀りいたします。日々の米や塩、神事に必要な白木や油は、すべて我が飯隈の倉から無制限に手配いたしましょう。……神官殿、皆様。ここはもう、戦場ではありません。心ゆくまで息をおつきなされ」
運ばれてきた湯気立つ白粥と澄まし汁の椀を口にした瞬間、幼子たちが小さな声を上げて泣き出し、老神官は椀を抱きかかえたまま慟哭した。
「おお……おお……っ! なんと温かい……。神職として生きてきて、これほど慈悲深き武士に出会ったことがあろうか……!」
「八幡大神様は……我らを見捨ててはおられなかった……!」
打算や恐怖による平伏ではない。 絶望の底から命を拾い上げられた人間たちの、魂の底からの感謝と絶対の帰依であった。
崇清は三方の上の御神鏡を見つめながら、静かに息を吸い込んだ。 同情は本物だ。だが、この宇佐神宮の亡命という事実は、同時に大友宗麟という怪物を無血で完全に解体するための、天下最大の「大義名分」に他ならなかった。
崇清は錦の包みを両手で恭しく押し戴くと、供回りを連れて馬に跨がった。 向かうは、薩摩・鹿児島の内城であった。
*
数日後――薩摩・鹿児島、内城奥書院。
桜島の噴煙が青空を鈍色に染める中、内城の奥深くには張り詰めた静寂が漂っていた。 上座に座す島津家当主・島津修理大夫義久。その脇で白檀の扇子を静かに弄ぶ知将・島津左馬頭歳久。 そして下座の畳には、大隅より登城した崇清が、あの宇佐神宮の御神鏡を文机の上に据えて端座していた。
「……これが、宇佐の御神体か」
義久が、重々しく息を呑んだ。 戦国大名として数々の修羅場をくぐり抜けてきた義久の双眸にも、目の前にある神宝の放つ異様な重みが痛いほどに伝わっていた。
「はい。豊後府内を海上封鎖によって兵糧攻めにした結果、追い詰められた大友宗麟公が狂乱に走り、国東半島の宇佐神宮を破却。神仏の偶像を破壊して金銀を強奪いたしました。……その火の海から御神鏡を抱きかかえ、決死の脱出を果たした大宮司一族・社家衆四十余名が、細島を経て獅子目へと逃れ着いたのでございます」
崇清の淡々とした報告に、歳久が扇子の親骨で自らの膝をトントンと叩いた。
「神仏を焼き、八幡の総本宮を灰燼に帰したか。……宗麟殿も、耳川で大敗した焦りから、ついに越えてはならぬ最後の一線を踏み越えてしもうたな。されど崇清、社家を匿うたとして、これからどう動かす気じゃ。この神鏡を掲げて豊後へ攻め込めば、大義名分は立つが……豊後の山野で泥沼の戦になろう」
「力攻めなど、最初からいたしませぬ」 崇清は即座に首を横に振った。
「戦をして勝っても、田畑が荒れ、兵が死に、大赤字になるだけです。……まず仕掛けるべきは、宗麟公個人の首に『朝廷の縄』を掛けることです」
「朝廷の縄……?」 義久が眉を寄せる。
「宇佐八幡の社家衆より、朝廷へ直訴状を差し出させます。八幡神は朝家の皇祖とも深く結びつく大神。それを焼き討ちした宗麟公は、もはや武士ではなく『神敵』にございます。朝廷より、宗麟公へ一切の政務からの退隠と隠居を命ずる勅命を下させるのです。臼杵の城内に永久に閉じ込め、二度と表舞台へ出られぬよう釘を刺します」
「……宗麟個人を神敵として隠居に追い込むか」 歳久が低く呟き、鋭い目を向けた。 「だがな、又八郎。親を退かせたところで、大友の家そのものはどうする。豊後にはまだ嫡男の義統がおる。大友の家ごと叩き潰す気か?」
「いえ。大友の家名は残します」
「残す?」 義久が訝しげに身を乗り出した。
「潰してしまえば、残された豊後の家臣団や国衆が『島津に殺される』と怯えて徹底抗戦を選びます。それでは意味がない。……家督は義統殿へ継がせ、大友の血統と家名は存続させるのです。ただし――」
崇清は一拍置き、懐から取り出した九州の絵図の上に指を置いた。
「豊後と筑前の『領主権』だけを、朝廷を通じて綺麗に返上させます」
「領主権を……?」
「武力を持つ大名としての役目を解き、義統殿には都へ移っていただくのです。朝廷に仕える名門公家格――いわば『高家大名』として遇するのです。領地の代わりに朝廷や公儀から一定の扶持を与え、京の貴族社会の枠組みへ祭り上げてしまう。……大友の家名を朝廷の権威で守ってやるという名誉ある器を用意すれば、豊後の家臣たちも無駄な血を流す理由を失います」
歳久が扇子を広げ、感嘆の吐息を漏らしながら低く笑った。
「……なるほどな。領地を奪うのではない。名門の誇りを立ててやりながら、京の鳥籠の中へ飼い殺しにするわけか。……血を一滴も流さず、宗麟を檻に閉じ込め、義統を都へ棚上げして、豊後の土地と民だけを丸ごと手元に収める。実に人を喰うた算盤よ」
「お屋形様。この策、お認めいただけますでしょうか」 崇清が静かに頭を下げた。
義久は腕を組み、しばし天井を仰いだ後、力強く頷いた。
「よい。又八郎、そなたの描いた図面通りに事を運べ。……島津宗家の名において、朝廷への奏聞を全面的に後押しいたそう」
「ははっ、ありがたき仕合わせにございます」
評定を終えた崇清は、内城を辞するとすぐさま大隅へ戻り、自室で筆を執った。 宛先は――京都・烏丸茶房の近衛前久、そして吉田神道の長・吉田兼見である。
『豊後国主・大友宗麟、乱心して八幡総本宮たる宇佐神宮を焼き討ちし、神宝を奪い去る。社家衆は御神鏡を奉じて島津の領内へ亡命せり。島津はこれを篤く保護し、仮宮を設けて祭祀を継続中なり』
『願わくは、主上(正親町天皇)の御耳へこの惨状を達し、宗麟へ即時退隠の綸旨を下されたし。併せて、大友の家名を保全しつつ天下静謐を図るため、大友家を都へ引き上げさせ、高家として遇する勅命の降下を乞う』
手紙の脇には、高須の極上白塩百石の引換割符と、黄金二百両の目録が添えられた。
「道純。……これを早船で細島から瀬戸内へ飛ばせ。烏丸の前久公へ直ちに手渡すのだ」
「御意にございます」 闇の中から現れた道純が、恭しく書状を押し戴き、風のように去っていく。
*
それから半月後――京都、烏丸通。
早春の陽光が注ぐ烏丸茶房の奥座敷で、前関白・近衛前久は、届いたばかりの崇清の密書を広げ、扇子を打って哄笑した。
「くっ……くはははは! 兼見、見よ、この書状を!」
対座していた神祇官代・吉田兼見が、書状に目を落とし、息を呑んで絶句した。
「こ、これは……宇佐八幡の御神鏡が、島津の手にあると……!? 宗麟め、ついに神仏を焼きおったか!」
「それだけではないぞ」 前久は目を細め、机の上の黄金の目録を指先で弾いた。
「あの薩摩の小僧(崇清)は、宗麟の暴挙を口実に大友を力で攻め滅ぼそうとはしておらぬ。……宗麟を神敵として隠居させ、大友の家名は義統に継がせて都の高家へと迎え入れよと、朝廷に下知を求めてきているのだ」
「大友を高家に……!」 兼見の双眸に、驚愕と感嘆の色が走った。
「四百年の名門大友を、朝廷の権威で無血解体し、都の公家大名へ棚上げする……。何という深謀遠慮。これならば、主上も、関白殿下も、諸卿も、誰一人として異論を挟む余地はござりませぬ」
「うむ。朝廷にとっても、神敵・宗麟を退け、皇祖神の八幡宮を守護した島津の威光を認めることは、この上ない面目となる。……兼見、武家伝奏の勧修寺晴豊卿を呼べ。大友宗麟への退隠勧告と、大友家高家化の勅許の案文を直ちに整えるぞ」
前久は立ち上がり、座敷の障子を開けて南の空を見上げた。
「……大友の首に、ついに朝廷の縄が掛かったぞ、崇清。さあ、次は豊後の国がどう弾け飛ぶか、見ものじゃな」
都の冷たい春風の中に、前久の不敵な呟きが溶けていく。 崇清の放った一本の密書が、朝廷という巨大な歯車を動かし、豊後・大友家の命運を決定づけるカウントダウンが、静かに幕を開けたのであった。
八幡は応神天皇の神霊と習合しておりつまり皇祖神です。
そこを焼くのは意外とヤバいのです…




