第119話 雲上の石垣と木こりの溜め息
今回は、前話の緊迫した朝廷工作から一転、高隈山の山頂(標高1000m超)を舞台にした現場土木・インフラ開発回をお届けしました。
温暖な薩摩平野では絶対に不可能なピルスナー(ラガー)を造るため、標高の高い山頂の日陰に「天然氷室」と「冷水路・石組み醸造所」を丸ごと普請します。
ホップの生育サイクル(初夏の新芽→初秋の収穫→初冬の仕込み→数ヶ月の低温熟成)に合わせ、天正七年初春の完成へ向け動き出します。
【第120話:岩屋の血煙と名将の遅滞戦】
龍造寺に呼応した秋月・筑紫の大軍が迫る中、孤立無援の中で兵と民を生かすため、泥まみれで撤退戦(遅滞戦)を指揮する高橋紹運・立花道雪の死闘をお届けします。どうぞお楽しみに!
天正六年(一五七八年)初夏、大隅・高隈山。
初夏の強い日差しが南九州の照葉樹林を青々と照りつける中、標高千メートルを超える大隅半島の脊梁・高隈山の山頂直下は、別世界のように冷涼な白霧に包まれていた。
錦江湾を見下ろす険しい尾根筋に、木霊する槌音と、息も絶え絶えな絶叫が響き渡る。
「若君ィィィッ!! 僕ぁね、もう足の裏の皮が全部擦り切れて、いま骨だけで歩いてますよッ!!」
帳面を抱え、半泣きで急斜面を這い上がってきたのは、現場主任の蒲生弥三郎であった。
額から滝のような汗を流し、息を荒らげて膝に手をつく。
「内城で朝廷工作の図面を引いたと思ったら、今度は何ですかこの登山行軍は! 大工、石工、木こり、総勢百人もの職人をこんな雲の上の岩山に連れ込んで……! ここは城を築くような場所じゃありませんぜ! 水汲みに行くだけで谷底へ転落死するような絶壁じゃないですかァッ!」
「弥三郎、騒ぐな。呼吸が乱れると余計に体力を消耗するぞ」
涼やかな顔で腰の竹筒から水を一口含んだのは、麻の作務衣に手甲脚絆という現場指揮官姿の島津崇清であった。
崇清が見上げているのは、北向きの険しい岩盤の窪地――一年を通じて陽がほとんど差さず、冬には雪が吹き溜まる天然の谷間であった。
「城を築くのではない。……俺たちの未来の『命の水』を醸すための、山上醸造所と氷室の普請だ」
「麦酒! またあの苦い麦酒のためですかッ!」
弥三郎が天を仰いだ。
「去年の冬、地下蔵で試飲したエールで十分美味かったじゃないですか! 佐土原の家久様も、与八郎(中馬重方)も、唐揚げ片手に泣いて喜んでたでしょうが!」
「あれは上面発酵だ」
崇清は即座に首を振った。
「旨いが、濃厚すぎて喉が重い。俺が本当に求めているのは、五度から十度という極めて低い温度で酵母を底に沈めて発酵させ、雑味を削ぎ落として黄金色に透き通らせる……真の『下面発酵』だ。大隅の平地では、冬でも室温や醪の発酵熱で温度が上がりすぎて絶対に下面発酵にはならない。……この高隈山の頂の冷気と、雪解けの湧水、そして氷室のインフラがあって初めて、物理的に可能になるんだ」
「ぶつり……! 出たよ、若君のその理屈!」
弥三郎が頭を抱えて呻いている横で、ドシン、ドシンと地響きを立てて巨漢が近づいてきた。
蒲生衆の山番頭・甚兵衛である。
手斧を腰に差し、白髪混じりの髭を撫でながら、困り果てた顔で崇清を見下ろした。
「若君のお言いつけ通り、北の岩陰を掘り下げて『雪氷を詰め込む氷室』の穴は掘り始めましたがな……。この岩盤、花崗岩が硬すぎて、並の鏨じゃ歯が立ち申さぬ。それに、湧水を引くための石水路を組もうにも、石材をここまで担ぎ上げるだけで職人どもの腰が砕け散りそうでござる」
「石材なら、もう上がってきてるぞ」
崇清が背後の山道を指差した。
甚兵衛と弥三郎が目を丸くして振り返る。
ズズン……ズズン……!
急勾配の山道を、人間とは思えぬ太い足取りで登ってくる人影があった。
背負子など使っていない。大人が四人がかりでようやく転がすような、畳半畳大の巨大な花崗岩の切石を――素手で両肩の上に担ぎ上げ、汗一つかかずに悠々と登ってくる少年武者。
崇清の直属与力にして、人間重機・中馬重方(与八郎)であった。
「うおおっ、若君ー! 一番重そうな切石、下から担いできましたぞー!」
ドガァァァンッ!!
重方が軽々と両腕を外すと、数千斤はあろうかという巨石が地面を揺らして落ち、土煙が舞い上がった。
「……ば、化け物か、あやつは……」
甚兵衛が手斧を取り落としそうになって顎を落とした。
職人や木こりたちが一斉に作業の手を止め、青ざめて重方を見つめている。
重方は人懐っこい笑みを浮かべ、腕まくりをした丸太のような腕で額の汗を拭った。
「若君、この石をあと十個も運べば、冷水を引き込む水路の土台になりますか! 腹が減ったので、昼飯のふかし芋と豚汁を三人前食ったら、もう一往復してきます!」
「与八郎、頼もしいが無理はするなよ。……甚兵衛、重方が運んだ巨石を基礎にして、谷の最深部に『石組みの保冷貯蔵庫』を組め。日陰の岩盤深くに埋め込み、周囲を粘土と孟宗竹の断熱層で二重に囲うんだ。冬の間に積もった雪と氷を叩き込んで密閉すれば、夏場でも内部を五度前後に保てる天然の冷蔵設備になる」
「は……ははっ! 仰せの通りに!」
甚兵衛は重方の人間離れした怪力に圧倒されつつ、木こりたちへ怒号を飛ばして配置につかせた。
崇清は尾根の南斜面へと歩を進めた。
そこには、日当たりの良い傾斜地を切り開き、孟宗竹で組まれた長大な立体棚が幾重にも連なっていた。
昨年、わずかな毬花を収穫した「高隈山ホップ畑」である。
二年目を迎え、しっかりとこの高山の寒暖差に根を張ったツル草は、昨年の倍以上の太さとなって、初夏の風に青々とした葉を擦り合わせていた。
ツルの節々には、すでに小さな緑の新芽がびっしりと顔を覗かせている。
「……順調だな」
崇清はツルの若葉を指先で優しく撫でた。
冷涼な高隈山の気候は、南蛮から持ち込まれたホップにとって、まさに故郷のヨーロッパの丘陵に近い奇跡の環境であった。
この勢いなら、晩夏――八月の終わりから九月にかけて、棚一面を埋め尽くすほどの大量の毬花が収穫できるはずだ。
「秋にホップを刈り取って乾燥させ、十一月の初冬、この山上の醸造小屋で冷気と雪氷を使って仕込む……。発酵に数週間、そして氷室の底で数ヶ月間、低温熟成をかければ……」
崇清の脳裏に、濁りのない、黄金色に透き通った奇跡の液体が鮮やかに浮かび上がる。
ピルスナーの完成予定は、来年――天正七年の初春。
「若君。……また、何だか悪い顔をして笑ってますぜ」
背後から、息を整えた弥三郎がジト目で覗き込んできた。
「悪い顔じゃない。……極めて健全な、投資と回収の計算だよ」
崇清は眼下に広がる錦江湾、そして遠く北の海を見つめた。
「都では前久公が朝廷を動かし、大友解体の外堀を埋めてくれている。……大友が自壊し、九州の情勢が新たな秩序へ向かうその時、俺たちの手元には、天下の誰も見たことがない『本物の黄金の麦酒』が完成しているはずだ」
「はあ……。よく分かりませんが、とにかく僕の足腰が折れる前に、その水路と小屋の普請を終わらせてくださいよ……」
弥三郎のボヤキを心地よい風が吹き抜けていく。
雲上の山頂で、戦国の物理に挑む前代未聞の醸造インフラ普請が槌音高く進んでいくのであった。




