第111話 肥前の熊と過伸展の足音
天正五年(一五七七年)初冬、肥前・佐嘉城(佐賀城)。
どんよりと垂れ込めた灰色の冬雲の下、有明海から吹き上げる寒風が、佐嘉平野の水路網をさざ波立たせていた。
城内の大広間には、数十名に及ぶ龍造寺一門および肥前・筑後の国衆たちが、息を詰めて平伏していた。
上座にどっかりと腰を下ろしているのは、丸太のように太い腕と獰猛な眼光を誇る肥前の巨熊――龍造寺山城守隆信であった。
「……がははははッ! 大友め、いよいよ干上がったか!」
隆信の地鳴りのような怒声が、梁を震わせて木霊した。
膝の上に置かれた太刀の鞘を、筋張った拳で叩きつける。
「耳川で宗麟の精鋭四万が藻屑と消えてより一年! 日向から叩き出された大友の腑抜けどもは、府内の城に引き籠もって南蛮の神に祈るしか能がねえ! 筑後の連中が雪崩を打って儂に膝を屈したのも当然よ!」
隆信の目は血走り、肥前一国から筑前・筑後・北肥後へと急速に膨れ上がる版図の熱に、完全に酔い痴れていた。
蒲池、問註所、草野、星野、黒木――。かつては大友の威光の下で筑後十五城を誇った国人衆が、耳川の敗報と豊後水道の海上封鎖を聞きつけ、次々と龍造寺へ人質を差し出し、膝を折ってきたのだ。
「宗麟が南蛮船の塩も買えずに青息吐息の今こそ、豊後を北と西から丸呑みにする千載一遇の時ぞ! 秋月種実や筑紫広門と手を組み、立花山城の道雪、岩屋城の紹運を叩き潰せ! 筑前を平らげたその足で、豊後府内へなだれ込んで大友の息の根を止めてくれるわッ!」
広間に並ぶ武者たちが「おおっ!」と拳を突き上げ、気勢を上げた。
破竹の勢いで領土を広げる龍造寺軍にとって、大友の崩壊はまさに極上の獲物であった。
だが――。
上座のすぐ脇、軍師の座に控えていた一人の男だけが、微動だにせず冷ややかな視線を地図に落としていた。
龍造寺の頭脳にして、隆信の義弟――鍋島左和泉守直茂(信生)である。
「……殿。筑前攻めは結構にございますが、背後の手当てがおろそかになっております」
静かだが芯の通った直茂の声が、熱狂する広間の空気を冷水のように冷やした。
隆信が不快そうに眉を跳ね上げ、ぎろりと義弟を睨みつける。
「背後だと? 肥後のことか、又法師(直茂の通称)! 山鹿の隈部も、合志も、菊池の残党どもも、ことごとく儂の軍門に降ったではないか! 北肥後一帯はすでに我が龍造寺の手の中にあるぞ!」
「北肥後は、にございます」
直茂は懐から取り出した肥後全土の図面を、隆信の前へ滑らせた。
「……問題は、南肥後です。殿、八代と阿蘇の報せをどう見られますか」
「ふん!」隆信は鼻を鳴らした。
「球磨の相良義陽が、島津に脅されて城を明け渡し、南の知覧へ逃げ散ったという間抜けな話か! 戦もせずに先祖代々の城を捨てるなど、武士の風上にも置けぬ臆病風よ! 阿蘇の甲斐宗運も同じだ。矢部の山奥に引き籠もり、島津の使者と茶を啜って日和見を決め込んでおる。……そんな腰抜けども、筑前を片付けた後に一万の軍勢で踏み潰せば済む話ではないか!」
「……それが、致命的な見誤りにございます」
直茂は溜息を呑み込み、図面の「八代」と「矢部」を扇子の先で強く叩いた。
「相良義陽は、決して逃げたのではありませぬ。島津は一兵も損ぜず、矢一筋射かけずに相良の主従三千人を南薩摩へ丸ごと移し、球磨の山林と八代の港を手に入れ申した。……その八代城に今、誰が入っているとお思いですか」
「……誰じゃと?」
「島津随一の猛将、新納武蔵守忠元にございます」
直茂の低い声音に、広間の武頭たちのざわめきがピタリと止まった。
新納忠元――木崎原や耳川で獅子奮迅の武名を轟かせた、薩摩の生ける凶器である。
「忠元率いる三千の精兵が八代の古麓城に入り、不知火海を島津の軍船が埋め尽くしております。さらに、東の要衝・矢部には、阿蘇の老軍師・甲斐宗運が万全の備えで睨みを利かせている。……この二者は今や、島津の『兵站と神道』という見えざる鎖で固く結ばれているのです」
直茂は目を細め、筑後川の南を見据えた。
佐賀平野から筑後、そして北肥後へと伸び切った龍造寺の補給線。
前線は華々しく広がり、領地は増えたように見えるが、実態は「耳川で大友が勝手に自壊した隙間」へ雪崩れ込んだだけの、極めて脆い過伸展であった。
兵糧も、火薬も、国衆たちの忠誠すらも、まったく根を張っていない。
「……島津は、動いておりませぬ」
直茂は苦々しく吐き捨てた。
「大友が死に体となり、我らが北で大友の残党と血みどろで削り合っている間、薩摩の奴らは肥後南部に鉄壁の防壁を築いたまま、爪を研いでこちらを見物しているのです。我らが筑前や豊後へ兵力を深く突っ込めば突っ込むほど……背後から新納忠元と甲斐宗運の牙が、伸び切った我らの脇腹に突き刺さりますぞ!」
「ええい、五月蝿いッ!!」
隆信は苛立たしげに床板を蹴り飛ばした。
「又法師、貴様は昔から用心深すぎて気が滅入るわ! 島津など所詮、薩摩の山奥から這い出たばかりの田舎侍よ! 大友が倒れ、筑前・筑後・豊前を手に入れれば、我が龍造寺は五州を束ねる天下の巨魁となる! 数で押し潰せば、薩摩隼人など鎧袖一触よ!」
隆信の双眸には、すでに狂気にも似た覇道への執着が張り付いていた。
諫言を受け入れる余地など、もはやどこにも残されていない。
(……駄目だ。止まらぬ)
直茂は静かに目を伏せ、胸中で深々と息を吐いた。
耳川の勝利で大友を粉砕した島津の黒幕――都で近衛や信長を手玉に取り、神階と物流で阿蘇と相良を無血で呑み込んだという、あの「蒲生島津崇清」なる若造。
顔も見たことのないその男が、盤面の外側から冷笑を浮かべ、龍造寺という巨大な猪を「大友を叩き割るための自動破城槌」として巧みに誘導している気配がしてならなかった。
「……承知いたしました」
直茂は平伏し、低く頭を垂れた。
「されば筑前への出兵、異存はございませぬ。ただし……南肥後の境、高瀬・隈府の防備だけは、この直茂に万全の手当てをお許しくだされ」
「勝手にせよ! 出陣の太鼓を鳴らせ! 筑前へ雪崩れ込むぞッ!!」
隆信の咆哮が響き、佐嘉城から怒涛の軍勢が北へと動き出した。
肥前の巨熊が、自らの重みに耐えかねて軋む足音を響かせながら、大友の残骸をすり潰す破滅の進撃へと踏み出していく。
――その背後、遥か南の不知火海で、島津の冷徹な算盤が静かに弾かれていることにも気付かずに。
本作をお読みいただきありがとうございます!
今回は視点を北に移し、耳川の大敗で空洞化した九州北部へ猛烈な勢いで雪崩れ込む「肥前の熊」こと龍造寺隆信と、その懐刀・鍋島直茂の陣営をお届けしました。
史実でも耳川の戦いの直後、大友家を支えていた筑後十五城の国人衆が一斉に龍造寺へ寝返り、隆信は「五州二島の太守」と呼ばれる全盛期へ突入していきます。
作中でも隆信は「大友ざまあみろ、一気に豊後まで呑み込んでやる!」と狂喜乱舞していますが、実務家の鍋島直茂だけはまったく笑えていません。
それもそのはず、地図を引いて見れば一目瞭然。
前線は筑前・筑後・北肥後へと華々しく広がっているものの、補給線はビヨーンと伸び切り、従属した国衆たちの忠誠心もペラペラ。軍事の世界でいう典型的な「過伸展」に陥っています。
しかも、背後を振り返れば――
相良を薩摩南部へ丸ごと平和裏に移住させて不知火海の港八代を直轄化し、あの鬼武蔵・新納忠元が駐留。
さらに阿蘇神社の甲斐宗運とは「正一位」と経済インフラの鎖でガチガチの同盟を結んでいる。
島津は一兵も損なわず、南と中肥後に「絶対に抜けない鉄壁の蓋」をして、爪を研ぎながら見物している状態です。
隆信からすれば「背後に日和見の田舎侍がいるだけ」に見えていますが、直茂からすれば「自分たちが大友の残骸をすり潰す“自動破城槌”として、南の島津に都合よく使われている」という悪夢のような盤面です。
北の地鳴りが激しさを増す一方、次回(第112話)は少し時計の針を戻し、内城北の丸の奥向き事情と、大人の緊迫した政争を前にした「獅子目の茶畑」での日常エピソードをお届けします。
八歳の幼き許嫁・亀寿が「妻の務め!」と大奮闘し、崇清の前世のコンプラ意識が試される……!?
次回もどうぞお楽しみに!




