第112話 背伸びの妻と真夜中の防波堤
内城北の丸――楠御前(千鶴)が暮らす御殿の奥向きは、ここ数ヶ月でその様相を大きく変えていた。
当主・島津義久の三女である亀寿(八歳)の養育と将来の権限が崇清へと事実上移譲されて以来、嫁入り前の教育も兼ねて、亀寿とその身の回りを世話する女中衆が北の丸へと移り住んできたためである。
現在の奥向きの秩序は、明確に定まっていた。 筆頭は、滅亡前の蒲生城で奥を取り仕切り、極貧の長屋時代から崇清と千鶴を守り抜いてきた蒲生譜代の古参・岩崎(志保)。 その下に、まつ、ちよといった長屋時代を共にした中堅幹部が控え、下働きを含めた十数名の女中たちが日々の屋敷を切り盛りしている。
そして、その岩崎に次ぐ次席の座に就いたのが、亀寿付きの筆頭女中――内城のすぐ膝元、常安の地にゆかりを持つ名家から出た老女房、常安であった。
常安の下に付き従う亀寿直属の女中は、身の回りの世話や針仕事を受け持つ専属が五、六名。雑役を含めても七、八名ほどの、島津宗家当主の三女としては無駄のない、引き締まった所帯である。 合わせて二十名を超える奥向きは、険悪な派閥争いこそないものの、日々独特の緊張感に包まれていた。
崇清の意を受け、「子供は日向で走らせて、しっかり飯を食わせるのが一番」と実利と健康を重んじる岩崎。 それに対し、崇清の『夫が良いと言っているのだから外野は口を出すな』という鶴の一声によって、鉛入りの毒白粉や部屋への閉じ込めこそ諦めたものの、「島津宗家の姫としての型」だけは絶対に死守しようとする常安。
「……岩崎殿! いくら崇清様のお許しがあるからとて、輿にも乗られず、殿方の馬の前に乗せて野山へ繰り出すなど……! 島津宗家の姫としての慎みというものがございますぞ!」
「まあまあ、常安殿。そう堅いことを仰いますな。あの子……いえ、亀寿様は日向の風を浴びてこそ、あのように健やかな笑顔を見せてくださるのです。若君直々の馬上ならば、これ以上の安全はございますまい」
障子の向こうで繰り広げられる二人の押し問答を、廊下の角で聞いていた崇清は、胃のあたりを押さえて深く息を吐き出した。二人とも亀寿を心から案じ、慈しんでいる点では完全に一致している。だからこそ、どちらも引く気配がない。
そこへ、小袖の裾を器用にからげ、足元を藁草履で固めた亀寿が、すたすたと歩み出てきた。 その健康的な小麦色の頬には、白粉の代わりに秋の陽光が眩しく照り返している。
「常安、良いのです。わらわは、ただの物見遊山に行くのではありませぬ」
胸を張り、八歳とは思えぬ凛とした眉を上げて、亀寿は言い放った。
「又八郎様は、もうすぐ博多の恐ろしい商談へ出立されます。その前に、将来の夫が心血を注いで拓いたという『獅子目の茶畑』を、妻として直に見分せねばならぬのです」
「つ、妻として……!? 亀寿様、まだお輿入れ前のお身の上で、そのような……!」
頭を抱えて卒倒しかける常安をよそに、亀寿は廊下の崇清を見つけるやいなや、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。 そして当然のような顔をして、崇清の右腕に小さな両手を回し、ぎゅっと抱きついてくる。
「ま、待て亀寿、離れろ! 腕を引っ張るな、歩きにくい!」
「離しませぬ! 妻が夫に寄り添って歩くのは当然にございます!」
「都の草紙の真似をするな! ……常安殿、くれぐれも言っておきますが、俺が唆したわけじゃないですからね!?」
廊下の端で扇子を握り締め、わなわなと震えている常安に弁明するが、刺すような視線が返ってくるだけだった。 結局、この押し問答は、 『内城沖の前之浜から船で錦江湾を渡り、高須湊から大姶良川沿いに馬を走らせて、獅子目に一泊して戻る』 という条件で妥協が成立した。 日帰りは物理的に不可能な距離であるため、常安は断腸の思いで、亀寿付きの若手侍女・しの(二十歳前後の生真面目な女中)を目付兼身の回り世話としてぴったり同行させることを絶対の条件としたのである。
秋の穏やかな錦江湾を高須水軍の船で突っ切り、昼過ぎに大隅の高須湊へ上陸。 そこから大姶良川沿いの街道を、亀寿を鞍の前に乗せて馬を進めること数刻。 夕暮れの陽光が、シラスの断崖に囲まれた獅子目のすり鉢状の谷を黄金色に染め上げていた。
「……すごい」
馬の上で、亀寿がぽつりと呟いた。 見渡す限りの斜面に、幾重にも等高線を描くように丁寧に組まれた石垣。そこに青々とした茶の木が、まるで緑の波のように整然と畝を連ねている。
「これ、ぜんぶ又八郎様のお茶畑なの……?」
いつもの澄ました口調を忘れ、まん丸に見開いた黒い瞳で谷を見渡す亀寿に、崇清は手綱を緩めて笑った。
「ああ。日向や知覧の茶も良いが、この獅子目の谷は朝夕に深い霧が立ち込める。シラスの土壌は水はけが良すぎて作物が育ちにくいが、茶の木にはむしろそれが合うんだ」
「あっ、又八郎様、あそこ! 藁のお屋根がかけてある!」
亀寿が鞍の前から身を乗り出し、斜面の一角を指差した。
「あれは『かぶせ茶』の棚だ。新芽が出る前に日光を遮ってやると、渋みが減って甘みがぎゅっと濃くなるんだよ」
「あまくなるの?」
「そうだ。都の公家どもや堺の商人どもに、高値で売りつけるための秘密兵器さ」
崇清がいつもの調子で原価と利幅の解説を始めかけると、亀寿は馬の上でくるりと振り返り、崇清の胸元に小さな手を添えた。
「……又八郎様は、いつも『銭を稼ぐ』って言うけれど、わらわには分かります」
幼い甘えの抜けた、一点の曇りもない真剣な瞳が崇清を射抜く。
「この緑の段々は、ただの銭ではありませぬ。殿がこの痩せた土地で、民や武士たちが飢えぬようにと、泥にまみれて築かれた……誇らしいお城にございます」
胸を突かれ、崇清は息を呑んだ。 前世でも現世でも、自分は「数字と効率」と「リスク回避」ばかりを優先して動いてきたつもりだった。誰かに感謝されたくてやったわけでも、英雄になりたくて開墾したわけでもない。 それを、この八歳の少女は、いとも容易く本質を掬い上げて肯定してくる。
亀寿は誇らしげに小さく胸を張ると、背伸びをして、崇清の胸元の乱れを小さな手で一生懸命に整え始めた。
「妻たるもの、夫の成し遂げたお仕事を誰よりも正しく誇らねばなりませぬ! 博多の町へ行かれても、決してこの獅子目の誇りを忘れてはなりませぬぞ」
「お、おう……そうだな。襟元を引っ張るな、苦しい」
「動いちゃだめ! 殿のお召し物を整えるのは、妻のお役目なんだから!」
甲斐甲斐しく世話を焼き、小さな手でトントンと胸元を叩いてドヤ顔を決める亀寿。 「妻」を気取ろうとするあまり、語尾がすっかり子供の我儘に戻ってしまっている。そのあまりの健気さと微笑ましい背伸びに、崇清の口元からふっと苦笑が漏れた。 完全拒絶など、できるはずもなかった。
「……分かったよ。博多へ行っても無茶はしない。ちゃんとこの畑の茶葉も持って行って、向こうの商人どもに飲ませてやる」
「うん! ……あ、それと又八郎様!」
亀寿は鞍から身を乗り出し、道端の瑞々しい茶の葉を一枚摘み取ると、崇清の手のひらに押し付けた。
「今夜は、この葉でわらわにお茶を淹れてくださいますね? ……二人きりで!」
「二人きりは絶対に駄目だ。侍女のしの殿も一緒に飲むぞ」
「むうーっ! 又八郎様のケチ!」
不満そうに頬を膨らませる亀寿の頭を、崇清はぽんと軽く小突いた。
――そして、その夜。 獅子目の総会所の奥座敷に崇清の部屋に崇清の布団、客間に亀寿の布団が敷かれた。 茶を飲み終え、湯浴みを済ませた崇清が「ふう」と息をついて自分の布団に入ろうとした、その時である。
パタパタパタ、と廊下を走る軽い足音が響いた。 寝間着姿の亀寿が、小さな枕を両手でしっかりと抱え込み、当然のような顔をして崇清の布団へ潜り込もうと突進してきたのだ。
「わらわは又八郎様の妻ですから! 妻が夫の床を温め、寄り添って寝るのは当然の務めにございます!」
「ちょ、待て待て待て亀寿!?」
崇清の脳内で前世の倫理観とコンプラの警報機がけたたましく鳴り響き、顔面が蒼白になった。 いくらこの時代が許嫁同士のスキンシップに寛容とはいえ、八歳の姪と同衾するなど、前世の道徳が許すはずもない。
「離せ、潜り込むな! お前の布団はあっちだ!」
「嫌です! 都の草紙には『夜毎に枕を並べるが契り』って書いてあったもん! わらわは妻の役目を果たすの!」
「都合のいい時だけ都の草紙を持ち出すな!」
必死に布団の端を引っ張り合う崇清と亀寿。 その修羅場の襖が、スーッと音もなく開いた。 そこに仁王立ちしていたのは、侍女のしのであった。
「……亀寿様」
「ひゃっ」
常安譲りの冷徹で静かな声が降ってきて、亀寿の動きがピタリと止まる。
「常安様より、厳しく言いつかっております。『姫様が崇清様のご迷惑になるような我儘を申されたら、容赦なく引き離せ』と」
「わ、我儘ではありませぬ! 妻の務めを……!」
「お輿入れ前のお身の上で同衾など、島津宗家の姫としての型に反します。……さあ、あちらの寝所へ参りましょう」
「や、やだーっ! 又八郎様の隣がいいーっ!」
じたばたと足をバタつかせる亀寿の脇を、しのは見事な手際でひょいと抱え上げた。
「崇清様、お騒がせいたしました。ごゆっくりお休みくださいませ」
「あ、はい……助かりました、しの殿……」
崇清は畳に手をつき、心底からホッとした長いため息を吐き出した。 (常安殿……! 堅物だの何だのと思ってて本当にすまなかった! あなたの教育方針が、今夜俺の命と前世の尊厳を救ってくれたよ……!)
襖の向こうから、「又八郎様のいじわるーっ!」という亀寿の悔しそうな声と、それを宥めるしのの小言が聞こえてくる。 崇清は苦笑しながら行灯の灯りを吹き消し、布団の中へと潜り込んだ。 背伸びした幼い「妻」の温もりと騒がしさに振り回されつつも、博多へ向けた張り詰めた神経が、不思議と柔らかく解きほぐされていくのを感じながら。
本作をお読みいただきありがとうございます!
作中で八歳の亀寿が「妻の務め!」と背伸びしまくって崇清を大慌てさせていますが、少しだけ当時の時代背景について補足を。
現代の感覚から見ると「八歳で妻気取り!?」と驚かれるかもしれません。
しかし、戦国大名の姫君にとって、家が決めた相手へ嫁ぎ、将来は男子を産んで家督を繋ぐというのは、単に大人から押しつけられる義務ではありませんでした。物心がつく頃から受ける教育を通じて、本人にとっても当然の前提となっていくのです。また年のかなり離れた武将と幼い頃から結婚が決められていることも別に珍しいというほどでも無かったわけです。
私たちが人権や自由を当たり前の前提として考えるように、亀寿にとっても「家のために生きること」は、疑うことを知らないほど深く内面化された規範であるのです。
亀寿にとって「又八郎様の妻になる」ことは、おままごとではなく、叩き込まれた誇りそのものなんですね。また亀寿からすれば「よく知ってて理解してくれる叔父さん」のところに嫁ぐのは「顔も知らないもしかしたらかなりのおっさん」に嫁ぐ可能性も普通にあることを考えるととてもいい話でもあると感じるでしょう。
だからこそ、幼少期の亀寿に手を出す気など毛頭ないのに、前世の倫理観とコンプラ意識のせいで一人勝手に「事案発生!?」と青ざめている崇清の空回りが引き立つわけですが……(笑)。
もちろん、亀寿がどれほど妻の務めを主張しようとも、崇清にそのつもりはありません。侍女のしのがきっちり物理的に引き剥がし、常安の宗家ガードも万全。亀寿には、まず自分の布団でお休みいただきましょう。
大人の政治を前に、ちょっとした日常の獅子目茶畑回でした。
次回はいよいよ、北九州の経済を巡る緊迫の商談へ向かいます!




