第109話 奥向きの茶会と健やかなる瞳
「……胃が痛い。本当に胃が破ける」
天正五年、初秋。 鹿児島城(内城)の奥書院から北の丸へと続く渡り廊下を歩きながら、島津崇清は人知れず自らの下腹部を右手で押さえ、深く長い吐息を吐き出した。 背後を歩く蒲生清忠(弥三郎)が、冷ややかな視線を崇清の背中に刺す。
「若、歩きながら呻くのはおやめください。奥向きの女中どもに見咎められたら、『蒲生の若君は腹を下して立ち居も覚束ぬ』と妙な風聞が立ちますよ」 「風聞ならとっくに立っとるわ! 兄上たち……特に歳久兄上があちこちで面白おかしく吹聴しておられるに決まっている!」
先刻、大広間の奥書院で交わされた二段構えの縁談が、いまだ崇清の脳内で警報を鳴らし続けていた。 近衛前久からの猶子降嫁は、朝廷防壁の資本提携として割り切れる。 問題は、島津の家長たる長兄・義久が、真顔で言い放ったあの一言だ。
『亀寿が、大きくなったら又八郎叔父様のお嫁御寮になると申しておる。十五になったら側室に迎えよ』 『そして亀寿が産んだ男子を儂の養子として迎え、島津宗家の次代当主とする。これぞ島津百年の計よ』
(正室が近衛、側室が本家の実娘……。正室腹の子が蒲生島津を継ぎ、側室腹の子が宗家を継ぐ……!? 俺が未来の宗家当主の実父になるってことじゃねえか!!)
どれほど社外取締役として泥を被り、権力の中枢から身を引こうと立ち回ってきたか。その首輪を、義久は「我が子の血を引く次代」という絶対の重石で内側から溶接し直してきたのだ。 あまりの政略の重圧に悶絶する崇清の手には、飯隈の厨房から持参させた竹筒入りの木箱がぶら下がっていた。 北の丸奥向き――母・楠御前への機嫌伺いにかこつけて、政務の毒気を抜くための避難所である。
「……ほら、若。着きましたよ。御前がお待ちです」
弥三郎に促され、崇清は小さく息を整えて、北の丸の格式高い塗りの引き戸をくぐった。
◆
北の丸の奥御殿は、かつて隙間風と湿気に苛まれていた極貧のあばら家ではない。 元服を経て「蒲生島津家」が興り、崇清が三州総奉行として巨額の流通と兵站を差配するようになって以来、母の住まうこの屋敷もまた、相応の格式と静謐さを整えられていた。
かつては「又八の母」あるいは「蒲生」と陰口を叩かれ、蔑まれていた母・千鶴も、いまや島津の家中において誰もが敬意を込めて「楠御前」と呼ぶ。 廊下を行き交う女中たちの数も、十数名に増えていた。滅び去った蒲生旧臣の娘や、飯隈・獅子目の地侍の息女たちを行儀見習いとして引き受け、奥向きの所作や針仕事、帳合いを教えているのだ。
その十数名の女中たちを束ねる幹部として、上座の脇に控えているのは、かつて竈の灰を篩い、冷水で手を腫らしながら極貧の日陰時代を耐え抜いた三人の古参であった。 筆頭侍女長となった岩崎(志保)、そしてその下で各部屋を取り仕切る中堅幹部となった、まつ、ちよである。
「若君、よくぞお越しくださいました」 岩崎が年の功を感じさせる落ち着いた礼法で迎える。 その背後、上段の座敷には、三十代半ばを迎えてなお透き通るような白肌と凛とした気品をたたえた母・楠御前が、穏やかな笑みを浮かべて座していた。
「崇清、息災な顔を見せてくれて何よりです。……八代の相良のことも、よう無事に収めてくれましたね」 「母上もご息災そうで安心いたしました。今日は飯隈で新しく試作させた冷たい菓子を持ってまいりましたゆえ、皆様でお召し上がりいただこうかと」
崇清が合図すると、弥三郎が持参した漆塗りの木箱を開けた。 中には、冷たい井戸水で極限まで冷やされた孟宗竹の筒が並んでいる。 竹の蓋を外すと、乳白色の「かるかん」と、卵と牛乳に砂糖を合わせ、葛粉で滑らかに固めた黄金色の冷菓――即ち、即席の和風カスタードが顔を覗かせた。
「まあ……甘く、香ばしい匂い。奥の若い者たちも喜びます」
楠御前が目を細めた、その時であった。 次の間へと続く唐紙の隙間から、ぽつりと小さな影が滑り込んできたのは。
「……叔父様」
義久の愛娘、八歳の亀寿であった。 内城本丸から楠御前を慕って北の丸へ遊びに来ていたらしい。 だが、いつもならば「又八郎叔父様!」と小走りで駆け寄ってくるはずの少女が、今日は床に視線を落とし、所在なげに俯いている。 その顔を見て、崇清はぎょっとして眉を跳ね上げた。
亀寿の額から頬にかけて、不自然に白く、分厚い粉が塗りたくられていたのだ。 塗り方が粗いのか、汗でところどころ浮き上がり、八歳の活発な少女の健康的な生気を無残に塗り潰している。
「亀寿様、どうなされたのですか、そのお顔は……?」
崇清が腰を落として目線を合わせると、亀寿は唇をぎゅっと噛みしめ、泣き出しそうな瞳を伏せた。 その背後から、亀寿の身の回りの世話役として本丸から同行してきた初老の女官が、いかにも謹厳実直といった顔つきで進み出て平伏した。
「崇清様、お見苦しいところをお見せいたしました。……亀寿様はもうすぐ九つにおなりでございます。いつまでも御坪や庭先を猿のように駆け回っては、島津宗家の御息女としての外聞が立ちませぬ」 「外聞……?」 「左様でございます。日向を走り回って肌を真っ黒に焼き、骨が浮くほど痩せこけていては、将来、然るべき家へお輿入れする際に笑いものになります。今日からは日陰の奥座敷にて行儀見習いをさせ、白粉を引いて肌を整えるよう、本丸の女中たちで言い聞かせていたところでございます」
女官の言葉に、亀寿はきゅっと肩をすくめ、小さく縮こまった。 座敷の隅で控えていた岩崎やまつの眉がピクリと動いたが、本丸(義久の直属)の女官の教育方針とあっては、口を挟むわけにもいかず、困惑したように楠御前と顔を見合わせている。
(……鉛白粉じゃねえか、それ……!)
崇清は内心で強烈な舌打ちを打った。 大人であっても長年使い続ければ鉛中毒を引き起こし、皮膚を侵し、脳神経を蝕む猛毒だ。それを、新陳代謝が激しく皮膚の薄い八歳の子供の顔に塗りたくるなど、現場管理と衛生の視点から見れば狂気の沙汰であった。
「……そなた」 崇清は低く静かな、だが一切の反論を許さぬ声音で本丸の女官を見据えた。 「その白粉、今すぐすべて洗い落とさせなさい。都の白粉には鉛の毒が含まれている。育ち盛りの子供の肌に塗れば、毒が毛穴から体に回り、腹痛を起こして骨の伸びを止める。百害あって一利もない」
だが、謹厳実直を絵に描いたような本丸の女官は、容易に引き下がらなかった。
「滅相もございませぬ! 都の公家衆も武家の姫君も、皆こうして白粉を塗り、色白に繕って輿入れするのが古来の習わし! 肌黒く痩せこけたままでは、島津の恥、嫁の貰い手すらつきませぬ!」
頑なに前例と形式を盾にする女官に、崇清の眉間がピキリと引き攣った。 (……あー、めんどくせえ!!) 現場で一番厄介なのは、安全基準や科学的根拠をいくら説明しても「昔からこうしてきた」と前例にしがみつく頭の固い連中だ。ここで中世の衛生論など講釈垂れたところで、押し問答で時間を浪費するだけである。
(最短工数で黙らせるには……そういえば、さっき義久兄上が何て言ってたっけ?)
崇清の脳裏に、先刻の奥書院でのCEOの真顔宣告が閃いた。 使える権威は全部使う。実務家の冷徹なショートカット機能が発動した。
「――嫁の貰い手なら、とっくに決まっている」
崇清は億劫そうに息を吐き捨てると、女官を冷たく見下ろした。
「亀寿姫を将来娶るのは私だと、義久公から直々に仰せつかっている。……将来の夫である私が、日焼けもそのままでよい、白粉など塗るなと言っているのだ。夫がしなくてよいと言っているものを、外野のそなたらがなぜ無理強いする?」
「へ……? あ、又八郎様が……?」 「義久公直々の約定だ。不服なら本丸の兄上に直接掛け合ってこい。……岩崎、手拭いを持ってこい」 「は、ははっ!」
岩崎が素早く白湯で絞った清潔な手拭いを差し出す。 「義久公直々の約定」という天下無敵の印籠を叩きつけられた女官は、もはや顔を真っ青にして平伏し、一言も返せなくなった。
崇清にとってみれば、厄介な女官を一発で黙らせ、科学的に危険な鉛毒をやめさせるための「実務上の方便(手っ取り早い業務改善)」にすぎなかった。
だが――。
その言葉を真横で聞いた亀寿の胸には、天変地異のような衝撃が走っていた。
(……又八郎叔父様が……わらわの、夫……?)
生まれてこの方、奥向きで「肌が黒い」「痩せすぎだ」「こんな姿では誰からも愛されない」と責め立てられ、息苦しい白粉の下で自己否定に押し潰されかけていた八歳の少女にとって、それはすべての呪縛を粉々に砕く、神の宣告にも等しい言葉だった。
崇清は亀寿の前に膝をつくと、手拭いでその頬を優しく拭い始めた。
「……ほら、取れた」 崇清は手拭いを置き、亀寿の頭を大きな掌でくしゃりと撫でた。
「良いですか、亀寿様。元気に日向を走り回って、よく食べ、陽に焼けて引き締まっているのが、人が一番丈夫で健やかに生きられる証拠です。無理に太る必要も、無理に肌を白く繕う必要も全くありません。……目も大きくて、利発で、とても良いお顔立ちですよ」
現れたのは、南国の太陽を浴びた健康的な小麦色の素肌と、大粒の涙をいっぱいに溜めた、黒々と輝く大きな瞳だった。
「……ほんとうに?」
震える声で尋ねる亀寿に、崇清は優しく笑いかけた。
「嘘などつきません。現場を預かる者が一番信じるのは、帳簿の数字と、そこに生きる者の健康です。病弱な白肌などより、太陽の下で笑っているお顔の方が、百倍も美しく尊い」
崇清は冷たい竹筒と匙を亀寿の手に握らせてやった。 「ほら、冷たいうちに食べなさい。飯隈で作らせた甘い菓子です。これを食べて、また明日から元気に走り回りなさい」
黄金色のカスタードを口に運んだ亀寿の口内に、冷たい甘みと卵のコクが優しく広がっていく。
(このお方は……わらわのありのままを、世界でただ一人、認めてくださった……)
女官たちの冷たい嘲笑から庇い、父・義久の権威をも恐れずに「私の妻だ」と言い切り、白粉の檻から連れ出してくれた。 幼い胸の奥底で、カチリと何かが嵌まる音がした。 それは単なる子供の懐きでも、他愛のない初恋ですらない。 ――生涯、このお方を愛し抜く。 このお方のために命を捧げ、このお方の子を産み、このお方の隣で生き、そして死ぬのだという、鋼よりも硬い絶対の誓いが、八歳の少女の魂に深く深く刻み込まれた瞬間であった。それは確かに幼いまだ深い考えのないものかもしれないが…しかし幼い頃だけに魂の根本に刻まれた自分への誓いだった。
「……おいしい! あまくて、つめたくて、すごくおいしい……!」 涙を拭った亀寿は、竹筒を抱えたまま、全身で崇清の胸へと飛びついた。
「わらわは、又八郎叔父様が一番すき! 一生、叔父様についてまいります!!」
「お、おい亀寿様、危ないって! 菓子がこぼれる!」
胸元に飛び込んできた小さな温もりを慌てて受け止めながら、崇清は苦笑した。 (まあ……とりあえず、女官どもは黙ったし、元気も出たみたいだな。これで良し、と)
自分が実務の都合で放った一言が、少女の心にとんでもない劇薬と絶対の愛着を植え付けたことなど、この希代の現場屋は露ほども気付いていなかった。 その背後で、弥三郎が「うわあ……」と言わんばかりの死んだ魚のような目で崇清を見つめ、楠御前だけがすべてを察したように、袖口で口元を隠して静かに微笑んでいた。
ヒロイン…にしては幼いですが初ヒロイン登場です。前回のあとがきでも書きましたが亀寿という人は本当に不憫な人だったのでなんとかこの作品で位は幸せになってほしいとこういうかたちで登場しました。崇清と同年代が作者としては都合よかったのですが…そもそものこの話の大元思いついた時に始まりが耳川でそこまでにある程度成長してる、ということで崇清の設定考えて書き始めてから亀寿のことは思いついて調べたら結構年下で…こうなりました。




