第108話 白き縁談と重すぎる果実
天正五年(一五七七年)初秋。
球磨・八代二万石の相良主従を南薩・知覧一万二千石へと移封させ、不知火海から坊津に至る西海岸の航路を島津の物流網へと組み込む手続きを終えた崇清は、内城(鹿児島城)の奥書院へ登城していた。
奥書院に敷かれた青畳の清々しい井草の匂いが、連日の泥臭い現場視察と船上生活で疲弊した崇清の鼻腔をくすぐる。
「……以上が、相良家の知覧着任に伴う知行割、ならびに球磨山林の直轄管理の手続きにございます。球磨川の難所開削も冬の渇水期に着工の目処が立ちました」
崇清が丁重に平伏し、書き上げたばかりの分厚い決算台帳を差し出す。 上座には、島津宗家十四代当主・島津義久。その脇には、都とのパイプを差配する知謀の同盟者・島津歳久が座していた。
義久は盆の上の台帳を手に取ると、親指でパラパラと紙背を弾き、低く頷いた。
「相良義陽が、これほど大人しく刀を収めて知覧へ移るとはな。一兵も損ぜず、矢一筋射かけず、球磨の山林と八代の要衝を手に入れた。……見事な手際野郎よ、崇清」 「ありがたき仕合わせにございます。これも兄上方の武威と、八代に入っていただいた新納殿の睨みがあってこそにございますれば」
崇清は静かに頭を下げ、胸の内でそっと安堵の息を吐き出した。 (よし……。これで肥後南部の火種は綺麗に片付いた。阿蘇とは神道と流通でガチガチの不可侵を結び、相良は知覧で茶の苗床を耕している。俺の役目は終わった。あとは飯隈に引っ込んで、冬に向けて焼酎の蒸留歩留まり改善と、船大工どもと船体の燻煙乾燥の続きを――)
現場の日常業務へと思いを馳せ、肩の力を抜きかけた、その刹那。
「――して、崇清」
扇子をパチンと心地よい音で鳴らし、歳久が涼やかな双眸を細めた。
「八代の手仕舞いがついたところで、都から届いた慶事の話をせねばなるまいな」
「……都、でございますか?」
歳久が袂から取り出したのは、綸子で包まれた蒔絵の文箱であった。 蓋を開け、そこに収められていた直筆の書状を崇清の前に滑らせる。 筆跡は流麗にして力強い。前関白・近衛前久の筆であった。
「近衛の御屋形様から直々の御内書よ。『烏丸サロンの成功と若一王子社の正一位昇叙、実に見事であった。つきましては、我が近衛の猶子の姫を、島津崇清の正室として降嫁させたい。一日も早く薩摩へ輿入れさせよ』……とのことじゃ」
崇清は無言で書状の墨跡を見つめた。
(近衛前久の、猶子……)
前久の狙いは分かりやすかった。烏丸サロンが莫大な利益を叩き出し、さらに若一王子の正一位獲得によって蒲生島津が朝廷との太いパイプを確立したのを見て、素早く自家の取り分と出資枠を確実に押さえにきたのだ。 だが、それは崇清にとっても悪くない話だった。
「……まことに勿体なきお話にございます」 崇清は平静を装いながら、頭の中で瞬時に算盤を弾いた。 「前久公にしてみれば、利権枠の確保と手頃な投資。こちらにしてみても、五摂家の血を引く姫を正室に迎えることで、中央の公家社会や織田信長に対する不可侵の看板となる。損得の勘定さえ合えば、御しやすい相手です。……謹んでお受けいたします」
「話が早くて助かるわ」 歳久が満足げに頷いた。 「都で爪弾きにされておった、いささか薄幸な姫君と聞いておるがな。身元の確かな公家の血筋であることに変わりはない。蒲生島津の正室として、これ以上の箔付けはなかろう」
(よし。これで近衛との関係は完全に固定化できる。朝廷との交渉窓口として、妻には京都との文通や贈答品の手配を仕切ってもらえば、実務上の分業も成立する)
ふう、と崇清が退室の礼を取ろうとした、その時であった。
「待て、崇清」
それまで沈黙を保ち、静かに冷茶を啜っていた当主・義久が、重々しく口を開いた。 その声音には一切の温度がなく、数万の軍勢の生殺与奪を握る冷徹な家長のそれであった。
「近衛からの降嫁は、外向けの看板として結構なことよ。……だが、儂が今日そなたを呼んだ本題は、そちらではない」
「は……? 本題、とは……?」
義久は膝の上に置いた両手を組むと、微塵の揺らぎもない目で、崇清の胸元を刺し貫いた。
「亀寿のことよ」
「亀寿様……?」
八歳になる義久の愛娘の名が出たことに、崇清の眉が不審に動いた。 内城の庭先で、飯隈から持ってきた冷たい水飴やかるかんを口いっぱいに頬張り、「又八郎叔父様、あまくておいしい!」と無邪気に破顔していた、あの元気な姪の顔が脳裏を掠める。
義久は眉一つ動かさず、平然と言い放った。
「亀寿が『大きくなったら又八郎叔父様のお嫁御寮になる』と、奥で聞き分けぬ」
「……は?」 間の抜けた声が喉から漏れた。
「叔父様以外のところには絶対に輿入れせぬ、とな。……儂は戯れ言を申しておるのではない。亀寿が十五になった折、其方の側室として迎えよ」
「ちょ、お待ちください兄上! 亀寿様はまだ八つですぞ!? 子供の他愛ない戯れ言を真に受けて側室などと――」
「戯れ言ではない」
義久の短い一言が、崇清の抗弁を叩き折った。 低く、深く、絶対の重みを持つ声音が奥書院の空気を冷え切らせる。
「儂には、男子がおらん」
息が止まりそうになるほどの圧力が、畳を伝って崇清の胸を圧迫した。
「この先、儂に男児が生まれぬ場合、跡目を巡って家中が割れる。……ゆえに、亀寿を其方に娶らせる。そして亀寿が産んだ男子を儂の養子として迎え、宗家の次代当主とする。――これぞ、島津百年の計よ」
瞬間――崇清の視界の端が、チカリと白く明滅した。
ドクン、と心臓が異様な早鐘を打つ。 胸の奥がキュッと締め付けられ、冷たい脂汗が襟首を伝って背中へと滑り落ちた。前世の深夜、事務所のパイプ椅子の上で、終わりなき工期短縮と責任の押し付け合いに追い詰められ、呼吸が浅くなっていったあの過労死直前の嫌な重圧が、胃の腑の底から一気にせり上がってくる。
(正室が近衛の猶子……側室が本家当主の実娘……!?) (正室腹の子が蒲生島津を継ぎ、側室腹の子が島津宗家を継ぐ……!?) (おい待てよ、それってつまり……!!)
「お、俺が……未来の島津宗家当主の、『実父』になるってことじゃねえか!!」
耐えきれなくなった崇清は、悲鳴のような絶叫を上げると同時に、激痛を覚えた下腹部を両手で強く抱え込み、畳の上で腰を折って悶絶した。
胃の壁がギリギリと雑巾のように絞られる。 これまで崇清がどれほど血反吐を吐きながら、「俺はただの裏方です」「本家の家督争いには一切興味ありません」「港と兵站の管理だけやらせてください」と全力でアピールし、本家の権力中枢から距離を置いてきたか。 その首輪を、義久は外すどころか、「我が娘の婿」「次代当主の生みの親」という、逃げ場のない超弩級の楔で内側から溶接し直してきたのだ。
「ぶっ……! くくっ……あーっはっはっは!!」
沈黙に耐えかねた歳久が、扇子を取り落として膝を叩き、腹を抱えて大爆笑を始めた。
「見事じゃ、兄上! 崇清の奴、どれほど逃げ回ろうとも、これで島津宗家の軛から一生逃れられぬわ! いやはや、実父とはな! これ以上の首輪はあるまい!」
「笑い事じゃありません歳久兄上!! 勘弁してください義久兄上、俺の胃に穴が空きます! 死んだら売上ゼロなんですよ!!」
過呼吸気味に喚きながら、崇清は脂汗にまみれた額を畳に擦り付けた。
「売上など知らぬ。家を継がせるのが先決よ」 義久は何食わぬ顔で冷めかけた茶を啜り、事も無げに頷いた。 「亀寿には、父から話をつけておく。輿入れまではまだ七年ある。せいぜい、良き夫となれるよう励むが良い」
「七年あっても足りませんよぉぉぉッ……!」
のたうち回る崇清の呻き声が奥書院に木霊し、歳久の乾いた笑い声がどこまでも高く響き渡っていた。
この作品にほぼいなかった女性キャラ……と言うには幼い亀寿ちゃん。史実では島津忠恒の妻となりますが不仲でしかも忠恒は戦国4大DQNとも言われる人で……かなり不憫な人生を送った人です。この話では少しはいい人生送ってほしいな、と。
当初、崇清の幼名をそんなに深く考えず義久が又三郎、義弘が又四郎、歳久が又六郎、家久か又七郎だから又八郎と決めて別に最初は亀寿との結婚の設定も無かったのですが……亀寿が史実で結婚した忠恒の幼名も又八郎らしいんですよ……(幼名まで知らなかった)ちょっと偶然ですけど出来すぎてるな、と思いましたw
あ、蒼溟の世界では忠恒は又九郎、ということにします。




