【第7話】青き畝波とでっち上げの文人茶
天正五年(1577年)九月。
鹿児島・内城での熾烈を極めた勘定所評定を終え、伊集院忠棟から「宗家本蔵の先行投資枠・五千石」を勝ち取った崇清は、錦江湾を渡り、夕暮れの飯隈総会所へと帰還していた。
秋風が、姶良川の支流に架かる素朴な木橋、飯隈下橋を吹き抜けていく。屋敷の板敷きには、南薩摩の個別面談を終えて持ち帰ったばかりの、分厚い三十八家の所領台帳が整然と積まれていた。
庭先に面した縁側には、茜色の夕日が長く影を落としていた。その縁側の端に腰を下ろし、手斧の刃を砥石で静かに研いでいた老武士・甚兵衛が、足音に気づいて顔を上げた。
「……戻られたか、若君」
「ああ、ただいま戻ったよ、甚兵衛」
崇清は帯を解き、肩の凝りをほぐすように首を回しながら、甚兵衛の隣へと腰を下ろした。
「知覧と頴娃の下交渉、無事に終わった。内城の忠棟も、最後は十露盤を弾いて納得してくれたよ」
「聞きもうした。弥三郎がさっきから胃に穴が開きかけたが、なんとか首が繋がったと、奥で横になっております」
甚兵衛は短く鼻を鳴らした。その顔に走る古い太刀傷が、夕暮れの陰影に深く刻まれている。
「……して、知覧の様子はどうでした?丹後守殿のところには寄られたか」
「寄ったさ」
崇清は目を細め、西の空を見上げた。開聞岳の向こうに沈みゆく夕日の光景を、脳裏に思い描く。
「見事なものだったよ、甚兵衛。天正二年の秋に苗木を配ってから丸三年。後岳の山肌も、知覧の武家屋敷の境も、青々とした茶の木が人の腰の高さまでびっしりと茂り、幾筋もの美しい畝波になっていた。谷から吹き上げる霧を吸って、畑全体が青黒く光っていたよ」
「そうか」
甚兵衛は研ぎ終えた手斧を布で拭い、静かに呟いた。
「……三年前、与兵衛が馬に苗木を括り付け、山川湊へ運んでいった日のことを思い出しますな。あの時、与兵衛はなぜ他所の者に大事な技を教えるのかと首を傾げておりましたが」
「今じゃ、山川湊の茶市場を支える立派な産地だ」
崇清は微笑んだ。
「あの青い畝波が南薩の風景になったからこそ、今度、人吉から移ってくる相良義陽殿と家臣団三千人に、胸を張ってここが貴殿らの新しい領地だと引き渡せまする。山奥の球磨を追われて傷心でやってくる侍たちも、あの豊かな緑の茶畑を見れば、飢える心配がないと安堵してくれるはずです」
土地に根ざした産業が、人の暮らしを支え、やがて巨大な歴史のうねりを受け止める器になる。崇清が元亀三年の木崎原直後から仕掛けてきた時間の手間が、いま、完璧な形で政治の舞台装置として噛み合っていた。
「……さて」
崇清は立ち上がり、勝手場から小さな木箱を抱えて戻ってきた。
「甚兵衛、少し付き合ってくれ」
「なにをです?若君」
木箱の中から取り出されたのは、火鉢と鉄瓶、そして見慣れぬ形の焼き物だった。肥前・唐津の窯で特注させたという、把手が横に突き出た素朴な土器、急須。そして、手のひらに収まるほど小さな、純白の磁器の杯が二つ。
「茶の湯の茶筅も、大きな天目茶碗もないですな。……どうやって飲むので?」
甚兵衛が訝しげに覗き込む。
「こうやるのさ」
崇清は桐箱の蓋を開けた。中に収められていたのは、獅子目の工房で春に収穫され、筵の影の下で丹念に育てられた極上のかぶせ茶であった。黒漆のように艶やかに光り、針のように細く撚じれた、深い青緑の葉。
崇清は茶葉を茶匙で掬い急須の中へ落とし、一度湯冷ましで冷ました湯を、静かに注ぎ入れた。蓋をして、待つこと数十秒。急須を傾けると、細い注ぎ口から、黄金色を帯びた澄み切った緑の露が、トトトと澄んだ音を立てて白磁の杯へと満たされていった。
立ち上ったのは、青草の匂いではない。青海苔と若葉の甘みが溶け合った、独特の清らかな覆い香。
「……飲んでみてくれ」
差し出された小さな杯を、甚兵衛は節くれだった太い指先でそっと摘み上げた。杯を口元へ運び、息を吹きかけ、一筋の露を舌の上へと滑り込ませる。
「……ッ」
老武士の眉間の太刀傷が、ピクリと跳ね上がった。
渋みがない。舌を刺す苦みも、胃を締め上げるえぐ味も皆無だった。口内に広がったのは、かつて天正三年の春に味わったあの衝撃そのままの、昆布と干し椎茸の出汁を極限まで煮詰めたかのような、濃厚で純粋な旨味であった。
喉を滑り落ちる瞬間、じんわりとした温もりが胸の奥へ沁み渡り、飲み干した後も、舌の根元から尽きることのない芳醇な余韻が湧き上がってくる。
「……相変わらず、出汁のような味ですな」
甚兵衛は空になった杯を見つめ、不満そうに太い眉を寄せてみせた。
「味は文句なしに美味いですが……若君、この杯は小さすぎやしませんか?。ちびちび啜っても、武士の喉の渇きは癒えませぬ。もっとデカい素焼きの椀で、湯水のようにがぶ飲みできませぬのか?」
「がぶ飲みするもんじゃないんだよ、爺さん」
崇清は苦笑しながら、自分の杯を掲げてみせた。
「これは喉を潤す水じゃなくて、舌と頭を休ませるための薬みたいなもんだ。一滴ずつ味を噛み締めるんだよ」
「へっ、気取った真似は性に合わんですよ」
甚兵衛はそう毒づきながらも、満足そうに喉の奥を鳴らした。
「ですが、若君。……あの五歳の時のサボンの時は、儂が勝手に城下の商人に売りさばいたせいで、弥三郎に打ち首フィニッシュじゃあと散々怒鳴られましたが。今度の茶は、内城の本丸に怒られるどころか、本蔵から銭を引き出し、南蛮人から硝石と鉛をごっそり奪い取った。……ガハハ!
大した出世じゃ!」
「あの時は本当に肝が冷えたんだからな。二度と勝手に売り歩くなよ」
崇清も肩をすくめて笑った。
「……さて、甚兵衛。この獅子目のかぶせ茶だがね」
崇清は急須の蓋を軽く指先で叩き、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「いずれ大友の件が片付き、九州が落ち着いた頃、この茶と、この急須を引っ提げて、もう一度都へ上るつもりだ」
「……都へ?」
「そうだ。千利休や堺の茶人どもがやってる侘び茶は、作法が重苦しくて肩が凝るだろう?
四畳半の薄暗い小部屋で、主客が息を殺して、茶碗の正面がどうのと頭を下げ合う……武士にとっても公家にとっても、息の詰まる政治の場になりすぎている」
崇清は縁側に肘をつき、不敵に笑った。
「だから、こっちで新しい流行をでっち上げてやるのさ。机の上にこの急須と小さな杯を置き、湯冷ましした白湯を注ぎ、香り高い茶を啜りながら、書画を愛で、肩肘張らずに天下の政を語り合う……。名付けて薩摩流・文人煎茶道だ」
「ぶんにん……せんちゃ……?」
甚兵衛はぽかんと口を開けた。
「そう。南蛮と唐の最先端を取り入れた、格式張らない風流の極み、として烏丸サロンで売り出す。利休の茶の湯に気後れしている公家衆や、疲れた織田信長公の心を、この出汁のような甘露で丸ごと鷲掴みにしてやるのさ。道具も、茶葉も、すべて蒲生島津の専売にしてな」
「……くっ、かかか!」
甚兵衛は堪えきれずに吹き出し、太い膝を叩いて豪快に笑った。
「出ましたな、若君の悪い癖が!
都の公卿や天下人を相手に、またそんな出鱈目な作法をでっち上げて銭を毟り取る気とは!」
「出鱈目じゃない、文化の創造だよ」
崇清も声を立てて笑った。
笑い声が夕暮れの庭に溶けていく。空はすっかり夜の帳を下ろし、一番星が東の空に瞬いていた。知覧の生垣から始まった細い苗木は、大隅の赤土と蒲生衆の血汗に育まれ、南蛮の黒船を揺るがす紅き雫となり、南薩の景色を塗り替え、そしていずれ都の天下人を手玉に取る新たな武器へと昇華しようとしていた。
「さあ、甚兵衛。明日は早いぞ」
崇清は急須を片付け、立ち上がった。
「南薩の器は空いた。明朝、山川湊の船へ乗り込み、八代の古麓城へ向かう。相良義陽殿に、この新しい土地の目録を渡しにいかねばならないからな」
「へい。お供いたしますぞ、若君」
甚兵衛が力強く頷き、研ぎ澄まされた手斧を腰に差した。
風が吹き抜け、青い茶葉の香りを乗せて、錦江湾の彼方、明日へと続く海原へと流れていった。
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