↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
閑話集『南風の茶殻と蒲生の土』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
134/160

【第6話】南蛮カピタンと至高の赤き雫

 天正五年(1577年)夏、薩摩半島南端・山川湊。

 錦江湾の喉元に口を開くその天然の良港には、すり鉢状のカルデラ湾が碧の海水を湛え、沖合には見慣れぬ巨大な漆黒の船体が影を落としていた。

 三檣のナウ船。外洋の過酷な波浪とフナクイムシの食害を防ぐため、船体全面に黒いタールを塗り固めた南蛮の巨船、いわゆる黒船である。マカオから東シナ海を渡り、長崎へ向かう途上で補給と取引のために寄港したポルトガルの商船であった。

 港の船着場には、蒸し風呂のような熱気と、焦げたタール、魚油、そして乾いた香辛料の匂いが混じり合い、褐色の肌をした水夫たちの異国の怒号が飛び交っていた。

 その巨船の船室奥、磨き上げられたオーク材の円卓を前に、船長配下の貿易商人マノエル・ド・ソウザは深い溜息を漏らし、額の脂汗を麻布で拭っていた。

 手元の帳簿には、ゴアから運んできた生糸や蘇木、長崎で積み替える予定の白砂糖の数量が、細かなインクでびっしりと書き連ねられている。だが、彼の胸中を塞いでいるのは、帳尻の合わない利益の数字ではなかった。

「……悪魔の国だ」

 マノエルは吐き捨てるように呟き、卓上の銀の杯を睨みつけた。

 注がれているのは、船倉の樽から汲み出した井戸水だ。赤道を越え、何ヶ月もの過酷な航海を経てきた水は、すでに腐敗の兆しを見せて生ぬるく、わずかに藻の臭気を放っている。ワインの樽はとっくに底をつき、塩漬け肉ばかりを食わされた水夫たちのあいだでは、原因の分からぬ熱病で倒れる者が後を絶たない。

 先刻、山川湊の商人から極上の茶であると勧められて口にした、泡立つ緑色の泥水、あの抹茶の味を思い出すだけで、胃の腑が引き攣りそうになる。苦い。ひたすらに青臭く、泥のようで、水代わりに喉を潤すことすらできない。東洋の島国で貴族たちが熱狂しているという茶なる代物など、神の恵みを受けたキリスト教徒の胃袋には、到底馴染むはずもなかった。

 水は腐り、酒は尽き、現地の茶は泥の味。金銀を積んでマカオへ戻る航海の厳しさを思い、マノエルが重い頭痛にこめかみを押さえた、その時だった。

「――お邪魔いたしますぞ、カピタン殿」

 訛りの強いポルトガル語とともに、船室の扉が静かに開かれた。

 入ってきたのは、長崎を出入りする老獪な南蛮通事の男と、その背後に控える二人の日本人であった。一人は、高須湊の回船問屋を束ねる商人・清兵衛。そしてもう一人は、粗末な野袴の裾を泥で汚し、背中に頑丈な唐津焼の黒壺、手には湊の番屋で湯煎して温め直し、冷めぬよう布に包んだ竹筒を大切そうに提げた男、大隅の製茶小屋からやってきた猪飼新兵衛であった。

 さらに新兵衛の背後からは、護衛として無言で腕を組み、船室の梁につかえそうな巨躯で立ち塞がる男がいた。顔面に走る太刀傷を赤黒く光らせ、腰に差した手斧の柄に手をかけたまま、マノエルの一挙手一投足を獣のような眼光で睨み据えている甚兵衛である。

「……また茶か」

 マノエルは露骨に顔をしかめ、手を振って追い払おうとした。

「以前も言うたはずだ。我らが欲しいのは純度の高い銀と、本国へ持ち帰る漆器だ!

あの青臭い草の搾り汁など、一ラエスの価値もない!

すぐに引き取りたまえ」

「まあまあ、そう仰らずに」

 通事が卑屈な笑みを浮かべ、清兵衛に目配せをした。

「此度、大隅の蒲生島津家が持ち込みましたるは、貴殿らが今まで口にしてきた緑の茶とは、まるで毛色の異なる品でございます。……新兵衛、壺を開けろ」

「へい」

 新兵衛は無骨な指先で、黒壺の口を厳重に封じていた油紙と蜜蝋を小刀で削ぎ落とした。壺の蓋が外された瞬間、ポンと軽やかな音が響き、船室の淀んだ空気の中に、鮮烈な一陣の風が吹き抜けた。

「……!?」

 マノエルの鼻孔が、ピクリと跳ね上がった。

 悪臭の満ちる船室に広がったのは、腐敗臭でも青草の匂いでもなかった。天日干しにしたイチジクの甘み、あるいは、遠い地中海の港町で嗅いだ、熟れた白桃の果皮を焦がしたような、濃厚で華やかな芳香。

 壺の中から取り出されたのは、緑の葉ではなかった。黒漆のように艶やかに光り、針のように細かく撚じれた、赤褐色の縮れ葉であった。

「……これは、何だ?」

 マノエルは思わず身を乗り出した。

「これも茶だと申すのか?

だが……緑ではない。葉が、黒く焼けているではないか」

「焼いたのではございませぬ」

 清兵衛が静かに言った。

「葉が自ら持つ力で赤く熟し、炭の熱で極限まで湿気を抜き去った紅き乾き茶にございます。……新兵衛、湯を」

 新兵衛は無言のまま、持ち込んだ小振りの真鍮製鉄瓶から、グラグラと沸き立つ熱湯を、卓上に置かれた白磁のボウルへと一気に注ぎ入れた。

 ジュッと微かな音が響く。湯気とともに立ち上った香気は、先ほどよりもさらに甘く、重厚さを増してマノエルの顔面を包み込んだ。

 そして、湯の中に沈んだ茶葉から、じわりと滲み出してきた水色を見て、マノエルは息を呑んだ。

「……サンタ・マリア……」

 濁った泥水ではない。白磁の器の底を透かして揺らめいているのは、まるで上等なルビーを溶かし込んだような、深みのある、見事な赤琥珀の液体であった。

「――お味見を」

 通事に促され、マノエルは警戒しながらも杯を口元へと運んだ。

 熱い湯が唇を濡らす。一瞬、舌の縁を心地よい渋みが引き締め、その直後に、鼻の奥へ向けて干し葡萄のような甘い香気が一気に突き抜けていった。

「……!」

 美味い。先刻の日本人商人が持ってきた、あの忌まわしい緑の苦汁とはまるで違う。

 だが、マノエルは長年海を渡ってきた老練な商人だ。ただ珍しいだけの飲み物に、大金を払うほど愚かではない。

「……確かに、香りは素晴らしい。これまでの日本の茶とは比べ物にならん。だがな……」

 マノエルは杯を置き、冷淡な眼差しを作った。

「やはり、我ら南蛮の舌には、この後味の渋みと酸味が少々尖りすぎている。貴族たちの嗜好品とするには、まだ粗野だ」

 その言葉を待っていたかのように、清兵衛が懐から、麻布の小袋を取り出した。麻布を解くと、中から現れたのは、雪のように白い結晶、長崎から運ばれてきた、南蛮人自身の大好物である上等な白砂糖であった。

「カピタン殿。大隅の若君、島津崇清様より、こう言伝を預かっております。この茶は、甘みを与えてこそ真の姿を現す、と」

「……砂糖を、茶に入れるだと?」

 マノエルは眉をひそめた。茶に砂糖など、聞いたこともない。

 だが、清兵衛は銀のスプーンで山盛りの白砂糖を掬い上げると、マノエルの杯の中へ躊躇いなく放り込み、スプーンの柄で手早くかき回した。カラン、カランと銀が陶器を打つ澄んだ音が響く。砂糖が赤琥珀の湯に溶け込むにつれて、立ち上る香気が、さらに甘美で蜜の匂いへと化けていく。

 マノエルは再び杯を持ち上げ、一口含んだ。

「……おおっ!?」

 尖っていた酸味が和らぎ、砂糖の甘みと茶の香気が見事に結びついていた。確かに美味い。これなら本国の貴族にも売れる。

 だが、マノエルは商人の冷徹さを取り戻し、薄く笑って首を横に振った。

「悪くない。だがセニョール・キヨベエ、砂糖を入れようと、茶葉の芯にあるえぐ味とタンニンの渋みまでは完全には消えんぞ。珍品ではあるが、これで我が船倉の貴重な積荷と引き換えるには、もう一押し足りんな」

 百戦錬磨の商人が、値踏みするように足元を見てきた。その瞬間であった。

「……ふふっ。若の言った通りになったな」

 清兵衛が不敵に口元を歪めた。

「何だと?」

「カピタン殿。大隅の若君は仰せでした。商人は砂糖で一度は感嘆するが、まだ渋みが残ると難癖をつけて買い叩こうとするだろう。その時は、これを出せ、と」

 清兵衛の合図で、新兵衛が布を解き、番屋で温め直してきた竹筒の栓を抜いた。立ち上ったのは、ほんのり温められた、紛れもない獣乳の匂い。

「な……それは乳か!?

日本の武士が、なぜ乳を持っておる!?」

「山川湊の崖下で飼われておる、元気な白山羊から今朝搾らせ、番屋の竈で温め直したものです」

 清兵衛は竹筒を受け取ると、マノエルの砂糖入り紅茶の杯へ、温かい山羊の乳を惜しげもなくトボトボと注ぎ入れた。

 澄み切った赤琥珀の水面が、渦を巻いて濁り、一瞬にして、柔らかな、とろけるような淡い褐色へと染め上げられていく。同時に、山羊乳特有の青臭さは茶の香気によって完全に打ち消され、乳脂肪の濃厚なコクと紅茶の華やかな蜜香が交じり合い、これまでこの船室の誰も嗅いだことのない、甘く重厚な薫香が立ち込めた。

「……さあ、最後の一口を。若君が授けてくださった、秘儀にございます」

 マノエルは、何かに操られるように両手で杯を掴み上げた。唇をつけ、その淡褐色の湯を口内へと流し込む。

 その刹那――

「――ッッッ!!!!」

 マノエルは息を呑み、硬直した。ガタッと椅子が音を立て、腰が浮き上がる。

 言葉が出ない。喉が、舌が、思考が一瞬にして奪われた。

 渋みがない。えぐ味もない。山羊乳の豊かな乳脂肪とタンパク質が、崇清すら尖りすぎていると眉をひそめたあの荒々しい渋みと酸味を、まるで絹の布で包み込むように綺麗に覆い隠していたのだ。

 口いっぱいに広がるのは、舌の上でとろけるような乳のコク。そこへ重なる白砂糖の鮮烈な甘み。そして喉を通り過ぎた瞬間、鼻の奥へ向けて、気品に満ちた茶の果実香が清々しく吹き抜けていく。数ヶ月ものあいだ、腐った水と硬い塩漬け肉で痛めつけられてきた身体に、温かい露が染み渡っていく。

「……う、ぐ……ッ」

 マノエルの喉から、言葉にならない低い呻きが漏れた。両手で杯を抱え込むと、熱い淡褐色の露を最後の一滴まで喉へ流し込んだ。

 ぷはっと深く息を吐き出し、空になった杯を呆然と見つめた。

「サ……サンタ・マリア……。神よ……何だこれは……何なんだ、これは……」

 マノエルは机に両手をつき、震える声で呟いた。

「砂糖の甘みと乳の豊潤さ、そしてこの高貴な香りが溶け合い、跡形もなく消えていく……。信じられん。リスボンの宮廷ですら、こんな洗練された飲み物は見たこともない……!」

 呆然とするマノエルの脳裏を、商人の計算が猛烈な勢いで駆け巡った。

 この茶葉は完全に乾き切っている。船倉の湿気にも耐え、航海の中で熟成する。ワインも水も腐り果てる長い海の旅で、この乾いた茶葉と砂糖、そして甲板の山羊から搾る乳があれば、いつでも湯を沸かして極上の活力を生み出せる。それだけではない。この茶を、マカオの総督府やリスボンの王宮へ持ち帰ってみろ。

 砂糖の甘みを愛するヨーロッパの貴族どもが、一体どれほどの黄金を積んでこの赤き茶を奪い合うか。生糸や銀など足元にも及ばない。これは、大航海時代の物流の歴史を塗り替える、未知の富そのものであった。

「……セニョール・キヨベエ」

 マノエルは顔を上げた。その双眸は血走り、獲物を前にした飢えた狼のようにギラついていた。

「この茶を、今ここにある分をすべて我が船に寄越せ!

いや、来年この港に運んでくる分も、すべて我が商館が独占して買い受ける契約を結びたい!

代価は何だ!?

マカオの白銀か、それとも長崎の絹織物か!?」

「銀も絹も結構ですが」

 清兵衛は薄く笑い、背後に控えていた甚兵衛に視線を向けた。

 甚兵衛が一歩前に出る。オークの床板がきしみ、威圧的な巨躯がマノエルを見下ろす。

「若君……崇清様の仰せじゃ」

 甚兵衛の野太い地声が、船室をビリビリと震わせた。

「我が島津が求めるものは、南蛮の硝石五十石、および鉛三千斤。……それと引き換えでなければ、この茶の壺は一つたりとも船には積ませぬぞ」

「硝石と、鉛だと……?」

 マノエルは息を呑んだ。

 火薬の原料である硝石と、鉄砲玉になる鉛。どちらも、戦国日本の大名たちが血眼になって買い漁っている禁制品に近い軍需物資だ。本来ならば、長崎の有力領主や大友宗麟のようなキリシタン大名に、高値で売りつけるための手札であった。

 だが、マノエルは手元の空の杯を見つめた。硝石や鉛など、マカオやゴアの倉庫へ戻ればいくらでも補充できる。だが、この赤き茶は、世界中を探しても、この南薩摩の港でしか手に入らないのだ。

「……分かった」

 マノエルは震える手で羽ペンを執り、羊皮紙の契約書にサインを叩きつけた。

「船倉の硝石と鉛を、指定の数量だけ直ちに陸揚げさせよう。……その代わり、この茶の壺は今すぐ我が船倉の最も乾いた一等室へ運び込んでくれ!」

 半刻後。

 山川湊の波止場では、黒船から次々と降ろされる重い硝石の樽と鉛のインゴットが、高須水軍の荷船へと積み替えられていた。その様子を、埠頭の松の木陰から見届けていた甚兵衛は、太刀傷の残る顎を撫でながら、信じられないものを見るように首を振っていた。

「……おい、弥三郎」

「何ですかい、甚兵衛の爺様」

 背後で、荷駄の改め帳をめくりながら冷水で濡らした手ぬぐいで首筋を冷やしていた弥三郎が、死んだ魚のような目で応じた。

「本当に……あの腐れかけの葉っぱに砂糖と山羊の乳をぶち込んだだけで、本物の硝石と鉛の山に化けちまったぞ」

「化けちまった、じゃねえですよ」

 弥三郎は深い溜息をつき、算盤の珠をパチリと弾いた。

「若の計算通りですよ。あの黒船の南蛮野郎ども、乳と砂糖の組み合わせを食らわせたら目の色変えて飛びつくって、飯隈を出る前から若は全部言い当ててやがった。……まったく、あの若君は南蛮人の腹の中にまで算盤を仕込んでるんじゃねえかって、気味が悪くなりますよ」

「ふん」

 甚兵衛は鼻を鳴らし、遠く錦江湾の彼方、大隅の山並みを仰ぎ見た。

「気味が悪かろうが何だろうが、これで内城の忠棟の野郎に文句は言わせん。戦時備蓄の火薬も玉も、本蔵の銭を一文も使わずに、獅子目の茶畑が全部稼ぎ出してくれたんだからな」

 前年の天正四年、梅雨の長雨が生んだ現場のやらかしと、未完成な紅き茶。崇清自身が現代の基準には遠く及ばないと眉をひそめていたその粗削りな産物は、白砂糖と山羊乳という組み合わせによって、一年を経て大航海時代の物流の波を捉え、島津の兵站を揺るぎなく支える巨大な外貨獲得エンジンとして、完全に火を噴いていた。


その後、南薩摩から運ばれた紅茶は、リスボンの貴族たちの間で珍重されるようになった。

茶葉そのものは、乾燥させれば長い航海にも耐える。だが、その茶に惜しみなく砂糖を加え、さらに新鮮な乳を注ぐとなれば話は別だった。

それを日々の習慣にできることは、遠方から運ばれる高価な砂糖と、絶えず新鮮な乳を手に入れられる財力の証でもあった。

やがて、南薩摩の赤い茶は、単なる異国の珍品ではなく、貴族の食卓を飾る一杯となっていく。

崇清が売り込んだのは茶葉だった。だが、リスボンの貴族たちが競って買い求めるようになったのは、その茶葉がもたらす豊かな暮らしそのものだった。



 そして――季節は巡り、南薩摩の知覧・頴娃を巡るあの巨大な国替えの評定の直後、物語は再び、飯隈の静かな夕暮れへと戻っていくのである。






申し訳ありません!

私事でバタバタしてたら投稿予約忘れてました。


史実より1世紀弱早く紅茶文化が欧州へ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。