【第5話】紅き腐敗と怪我の功名
天正四年(1576年)五月下旬。
大隅・獅子目の谷は、昼夜を分かたず降り続く梅雨の豪雨に閉ざされていた。
黒く重い雨雲が霧島から高隈の稜線を押し潰すように垂れ込め、叩きつけるような雨粒が、青々と茂る茶畑の段々畑を激しく打ち据えている。
木崎原の合戦から四年。
かつて細い苗木だったチャノキは、猪之助たち工兵班が築いた排水溝と、与兵衛たち蒲生衆による容赦のない摘芯・敷き草の管理によって、頑丈なかまぼこ型の成木へと成長を遂げていた。
春の初摘み(一番茶)を無事に終え、初夏の雨の合間を縫って摘み取られた「二番茶」の収穫量は、前年を遥かに上回っていた。
その結果――製茶小屋の処理能力を、運び込まれた生葉の量が完全に凌駕してしまったのである。
「……若!い、いらっしゃいますかッ……!」
飯隈総会所の板戸が、激しい雨音を突き破って開け放たれた。
滑り込んできたのは、獅子目の製茶小屋で竈の火加減と蒸篭の番を任されている元蒲生武士・猪飼新兵衛であった。
普段は無骨で無口な男が、ずぶ濡れの単衣のまま板敷きに両手を突き、額を激しく床板に打ち付けている。
その背後には、同じく泥まみれの与兵衛が、沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
新兵衛の呼吸は荒く、指先は小刻みに震えていた。
「……新兵衛、与兵衛。どうした、そんなに慌てて」
机の上で日向・高原城への補給計画書を繰っていた崇清が、静かに筆を置いた。
「お、お裁きを……!この新兵衛、腹を掻っ捌いてお詫び申し上げまするッ!」
「落ち着け。何があった」
「茶葉が……一昨日の雨の合間に、蒲生衆総出で刈り取った二番茶の生葉・四百斤が……ッ!小屋の中で、赤黒く腐り果てましたァッ!」
新兵衛の絶叫に、奥の間で算盤を弾いていた弥三郎が帳面を取り落とし、目を剥いて飛び出してきた。
「よ、四百斤!?馬鹿野郎、そいつは秋に高須から出る廻船の先触れにする特級品だぞ!なんで腐らせたんだ!」
「も、申し訳ございませぬ……!大雨で竈の薪が湿気て火が上がらず、蒸篭にかけるのが半日遅れ……そのうえ人手が足りず、摘んだ葉を筵の上に山積みにしたまま、二晩も土間に放置してしまいまして……!」
新兵衛は涙を流しながら、腰の脇差の柄に手をかけた。
「先ほど見に行きましたところ、青々としていたはずの葉が、無残にも赤茶けてしおれ返り……!手を入れると、腐敗の熱を帯びて生温かく煮え立っておりました!若が四年かけて育てられた宝を、某の不手際で全滅させました……!今すぐここで腹を切り、お詫び仕るッ!」
「おい、待て。刀を抜けなんて誰が言った」
崇清は立ち上がり、草鞋を突っ掛けた。
「その目で見るまで、切腹の許可なんか出せるか。小屋へ案内しろ」
「若!土砂降りですぜ!」
呼び止める弥三郎の声を背に、崇清は渋の蛇の目傘を広げ、雨煙る獅子目の山道へと駆け出していった。
製茶小屋の重い引き戸を開けた瞬間だった。
崇清の鼻腔を突いたのは、新兵衛が怯えていたような、生ゴミや汚泥の放つ腐敗臭ではなかった。
「……ん?」
崇清の足が、土間の入口でピタリと止まった。
小屋の中に満ちていたのは――どこか官能的ですらある、甘く重厚な芳香だった。
熟した白桃の果汁。あるいは、雨上がりの山林に咲き乱れる山桜や木蓮の花びら。
青臭さが完全に抜け落ち、蜜のような濃厚な薫香が、湿度の高い小屋の空気をぎっしりと満たしていたのだ。
「……若君、申し訳ございませぬ。この通り、無残に腐れ落ちて……」
這いつくばる新兵衛が指差した先には、幾重にも敷かれた筵の上に、小山のように積み上げられた茶葉があった。
新兵衛の言う通り、かつての鮮やかな緑色は見る影もない。
葉はぐったりと萎れ返り、縁から葉脈にかけて、赤褐色から黒褐色へと完全に色を変えていた。
崇清は無言のまま歩み寄り、山積みの葉の中に素手を差し入れた。
じんわりと温かい。
だが、それは腐敗の熱ではない。
摘み取られた後も生きている茶葉が、自らの細胞内の酵素によって激しく酸素を取り込み、酸化発酵を起こしている発酵熱であった。
(……萎凋だ。しかも、薩摩の梅雨の超高湿度と、山積みの圧力による強烈な揉み効果が重なって……酵素が限界まで暴走している)
崇清の脳裏に、前世の記憶が電光のように走った。
緑茶は、摘んですぐに熱を通して酵素を殺す。
だが、この葉は熱を通されず、湿気の中で放置された。
組織が傷つき、葉の中に眠っていた酸化酵素が、カテキンをテアフラビンやテアルビジン――すなわち、紅茶の紅い色素と、あの特有の甘い花果香へと作り変えていたのだ。
「新兵衛」
「は、ははっ……!」
「脇差をしまえ。……これは腐ったんじゃないぞ」
崇清は赤黒い葉を一掴み取り、新兵衛の鼻先に突きつけた。
「嗅いでみろ。これが、腐った草の匂いに思えるか?」
新兵衛は恐る恐る顔を上げ、鼻をひくつかせた。
「……え?あ……れ……?桃……?干し柿のような……甘い匂いが……」
「そうだ。これは『発酵』だ」
崇清の目が、獲物を捉えた獣のように光った。
「腐敗は雑菌が食い散らかすことだが、発酵は葉自身が化けることだ。……新兵衛、腹を切る暇があるなら手を動かせ!まだ縁に青みが残っている葉もある。全員呼んでこい、筵の上で体重をかけて、残らず葉を揉み潰すんだ!」
「も、揉み潰す……!?真っ赤にしてしまって良いのですか!?」
「良いんだよ!徹底的に組織を壊して、空気を含ませて、真っ黒になるまで発酵させろ!そのあと、竈の薪を熾火にして、炭火の灰の上で焙炉を組め!極限まで水分を飛ばして、完全に乾燥させるんだ!」
「おおおおおッ!発酵じゃな!若君のお下知じゃあァッ!!」
背後の雨煙の中から、ずぶ濡れの甚兵衛が雨をものともせず飛び込んできた。
「何やら知らんが、儂も揉むぞ!この甚兵衛、怪力で葉っぱを――」
「爺様ァッ!!粉微塵にすんなッ!!」
後ろから傘を放り投げて滑り込んできた弥三郎が、甚兵衛の腰帯を引っこ抜かんばかりの勢いで引っ張った。
「茶葉が粉になったら売り物にならんでしょうが!力を加減しなさい加減を!ほら新兵衛、突っ立ってねえで竈に炭を熾せ!四百斤をパーにされたら俺の帳簿に穴が空くんだよォッ!!」
「へ、へいッ!!」
その夜、製茶小屋は異様な熱気に包まれた。
新兵衛と与兵衛を筆頭に、蒲生衆の男たちが筵の上に覆いかぶさり、赤黒く変色した葉を両手で力任せに擦り揉んだ。
揉み潰されるたびに、小屋いっぱいに甘い蜜の香りが立ち上る。
炭火の熱を当て、手入れを怠らずにじっくりと水分を抜いていくと、葉は針のように撚じれ、黒漆のように艶やかな乾き茶へと姿を変えていった。
「……若。乾き切りましたぞ」
夜明け前。
煤で顔を真っ黒にした新兵衛が、仕上がったばかりの乾いた黒褐色の茶葉を、震える手で差し出してきた。
崇清は素焼きの白椀に茶葉を落とし、沸騰したての熱湯を勢いよく注ぎ入れた。
立ち上る湯気。
ふわりと、干し葡萄と熟した果実を煮詰めたような、重厚な薫香が小屋を包む。
そして――椀の中に広がった水色は、緑でも泥水でもなかった。
朝日の光を透かしたような、深く、澄み切った、見事な赤琥珀の雫であった。
「う……うわあぁ……!」
息を呑んでいた新兵衛と、煤だらけの与兵衛が、同時に声を漏らした。
「紅い……!透き通るような紅だ……!」
「新兵衛、飲んでみろ」
促された新兵衛は、両手で椀を持ち上げ、熱い紅い湯をすすった。
「…………ッ!?」
新兵衛の目が、限界まで見開かれた。
「……う、美味い……!渋みはあるが、舌を刺すような嫌な苦味がねえ!喉を通ったあとに、口の奥から花のような甘い匂いが吹き抜けてきやす……!若、すげぇ!腐りかけのゴミが、こんな見たこともねえ極上の茶に化けるなんて……若は神仏の生まれ変わりだッ!」
「若君!こいつは大発見ですぞ!」
甚兵衛も椀を煽り、太刀傷を赤く染めて歓喜の雄叫びを上げた。
「釜炒りの緑茶とも、出汁のようなかぶせ茶とも違う!こんな茶、都の公家も堺の茶人も見たことがねえはずじゃ!若君の知恵があれば、失敗すらも黄金に化ける!」
小屋の中は、奇跡を目の当たりにした男たちの怒号のような歓声で揺れていた。
だが。
その狂乱の輪の中で、自ら椀を口にした崇清の表情だけは、冷え切っていた。
(…………いや)
崇清は舌の上で紅い液体を転がし、密かに眉をひそめていた。
(……こんなもの、現代の『紅茶』と呼ぶには程遠い。雑味が多すぎる)
周囲の絶賛とは裏腹に、崇清の脳内の冷静な分析官が、手厳しく欠点を弾き出していた。
放置された場所によって酸化の進み具合が不揃いだったため、発酵が浅い部分の尖った渋みと、進みすぎた部分の濁った酸味が、後味にざらりと残っている。
香りは強いが、製茶の温度管理が甘いため、現代のダージリンやアッサムのような洗練された透明感はない。
お世辞にも完成品とは呼べない、事故から生まれた粗削りな試作品にすぎなかった。
だが――。
(……だが、この時代にはこれで十分すぎる)
崇清は椀の底を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべた。
日本の茶道を知る者から見れば色の狂った失敗作かもしれない。
しかし、何千海里もの荒波を越えてやってくる、あの南蛮人たちにとってはどうか。
緑茶の繊細な青臭さを嫌い、長旅で水や酒を腐らせ、常に濃厚な味覚と長期保存の利く飲料を渇望している、マカオやリスボンの船乗りたちにとっては――。
「……新兵衛」
崇清の低い声に、浮かれていた男たちがハッと静まり返った。
「奇跡だと喜ぶのは終わりだ。……飲んで分かっただろう。この茶はまだ、味が揃っていない。渋みが尖りすぎているし、葉の撚りも不揃いだ」
「は……はっ!」
「事故でできたものを、次は狙って作れるようにする。それが職人の仕事だ」
崇清は手控帳を開き、炭で枠組みを書き殴った。
「摘んだ葉を広げる厚さ、日陰の風通し、そして何より――酸化の進み具合を見極めて、揉みの力加減と焙炉の火入れを均一にする工程表を作る。来年の夏までに、誰が作ってもこの紅い色と香気が出るよう、技を規格化しろ」
「しょ、承知いたしましたッ!」
新兵衛は平伏した。もはやそこには切腹を覚悟した敗残の影はなく、未知の地平を切り拓く技術者の目が宿っていた。
「若」
腕組みをしていた弥三郎が、算盤を小脇に挟んで尋ねてきた。
「この紅い茶……まさか、都の烏丸サロンへ持っていく気じゃねえでしょうね?公家衆に『赤茶けた毒水だ』って撥ねつけられますぜ」
「持っていかないよ」
崇清は首を横に振った。
「京都には、あの出汁のような『かぶせ茶』を秘匿してぶつける。公家や茶人どもを骨抜きにするには、緑の深みこそが効くからな」
崇清は立ち上がり、雨の止み始めた空を見上げた。
雲の切れ間から、錦江湾の彼方、南の海へと続く光の筋が差し込んでいる。
「この紅い茶は、海を越える船に乗せる。……山川湊へ運ぶんだ。来年、南蛮船でやってくる南蛮人どもに、この赤き雫を浴びせてやるのさ」
天正四年の長雨が生んだ、一握りの偶然と失敗。
現場の歓喜と、主君の冷徹な不満が交錯する中で、島津の軍事と財政を太平洋の彼方へと繋ぐ紅きカードが、泥臭く産声を上げていた。
欧州での紅茶の流行は1662年からと言われています。崇清は100年弱早く紅茶を欧州で流行らせようとしてます。
次は19時です。




