【第4話】筵(むしろ)の影と出汁の甘露
天正三年(1575年)四月。 木崎原の合戦から丸三年が過ぎ、大隅・獅子目の谷間は、淡い若草色の生気で満ち満ちていた。 かつては雨水が抜け落ち、赤土が露出していたシラスの不毛な傾斜地。 猪之助率いる工兵班が階段状に切り拓き、与兵衛ら蒲生衆が手入れを重ねてきた段々畑では、三千本の茶樹が人の腰の高さまで堂々たる枝葉を茂らせていた。
その青々とした畝と畝のあいだで、平山次郎兵衛は背中に背負った竹籠の紐を肩に食い込ませ、引き攣った顔で立ち尽くしていた。 「……おい、次郎兵衛!突っ立ってねえで竹を運べ!日が昇りきっちまうぞ!」 畝の下から怒鳴りつけてきたのは、泥まみれの長手甲を巻いた工兵班長・猪之助であった。 十数本の太い孟宗竹を軽々と担ぎ上げ、ドスンと地面に下ろす。 「い、猪之助さん……。本当にやるんですかい、これ?」 次郎兵衛は畑の上段に立つ主君を恐る恐る指差した。 春の柔らかな日差しの中、麻の小袖の裾を括った島津崇清が、手控帳と麻縄を手に、畝の長さを忙しなく測り歩いている。 その足元には、近隣の村や飯隈の納屋からかき集められた、埃まみれの古筵や藁束が小山のように積み上げられていた。 「若がやるっつったらやるんだよ!」 猪之助は首の手ぬぐいで汗を拭い、鼻を鳴らした。 「『新芽を摘む前の十日間、畑の上に竹で棚を組み、古い筵と藁を敷き詰めて陽の光を完全に遮れ』――それが若の下知だ!」 「狂ってますよ……!」 次郎兵衛は思わず頭を抱えた。 「作物は陽の光を浴びて育つからこそ実を結ぶ!それは百姓の赤ん坊でも知っている天の理でしょうが!三年手塩にかけて、ようやく今年、立派な一番茶の新芽が吹き始めたんですよ!?それを筵で覆って真っ暗にしたら、陽が当たらずに全部枯れちまう!」 「枯れるかどうかは、やってみねば分からん」 静かに割って入ったのは、剪定鋏を手にした福留与兵衛であった。 その眉間にも、深い苦渋の皺が刻まれている。 無理もない。 この獅子目の茶畑は、蒲生衆が刀を鍬に持ち替え、血反吐を吐いて育ててきた命の結晶なのだ。 一昨年の夏の旱魃では、崇清の指示で山じゅうの茅を刈り集めて根元に敷き詰め、なんとか幼木を救い出した。 昨年の春には、葉を茂らせようと菜種や椿の油かすを与えすぎ、木が窒素を吸いすぎて柔らかいツルボケを起こし、夏の突風で枝がポキポキ折れるという苦い失敗も経験した。 あの時、与兵衛ら古武士たちは骨身に染みて学んだのだ。 ――木というものは、甘やかすと骨が立たぬ。 与兵衛はそれ以来、崇清の農学知識を尊重しつつも、自らの手で小刀を振るい、地上二尺の高さで丹念に枝の芯を止め(摘芯)、横へ横へと太い骨格を張らせてきた。 そうして三年をかけ、風にも負けぬ強靭なかまぼこ型の樹冠を作り上げたのだ。 その頑丈な枝の上に、今度は「陽を遮る筵を被せろ」という。 与兵衛にとっても、胸を掻き毟られるような無茶振りであった。
その時、谷底の山道から、ズシン、ズシンと地響きのような足音が近づいてきた。 「ガハハハハ!者ども、若君のお下知と聞いて駆けつけたぞォッ!!」 見上げれば、青々とした太い生丸太を二本も両肩に担ぎ上げた甚兵衛が、目を血走らせて坂を登ってきていた。 「陽を遮る屋根を組むのじゃな!任せておけ、この甚兵衛、山から切り出した丸太で畑じゅうに城壁のような櫓を組んで――」 「爺様ァッ!!だから誰が丸太持ってこいっつったんだよォッ!!」 甚兵衛の背後から、帳面を小脇に抱えた弥三郎が、半泣きで駆け上がってきた。 「竹と筵で棚を作るって言ってんでしょうが!なんでそんな生丸太を振り回すんですか!重い!狭い畝にそんな大木を突っ込んだら、せっかくの茶の木がへし折れるでしょうがァッ!!」 「だまりゃ弥三郎ッ!頑丈な屋根を作るなら丸太に如くはなしじゃ!若君のためなら儂は――」 「その若君が『丸太は絶対持ってくるな、竹と筵だ』って厳命したんだよォッ!!」
「おい、お前ら。朝から騒ぐな。畝を踏み荒らすなよ」 崇清が手控帳をパチンと閉じ、畝の間から呆れ顔で歩み出てきた。 十七歳。すらりと伸びた背丈に、現場監督としての落ち着きが板についている。 「若君!」 甚兵衛が丸太を放り投げ、泥の斜面に膝をついて土下座しようとする。 「甚兵衛、土下座するなって言ってるだろ。足場が崩れる。丸太は端っこに置いとけ。……次郎兵衛、与兵衛」 「は、はっ……!」 次郎兵衛が恐る恐る声を上げた。 「わ、若……本当にやるんですかい?陽の光を奪ったら、新芽が青白く萎縮して枯れちまいます!後岳の丹後守殿のところじゃ、露地で陽を浴びた新芽がもう艶やかに育ってるって話ですぜ!」 「丹後守殿のところは、あれでいいんだよ」 崇清はしゃがみ込み、柔らかい新芽の先端をそっと指先で摘まんだ。 「あそこは深い谷霧が天然の日除けになってくれる。だから基本通りの露地栽培で、十分に香ばしい極上の番茶ができるんだ。……だが、ここは獅子目だぞ。丹後守殿と同じものを作ってどうする」 「同じで何が悪いんです!美味い茶が山ほど採れれば、それだけで銭になるでしょうが!」 「それじゃ『茶の産地の一つ』で終わるんだよ」 崇清は立ち上がり、積み上げられた筵を指差した。 「陽の光を浴びた新芽は、光合成をしてカテキンを作る。つまり、自らを守るための『渋みと苦味』を葉の中に溜め込むんだ。……だが、根から吸い上げたアミノ酸、つまり『出汁のような甘み(テアニン)』は、日光を浴びるとその渋みに化けて消えちまうんだよ」 「てあ……?出汁……?」 次郎兵衛が目を白黒させる。 「新芽が出る直前の十日間、藁と筵で光を遮るんだ」 崇清は手控帳を開いて図面を示した。 「光を奪われた木は『光が足りない!』と慌てて、葉緑素を増やして葉を真っ黒に近い濃い緑に染め上げる。そして日光がないから、根から上がってきた極上の甘みと旨味が、渋みに化けずにそのまま葉の中に閉じ込められる。……宇治の覆い茶(抹茶)の原理を、煎じて飲む茶に応用するんだよ。名付けて『かぶせ茶』だ」 崇清は次郎兵衛の肩を叩いた。 「騙されたと思って付き合え。与兵衛たちが丹念に枝の芯を止めて、頑丈なかまぼこ型の骨格を作ってくれたからこそ、筵の重みにも耐えられるんだ。……獅子目から、都の公家もひっくり返るような茶を絞り出すぞ」
「へいッ!野郎ども、若の下知だ!」 猪之助が怒号を上げ、工兵班が竹を組み始めた。 「爺様、ほら!丸太を放り出して竹を運びなさいよ!」 「うむ!竹を運べば良いのじゃな、弥三郎ッ!」 畑の四隅に太い竹が打ち込まれ、畝の上に藤蔓で横竹が渡され、その上に古い筵と藁が敷き詰められていく。 十日間。 段々畑の三分の一が、まるで黒い棺桶のような薄暗い覆い屋根の下に沈んだ。 次郎兵衛は毎朝、胃を痛めながら覆いの下を覗き込んだ。 最初の三日は何の変化もなかった。 五日目、新芽の伸びが露地のものに比べて明らかに遅くなり、次郎兵衛は「やはり枯れかけているのでは」と青ざめた。 だが――八日目の朝。 筵の隙間から這い入った次郎兵衛は、思わず息を呑んだ。 「な……なんだ、これは……」 薄暗闇の中で、新芽が黒々と光っていた。 露地の日光を浴びた茶葉が明るい黄緑色をしているのに対し、覆いの下の新芽は、濡れた黒髪のように深く、吸い込まれそうな濃緑色に染まっていた。 そして、覆いの中を満たしていたのは、青草の匂いではなかった。 潮風に揺れる青海苔のような、あるいは山奥の清水に育つ青苔のような、甘くどこか官能的な、鼻腔をくすぐる独特の「覆い香」が充満していたのだ。
十日目の夕刻。 筵が一斉に取り払われた。 夕暮れの斜面に現れたのは、黒々と輝く異様な茶畑であった。 蒲生衆総出で手早く摘み取られた新芽は、その日のうちに飯隈の製茶小屋へと運び込まれた。 蒸篭で短く蒸気を当てて青みを止め、竈の熱気の中で、次郎兵衛と与兵衛が汗だくになって筵の上で揉み込んでいく。 揉めば揉むほど、針のように細く締まった葉から、濃い緑の露が滲み出す。 炭火の灰の上で静かに熱を通し、極限まで水分を飛ばして仕上げられた茶葉は、黒漆を塗ったように深い青黒さを湛えていた。
「……若。できました」 与兵衛が、仕上がったばかりの乾いた茶葉を一掴み、素焼きの椀に入れて差し出した。 製茶小屋の土間に、蒲生衆の主立った面々が息を殺して車座になっている。 崇清は鉄瓶の湯を柄杓ですくい、少し冷ましてから、静かに椀の中へ注ぎ入れた。 立ち上る湯気。 ふわっと、青海苔を焦がしたような、独特の甘い香気が小屋いっぱいに広がる。 椀の中の湯は、透き通った淡い若草色をしていた。 「……次郎兵衛、一番文句を言ってたお前から飲んでみろ」 崇清に促され、次郎兵衛はごくりと喉を鳴らした。 恐る恐る椀を両手で受け取り、鼻を近づける。 香りは、茶というより上等な海産物のそれに近い。 意を決して、唇をつけ、熱い湯を一筋、舌の上へと転がした。 「――――――ッ!?」 次郎兵衛の身体が、硬直した。 目が見開かれ、顎がわなわなと震える。 渋みがない。苦味もない。 舌の上に広がったのは――まるで、昆布と干し椎茸をじっくり煮出した一番出汁に、ほんの少しの塩と砂糖を落としたかのような、暴力的なまでの「旨味」であった。 喉を通る瞬間、とろりとした濃厚な甘みが口内を満たし、飲み干した後も、舌の根元から尽きることのない潤いが湧き上がってくる。 「な……な、なんですか、これは……!?」 次郎兵衛は椀を取り落としそうになりながら叫んだ。 「出汁だ……!若、これ、誰かが魚の脂か昆布の汁を混ぜたんじゃないですか!?茶の葉から……草の葉っぱから、どうしてこんな魚出汁のような甘い味が出るんですかッ!?」 「混ざり物なんかするか、馬鹿野郎」 崇清が鼻で笑った。 与兵衛が次郎兵衛の手から椀を受け取り、自ら口をつける。 一口啜った瞬間、歴戦の古武士の太刀傷が、驚愕で跳ね上がった。 「…………!」 沈黙。 与兵衛は椀を見つめたまま、微動だにしない。 やがて、大きく息を吐き出し、震える手で椀を土間に置いた。 「……若君。恐れ入りました」 与兵衛の声は掠れていた。 「これは、茶ではございませぬ。……日光を遮っただけで、これほどの化け物が生まれるとは……」 「成功だな」 崇清は満足そうに手控帳に筆を走らせた。 だが、周囲の男たちが歓喜と興奮に沸き立つ中で、崇清の表情にはどこか冷徹な計算が残っていた。 (……悪くない。テアニンはしっかり残った。だが、現代の玉露やかぶせ茶と比べれば、まだ覆いの日数が短かったせいか、わずかに青臭い渋みが底に残っているな。それに、筵の隙間から光が漏れて、畑の場所によって葉の色にムラがある。……覆いの資材と日数の管理は、もっと規格化して詰めなきゃならん) 崇清は筆を止め、土間に膝をつく蒲生衆を見渡した。 「よくやってくれた。だが、浮かれるなよ」 その声の鋭さに、男たちのざわめきがピタリと止まった。 「この『かぶせ茶』の製法――竹の棚組み、筵の日数、そして揉みと火入れの加減は、この獅子目から一歩たりとも外へ漏らすな」 崇清は立ち上がり、厳然と言い放った。 「知覧や後岳の丹後守殿には、去年、基本の露地栽培と釜炒りの技を全部教えた。南薩の地侍たちには、あれで大いに茶を増産してもらい、山川湊を茶で溢れさせてもらう。……だが、この出汁のような茶だけは、我が蒲生島津の【絶対の奥義】として門外不出にする」 「門外不出……」 次郎兵衛が息を呑んだ。 「そうだ。知覧の茶が世に広まり、誰もが美味い茶を飲めるようになった時――この獅子目の茶は、さらにその十倍の値をつけ、京の公家や天下人の度肝を抜くための秘密兵器になる。……市場は皆で広げるが、一番美味い上澄みはうちが握り続ける。いいな?」 「ははっ……!」 与兵衛と次郎兵衛が、深く土間に額を擦り付けた。
小屋を出ると、春の夜風が高隈山から吹き下ろしていた。 月明かりに照らされた段々畑は、覆いを外され、夜露を浴びて静かに息づいている。 獅子目の山から集めた細い山茶の苗木は、土と風、そして人間の泥臭い試行錯誤を経て、誰も見たことのない黄金の葉を宿し始めていた。 だが――自然の気まぐれと製茶の魔物は、翌年、さらに思いもよらぬ「事故」となって、この工房を再び揺るがすことになるのである。
この時代煎茶という文化はまだなかったのです。
かぶせ茶は京都で行われていたようですね。




