【第3話】後岳の霧と分け与えられた技
天正二年(1574年)秋。 大隅国の空は、二年にわたる戦塵がようやく鎮まりを見せていた。 肝付氏の防衛線が崩壊し、高山城が開城。大隅一国が島津宗家の手によって平定され、降伏した領主たちの城や田畑は、崇清の稟議通りことごとく当主・島津義久直轄の「蔵入地」として返上された。 軍事の喧騒が引き、大隅の山々が静けさを取り戻しつつあるこの季節、錦江湾の波を切り裂いて、一艘の頑丈な早船が西へと舳先を向けていた。 目指すは、薩摩半島の南端――錦江湾の入口に位置する山川湊である。
船の舳先に立ち、晩秋の乾いた潮風を胸いっぱいに吸い込んでいるのは、十六歳となった島津崇清であった。 その背後には、獅子目の茶畑で泥にまみれ、すっかり日焼けした福留与兵衛が、大事そうに縄で縛られた手板や竹べらを抱えて控えている。 「……若君」 与兵衛は、遠ざかる高須の防波堤を振り返り、困惑を隠せない様子で眉を寄せていた。 「本当に、知覧の後岳まで行かれるのでございますか? 大隅が治まり、ようやく獅子目の段々畑も二番茶の仕立てを終えたばかり。これから冬越しに備えて敷き草の手配をせねばならん大事な折に……なぜわざわざ、南薩の山奥まで出向かれるので?」 「大事な折だから行くんだよ、与兵衛」 崇清は振り返り、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。 「獅子目で二年間、お前たちと泥まみれになって掴んだ知恵を、向こうの連中にも分けてやるのさ」 「分けてやる、にございますか……!?」 与兵衛は思わず声を上ずらせた。 「他領の者に、あの苦労して掴んだ技を教えるとお仰せで!? あの傾斜地の畝立てと溝切り、夏の直射日光を凌ぐ敷き草の敷き方、そして大鍋で手早く炒って熱を通す竈の工夫……あれは、蒲生衆が血反吐を吐いて手に入れた、我が家の宝ではございませぬか!」 「宝だからこそ、配るんだよ」 崇清は甲板に腰を下ろし、懐から一枚の絵図面を広げた。 そこには、開聞岳の北西に連なる知覧の山懐――標高が高く、年間を通じて冷涼な霧が立ち込める山間地「後岳」の地形が、綿密に書き込まれていた。 「与兵衛。獅子目の畑で、いま育っている茶の木は何本だ?」 「は……およそ三千本にございます」 「そうだ。三千本だ。来年、再来年には立派な葉を茂らせ、まとまった茶が採れるようになる。だがな――三千本の木から採れる茶なんて、たかだか数百斤だ。山川湊にやってくる商人が、わざわざ大金を積んで買い付けにくるような規模には到底届かない」 崇清は、知覧の山あいを指先で叩いた。 「茶を真の富に変えるには、『市場』がいるんだよ。山川湊に行けば、いつでも質の良い茶が百俵、千俵と手に入るという噂が立たなきゃ、堺や博多の大商人は動かない。大船を仕立てて買い付けに来てはくれないんだ。獅子目一つで細々と作っていても、商人に足元を見られて安く買い叩かれるのが関の山だ」 「市場を……作るのでございますか……?」 「そうだ。南薩の山あいを、丸ごと茶の産地にしてしまうのさ。知覧の連中にも木を植えさせ、同じように美味い茶を作らせる。そうして山川に茶が山積みになれば、商人が集まり、相場が立ち、道が拓ける。そうなって初めて、我が蒲生島津が手にする茶も、十倍、二十倍の銭に化けるんだ」 与兵衛は、ぽかんと口を開けた。 技を秘匿して自分たちだけで独占するのではない。 他人に技を与えて生産者を増やし、市場そのものを巨大化させた上で、その中心に座る。 武士の領地争いしか知らぬ与兵衛には、若き主君の見据える地平が広大すぎて、目眩すら覚えるようであった。
山川湊から馬を飛ばし、山道を分け入ること半日。 標高三百メートルを超える後岳の山あいは、昼なお冷たい白霧に包まれていた。 周囲を取り囲む山肌は急峻で、土は火山灰の混じる赤黒いシラス。 田んぼなど一枚もなく、谷底のわずかな平地に粟や稗が申し訳程度に植えられているだけの、知覧の中でもひときわ寒村と呼ぶにふさわしい僻地であった。 その山あいの小領主であり、川辺との境目を守る後岳の地侍・栫丹後守は、粗末な板敷きの居館の土間で、平伏したまま身動き一つできずにいた。 「……し、島津又八郎崇清様自らのご下向とは、夢にも思わず……! このような山奥のあばら骨のような館へ、一体いかなるご用向きで……?」 丹後守の額には、脂汗が滲んでいた。 無理もない。 目の前に座る若者は、木崎原で名を轟かせ、大隅平定を実質的に差配した島津宗家の麒麟児である。 二年前、肝付兼綱の仲介で生垣の茶の苗や実を塩・鉄と引き換えたことはあったが、まさか本人が直接乗り込んでくるとは思ってもみなかったのだ。 「丹後守殿、面を上げてください。領地の検分に来たわけじゃありませんよ」 崇清は穏やかに微笑み、土間の真ん中に腰を下ろした。 そして、傍らの与兵衛に合図し、持参した二つの麻袋を開けさせた。 一つには、獅子目の山から掘り起こして選別した丸々とした茶の実と若苗。 そしてもう一つには、獅子目でこの秋に製されたばかりの、深い緑色に輝く茶葉が詰まっていた。 「丹後守殿。まずは、これを一服飲んでみてください」 崇清が素焼きの椀に茶葉を落とし、囲炉裏の鉄瓶から湯を注いだ。 立ち上った湯気を嗅いだ瞬間、丹後守の鼻腔が微かに震えた。 青臭い落葉の匂いではない。 若草を炒ったような、どこか香ばしく、澄み切った清涼な香気。 椀を受け取り、恐る恐る口をつけた丹後守の目が、見開かれた。 「な……なんですか、これは……!?」 「釜炒りの緑茶です」 「これが……茶!? あの、生垣に生えておる渋くて苦いだけの雑草が……なぜ、これほどまでに甘く、澄んだ湯になるのですか!?」 「火の通し方と、育て方ですよ、丹後守殿」 崇清は身を乗り出し、土間の砂の上に指で線を引き始めた。 「後岳のこの山あいはね、谷から吹き上げる霧が深く、日差しが柔らかい。茶の木にとって、これ以上の適地はありません。……この山肌の傾斜地に、木を植えるのです」 「は……? こ、この崖に、でございますか? 水も引けぬ、麦すら育たぬこの赤土の山肌に……?」 「そうです。茶の木は水が溜まるのを嫌い、酸の強い土を好みます。このシラスの斜面こそが最も適している」 崇清は、手控帳から取り出した図面を丹後守の前に広げた。 そこには、獅子目で猪之助や与兵衛たちが血反吐を吐いて完成させた、あの技術が惜しげもなく描かれていた。 「まず、斜面を削って階段状にし、かまぼこ型の畝を作る。畝のあいだには一尺五寸の深い溝を掘り、雨水を一気に谷底へ落とす。そして、植えたばかりの幼木の根元には、山じゅうの茅を刈り集めて、手のひらの厚さほどに敷き詰めるのです」 「草を……敷くのですか?」 「ええ。シラスは夏に熱湯のように熱くなり、幼い根を焼き殺してしまう。敷き草をして土の温度を下げ、夜露を閉じ込めねばなりません。……そして三年後、木が育って新芽を吹いたら、干してはならない。その日のうちに大鍋で手早く炒り、熱いうちに筵の上で手強く揉むのです。火加減は、薪をくべすぎず、熾火の熱で煽るのがコツです」 崇清は、与兵衛が持ってきた竹べらや手板を丹後守の手のひらに握らせた。 「この道具も、苗木も、すべて後岳に差し上げます。作り方の指図書も置いていきましょう。……どうです、丹後守殿。この不毛の山肌を削り、我が蒲生島津と共に、美味い茶を作ってみませんか」
静寂が、土間を支配した。 丹後守は、握らされた道具と図面を見つめ、わななくように震えていた。 後岳の武士たちは貧しい。 平地が狭く、米が採れぬため、わずかな畑の収穫を奪い合って隣村と諍いを起こし、戦となれば命を捨てて先鋒を務め、わずかな恩賞に縋って生き永らえてきたのだ。 その自分たちに、見捨てられた山肌から銭を生み出す門外不出の秘術を、何の見返りもなく教えてくれるという。 「……な、なぜでございますか……!」 丹後守の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 「なぜ、このような貧しい山奥の土侍に、これほどの宝を……! 我が後岳は、蒲生殿の直属の家臣でもございませんのに……!」 「言ったでしょう、丹後守殿」 崇清は穏やかに、だが揺るぎない声で言った。 「皆が豊かにならねば、商いは成り立ちません。後岳の皆さんが汗を流して美味い茶を山のように作り、山川湊へ運んでくだされば、我が蒲生島津がすべて適正な値で買い取ります。塩が要るなら白塩を、鉄が要るなら鉄釘を、米が要るなら米を渡しましょう。……共に、富を育てたいのです」 「若君……! おお、若君……ッ!」 丹後守は畳に額を擦り付け、声を上げて泣いた。 「この栫丹後守、生涯をかけて後岳の山を茶で埋め尽くしてみせまする! 若君のご恩、死すとも忘れますまい……!」
後岳の館を辞し、霧の立ち込める山道を下りながら、与兵衛は深く息を吐いた。 「……若君。恐れ入りました」 「ん? 何がだ」 「あの丹後守殿の顔をご覧になりましたか。あれはもう、若君の信徒にございます。もし明日、義久様と若君が戦うようなことになれば、あの男は迷わず若君のために槍を取りましょうぞ」 「物騒なこと言うなよ、与兵衛。謀反なんて起こす気は毛頭ない」 崇清は苦笑しながら、山肌を見上げた。 早くも、丹後守の号令によって集められた村の男たちが、鎌を手に斜面の茅を刈り払い始めているのが見えた。 数年後、この後岳の冷涼な山肌には、幾筋もの美しい茶の畝波が広がることだろう。 だが――。 与兵衛は、ふとあることに思い至り、小首を傾げた。 「……しかし、若君。丹後守殿にすべてを教えられたように見えましたが、肝心なことを一つも仰いませんでしたな」 「おや、気づいたか」 崇清は立ち止まり、ニヤリと口角を吊り上げた。 「畝の立て方や排水溝、敷き草、そして大鍋での釜炒りの基本は全部教えた。あれで後岳の連中は、今まで飲んでいた泥水とは比べ物にならない極上の番茶を作れるようになる」 「はっ。されど……」 「そう。摘む前の『時期の選別』や、茶葉の形を揃える『揉みの極意』、そして何より――来年、獅子目で試す予定の【あの仕掛け】については、一言も触れてない」 「【あの仕掛け】、と申しますと?」 「まだ秘密だ。来年の春、獅子目の茶畑で新芽が出たら教えてやるよ」 崇清は歩みを再開した。 その背中は、先ほどまでの慈悲深い若武者のそれではなく、冷徹に市場を支配せんとする稀代の経営者のものであった。
基礎技術はすべて惜しげもなく開放し、生産者を増やして産地としての規模を圧倒的に広げる。 知覧や後岳の地侍たちを自らの経済圏に組み込み、感謝させ、忠誠を固めさせる。 しかし――他所では決して真似のできない「最高級のブランド技術」だけは、本拠・獅子目の奥深くに厳重に秘匿し、自らの手の中に握り続けるのだ。 「市場を育て、規格を配り、一番美味い上澄みだけをうちが押さえる。……これぞプラットフォーム戦略の基本だよ、与兵衛」 「……ぷらっと……? 何でございますか、その南蛮の呪文は」 「気にすんな。独り言だ」 崇清は楽しげに笑い、山道を下っていった。 天正二年の秋。 大隅の怪童が後岳の霧の中に蒔いた技術の種は、地侍たちの熱気とともに、静かに、だが確実に芽吹き始めていた。 三年後、この山あいが相良家の移封という巨大な歴史のうねりを受け止める、青々とした舞台になることなど、まだ誰も知る由もなかった。




