【第2話】シラスの段々畑と酸っぱい赤土
大隅・獅子目の山あいは、秋の深まりとともに朝夕の冷え込みが厳しさを増していた。
錦江湾から吹き上げる生温かい海風が、高隈山の峰々に遮られ、谷底に真っ白な朝霧を落とす。
霧が晴れ上がる頃、乾いたシラスの崖下から、無数の鉄の音が響き始めた。
カツン、ザクッ、カツン。
鍬が小石を弾く鈍い音に混じり、重い土砂が崩れ落ちる乾いた音が谷間にこだまする。
蒲生衆の老武士・福留孫六は、汗と土埃で泥炭のようになった麻布の袖で、額の汗を拭った。
齢は五十に近い。
かつては大隅・蒲生城の搦手門を警固する武頭として、槍一本で島津の猛攻を支え、城が落ちたのちは野山を彷徨い、飢えに耐えかねて松皮を剥いで啜った男だ。
その節くれだった右の手のひらには、槍胼胝の上に、さらに分厚い鍬の胼胝が重なり合っていた。
「……おい、もっと深く掘れ! 若君の指図は『溝の深さは一尺五寸(約四十五センチ)』だぞ! 雨が降ったときに水が溜まったら、根が腐る!」
孫六の怒号に、泥まみれの若い元蒲生武士たちが、息を切らしながら鍬を振り下ろす。
彼らが切り拓いているのは、畑ではなかった。
山裾からせり出す、傾斜三十度を超えるシラスの赤土斜面だ。
雨が降れば一瞬で水が抜け、日照りが続けば粉末のように白く乾き果てる。
米を植えるための水など引けるはずもなく、麦を蒔いても酸の強い赤土にやられて芽吹く前に立ち枯れる。
大隅の百姓なら誰もが見向きもせず、せいぜい馬の秣にする茅を刈り取るためだけに放置されてきた、不毛の傾斜地であった。
その斜面を、蒲生衆は段々畑に削り直していた。
斜面を水平に均し、土をかまぼこ型に盛り上げて幅四尺の平らな「畝」を作る。
そして畝と畝のあいだには、谷底へ向けて一直線に水を落とす深い溝を掘り抜いていた。
「孫六、精が出るな」
背後から低く太い声がかかった。
振り返ると、蒲生衆の筆頭として軍事と開墾の現場を束ねる甚兵衛が、肩に大きな丸太を担いで立っていた。
その顔面を走る大きな太刀傷が、朝の光に引き攣れている。
「甚兵衛様」
孫六は腰を伸ばし、汗を拭いながら手元の鍬の先で赤土を突いた。
「……これで、本当に良いのでしょうか。若君は『米や唐芋を植える平地は一坪も削るな』と仰った。それは有難い。我らの食い扶持が減らんのは何よりです。だが……この酸っぱくて水も吸わん赤土に、南薩から運んできたあの木を植えて、本当に育つので?」
「育つ、と若君は仰せだ」
甚兵衛は丸太をドサリと地面に下ろし、斜面のあちこちに仮置きされた竹籠に目をやった。
知覧から船で高須湊へ運び込まれ、馬の背に揺られて獅子目へ届いたばかりの、無数の苗木だ。
根には濡らした筵が巻きつけられ、青黒い土がまだ湿り気を保っている。
「若君の算盤は、一度も外れたことがねえ。……五歳の時に泥谷でサボンを炊かせ、屑米で内城の蔵を欺き、先だっての木崎原では竹と泥で伊東三千を押し返した。あの若君が『この土こそが天の恵みだ』と仰るなら、俺たちは土を掘るだけだ」
「それは……分かっておりますが」
孫六は苦笑いを漏らした。
蒲生の城を失い、一族郎党が路頭に迷い、野垂れ死にを待つばかりだった自分たちを拾い上げたのが、当時まだ十歳にも満たぬ崇清であった。
武士としての誇りを捨て、刀を鍬に持ち替える屈辱に、最初は誰もが唇を噛んだ。
だが、あの日から今日まで、この獅子目で飢え死にした者は一人もいない。
不作の年でも白塩と唐芋が支給され、病人が出れば高須から薬が届く。
飯が食える。生き延びられる。
その事実だけで、蒲生衆にとって崇清は神仏にも等しい存在だった。
だからこそ、孫六は失敗したくなかった。
若君が木崎原の功名で得た大事な領地で、知覧からわざわざ塩と鉄を引き換えてまで買い集めた大切な苗木を、一本たりとも枯らすわけにはいかないのだ。
「孫六、甚兵衛!」
谷底の小道から、軽やかな足音が近づいてきた。
簡素な麻の小袖に野袴を穿き、腰に算盤と小さな手控帳を挟んだ少年――島津又八郎崇清であった。
元服したばかりの十四歳。
前髪を落とした額には涼やかな知性が宿り、その背後には帳面を抱えて胃を押さえている弥三郎がぴったりと従っている。
「若君!」
孫六と周囲の男たちが一斉に鍬を置き、泥だらけの膝を地面につけた。
「皆、頭を上げてくれ。……おお、見事だな」
崇清は斜面を見上げ、満足そうに目を細めた。
シラスの赤土斜面が、幾段もの階段状に切り拓かれ、均整の取れたかまぼこ型の畝が山肌に幾筋もの波を描いている。
「傾斜を活かした畝立てと、深い排水溝。これならどんな豪雨が降っても水が淀まない。茶の直根は地中深くへ伸びるが、水が溜まって腐る『湿害』には極端に弱いんだ。この水はけこそが、命綱になる」
「はっ……若君のお指図通りに掘り進めております。ですが若君」
孫六は、恐る恐る口を開いた。
「このシラスの土は、雨が抜けるばかりか、極めて酸が強くございます。麦を蒔いても立ち枯れるこの痩せ地で、知覧の木が根を張れるものでしょうか。やはり、少しばかり竈の木灰を土に混ぜて、土の酸を抜いてやったほうが……」
「駄目だ! 灰は絶対に撒くな!」
崇清が、普段の穏やかさからは想像もつかない鋭い声で制した。
孫六も甚兵衛も、びくりと肩を震わせる。
「……灰を、撒いてはならぬので?」
「そうだ。普通の麦や野菜なら、灰を撒いて土を甘く(中和)するのが定石だ。だが、この茶という木はツバキの仲間でね。普通の作物が根を焼かれて死ぬような『強い酸性の土』でしか、元気に育たない変わり者なんだよ」
崇清はしゃがみ込み、赤土を一握りすくい上げて指の間からこぼした。
「土が酸性だからこそ、余計な雑草も生えず、病の虫も寄ってこない。水が抜けて、土が酸っぱくて、他の作物が全滅するこのシラスの崖こそが、茶にとっては天国なんだ。……米や唐芋と土地を取り合う必要もない。ここは、何も生み出さなかった崖から、純粋な富を絞り出すための畑になる」
孫六は目を丸くした。
山の毒気を吸うような木。
他の作物が死ぬ場所でこそ生きる木。
「さあ、植え付けを始めよう」
崇清は手控帳を開き、指で畝を示した。
「畝の真ん中に、二尺(約六十センチ)の間隔で穴を掘る。根を広げてまっすぐ下に伸ばし、土を被せたら、足でしっかりと踏み固めてくれ。根と土のあいだに空気が残ると、根が乾いて死んでしまうからな」
「はっ!」
孫六たちは、運ばれてきた苗木を一本ずつ手に取り、丁寧に赤土の中へと下ろしていった。
青々とした知覧の茶の若木が、赤いシラスの段々畑に、等間隔に並んでいく。
その光景を見つめながら、崇清はぽつりと呟いた。
「……まずは三年だ。木が根を張り、枝を横に広げて、まともな葉を摘めるようになるまで、最低でも三年はかかる。この冬を越え、来年の夏を乗り切れば、根がシラスの奥深くまで届くはずだ」
十四歳の主君が見つめているのは、明日の収穫ではなかった。
三頭、四年先の未来――この大隅の山裾が、一面の緑で覆われるその日の景色であった。
だが。
自然というものは、机上の理屈通りには動いてくれない。
その年の冬を無事に越し、春先に小さな新芽を吹いて喜んだのも束の間――翌天正元年(1573年)の夏、獅子目の茶園を未曾有の危機が襲った。
カンカンと、容赦のない陽光が空から降り注いでいた。
梅雨が明けて以来、獅子目の谷には一滴の雨も降っていなかった。
ただでさえ雨水を溜め込まないシラスの土は、強烈な直射日光によって完全に水分を奪われ、白く干からびて無数の地割れを起こしていた。
「……若君! 若君、いらっしゃいますかッ!」
飯隈の総会所に、泥と汗にまみれた孫六が転がり込んできた。
その顔は真っ青に引き攣れ、唇は渇きで白くひび割れている。
机の上で高須の塩田帳簿を検算していた崇清が、弾かれたように顔を上げた。
「孫六殿、どうした!」
「茶の苗が……知覧から運んだ茶の苗が、一斉に萎れております!」
孫六の声は悲鳴に近かった。
「葉が黄色く丸まり、触れただけでポロポロと落ちていきます! 井戸から桶で水を担ぎ上げ、朝夕に撒いてはおりますが、シラスの土が熱湯のようになっており、撒いたそばから湯気を立てて乾いてしまうのです! このままでは、三千本の苗が全滅いたします!」
「なんだと……!?」
崇清は筆を投げ捨て、草鞋を突っ掛けて総会所を飛び出した。
照りつける日差しの中を、斜面へ向けて全力で駆け上がる。
段々畑に辿り着いた崇清の目に飛び込んできたのは、無惨な光景であった。
春には瑞々しい緑を誇っていた苗木たちが、首を項垂れるように萎縮し、下葉から茶色く枯れ上がっていた。
蒲生衆の男たちが、桶を天秤棒で担ぎ、谷底の小川から必死に水を運んで畝に注いでいる。
だが、孫六の言う通り、焼き石のようになったシラスの地表に注がれた水は、土の熱でたちまち生ぬるい泥水と化し、幼い根を蒸し焼きにしているだけだった。
「若君……!」
駆け寄ってきた甚兵衛が、苦悶の表情で立ち尽くしていた。
「水が足りんのではありません。土が……土が熱すぎるのです! 水はけを良くしたせいで、水が底へ抜けるばかりか、土の中まで火が通ったようになっております!」
「…………ッ!」
崇清は、自分の拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
(……俺のミスだ。大馬鹿野郎が!)
脳裏で、現代の知識が激しく点滅していた。
茶は好酸性で、水はけを好む。その一般論は100%正しかった。
だが、それは「根が地中二メートルまで伸びた成木」の話だ。
定植してまだ一年にも満たない幼木の根は、地表からわずか数十センチの浅い場所にしかない。
その浅い根を、南九州の猛烈な直射日光と、熱を持ちやすいシラスの赤土が直撃していたのだ。
水はけを徹底しすぎたあまり、地表の水分が完全に蒸発し、幼木が「砂漠の真ん中」に置かれた状態になっていた。
「……水撒きをやめろ!」
崇清の鋭い声が、畑に響き渡った。
「えっ……? 水撒きをやめるのですか!? 見殺しにするおつもりか!」
孫六が血走った目で叫ぶ。
「今、水を撒いても根が煮えるだけだ! やるべきは水やりじゃない、地表の蓋だ!」
崇清は振り返り、山裾に広がる茅の茂みを指差した。
「茅を刈れ! 山じゅうの茅と藁を刈り集めて、この畑に運ぶんだ!」
「茅を……?」
「そうだ! 刈り取った茅を、畝の表面、茶の木の根元に隙間なく敷き詰めるんだ! 厚さは三寸(約十センチ)以上! 土を陽の光から隠せ!」
崇清は自ら腰の小刀を引き抜き、斜面の茅を力任せに刈り取り始めた。
「敷き草だ! 草の層で直射日光を遮れば、土の温度が一気に下がる! 夜露の湿り気も蒸発せずに土の中に閉じ込められる! 水は、草の上から夕暮れ時に一度だけ撒けば十分だ! 急げ、日が暮れる前にすべての根元を草で覆うんだ!」
蒲生衆の男たちは、一瞬呆然とした。
だが、主君が自ら泥にまみれて茅を刈り倒す姿を見て、誰一人として躊躇う者はいなかった。
「……野郎ども、聞いたかッ!」
甚兵衛が雷のような怒号を上げた。
「鎌を持て! 山を丸坊主にする勢いで茅を刈り倒せ! 若君の苗を一本たりとも死なせるなッ!」
「おおおおッ!」
百人を超える蒲生衆が、一斉に斜面へと散っていった。
ザッ、ザッ、ザッ、と草を刈り倒す凄まじい音が山に木霊する。
老人も、若者も、怪我人も関係ない。
刈り取られた茅の束が、人足のリレーによって次々と段々畑へと運び込まれた。
孫六は、運ばれてきた青い茅を抱え、茶の木の根元へと跪いた。
萎れかけた茶の木を傷つけぬよう、丁寧に、だが分厚く、地面が完全に隠れるまで茅を敷き重ねていく。
十センチ。十五センチ。
厚く敷き詰められた茅の隙間に手を入れてみる。
驚いたことに、あれほど焼け付くようだったシラスの土が、草の影の下で、ふわりと冷たい空気を保ち始めていた。
「……冷たい」
孫六は息を呑んだ。
「土が……土の熱が、引いていく……!」
日が傾き、西の空が朱色に染まる頃、三千本の茶の木が並ぶ段々畑は、一面の青い茅の絨毯で覆い尽くされていた。
谷風が吹き抜けると、茅の香りが立ち上る。
崇清は、夕闇の中で井戸水を汲み上げ、茅の上から静かに柄杓で水を注いだ。
水は湯気にならず、茅の層をゆっくりと潜り抜けて、冷たいまま土の奥深くへと吸い込まれていった。
三日後。
孫六は、朝露の降りた畑に立ち、言葉を失っていた。
首を項垂れ、枯死寸前だった茶の苗木の先端から、針のような小さな、瑞々しい緑の新芽が、力強く顔を覗かせていたのだ。
一枚、また一枚と、縮れていた葉が朝の光を浴びてピンと伸びていく。
「……生きてる」
孫六の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「若君……木が生きております! 新芽を吹きましたぞ!」
駆け寄ってきた甚兵衛が、孫六の肩を力任せに叩いた。
「見たか、孫六。これが若君の知恵だ」
「いえ、甚兵衛様」
孫六は袖で涙を拭い、首を横に振った。
「若君の知恵だけではございません。……若君は、土と木のことなら何でもご存知だと思っておりました。だが、あのお方は、失敗したら誰よりも先に泥にまみれて草を刈られた。……あのお方と一緒に、俺たちがこの手で救った木です」
孫六は、敷き詰められた茅を撫でた。
もう、誰に指図されずとも分かる。
このシラスの傾斜地で茶を育てるには、水はけの溝だけでは足りない。
冬には霜を防ぐ敷き草を施し、夏には日差しを遮る茅を重ね、常に土の温度を見守らねばならないのだ。
知識を一方的に与えられたのではない。
失敗をくぐり抜けたことで、この赤土の管理は、蒲生衆自身の血肉となっていた。
遠くの尾根の上で、崇清が手控帳に何かを書き留めている姿が見えた。
朝日を浴びて立つその小さな背中は、もはや単なる主君ではなく、共に土に生きる仲間そのものであった。
不毛と呼ばれた獅子目の赤土斜面に、しっかりと、だが確実に、四百年先へと続く緑の根が張り始めていた。
出来心で書きました。島津は島津ですが思い切り頭の悪い島津のお話です
よろしければ……
ネオ・サツマ・リローデッド:ニンジャ・ジゲンリュウ・カルネージ
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