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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第6部 「血を流さない南九州制覇」

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【第106話】遠江の祖霊と球磨川の大引越し

天正五年(一五七七年)七月下旬。肥後国・球磨郡、人吉城。

八代・古麓城での茶席から帰還した相良義陽が、城の大広間に一門・譜代の武頭たち百余名を招集したその日、城内はかつてない怒号と悲鳴にも似たどよめきに包まれていた。

「――まことか、御屋形様! この人吉の城も、球磨の谷もすべて島津に明け渡し、薩摩の南端へ国替えするなどと……!」

「鎌倉の元久二年より三百七十年! 我ら相良の武士は、この球磨の土と水で生きてきたのじゃ! 先祖代々の墓を捨てて薩摩の風下に立つくらいなら、この場で腹を切るか、人吉城を枕に討ち死にさせてくだされ!」

東長兄や宮原景晴をはじめとする在地の武頭たちが、次々と畳を叩いて詰め寄った。

彼らの怒りは、単なる頑迷さではない。中世の武士にとって「一所懸命の地」とは、己の命そのものであり、祖霊が眠る信仰と誇りの根幹であった。古麓城で義陽が合意したとはいえ、現地に残る何百もの家臣団にそれを受け入れさせるのは、合戦以上の難事業であった。

沸き返る広間の中央で、文官の宿老・深水長智(宗方)が静かに進み出た。

その手には、崇清と内城の勘定奉行・伊集院忠棟が連署した『南薩一万二千石・宛行ならびに軍役・再雇用定書』の分厚い帳面が握られていた。

「皆の衆、まずは頭を冷やしてこの数字を見られよ」

長智は帳面を広げ、古麓城での会談では大枠しか語られなかった「石高と軍役、そして権限の厳密な内訳」を、家臣たちの前に包み隠さず開示した。

「まず、『二万石から一万二千石への減封ではないか』と憤る者もおろう。確かに、相良家が今後島津宗家に対して負う『軍役(動員兵数)の基準』となる表向きの石高は、一万二千石に下がる。……だが、それはむしろ我らにとって天の助けなのだ」

「な、なぜ減封が助けになるのじゃ!」

「これまで我らは『二万石の大名』の看板を背負っていたがゆえに、実入りが一万石足らずに落ちても、二万石分の城と兵を無理やり維持して借金まみれになっていたのだ! 新天地たる知覧・頴娃・指宿の一万二千石では、島津宗家から求められる軍役は『一万二千石相当しかも遠征時の兵糧・玉薬は島津持ち』に軽くなる! その一方で、唐芋の裏作によって食うための雑穀が倍増し、高須と山川の湊から入る塩・鉄・木綿の購入費が今の四分の一に下がるため、『各家の台所に残る実質的な暮らしのゆとり』は、球磨にいた頃の三万石、四万石の時代以上に跳ね上がるのだ!」

生産高は一万二千石にスリム化されながら、食料の裏作と生活必需品の価格下落によって「実質可処分所得」だけが劇的に増える。この明確な区分に、家計のやりくりに苦しんでいた中堅・小身の武士たちがハッと息を呑んだ。

「さらに、南薩へ移った後の『相良家の仕組み』について申し渡す」

長智は帳面の二頁目をめくった。ここには、相良家が島津の中でどのような権限を持つのかが明確に定められていた。

「我が相良家は、ばらばらに解体されて島津の直参になるのではない。御屋形様が島津宗家の『準家老格』として一万二千石を統括し、相良の家名と主従の序列はそのまま維持される。ただし、中身の仕組みは二つに分かれる!」

* 百石以上の重臣・中堅(知行取り):知覧・頴娃・指宿の空いた村々と武家屋敷を「相良家の知行地」として割り当て、これまで通り相良家の下で土地を治める。

* 五十石以下の小身家臣(蔵米・俸禄取り):知覧の宗家直轄蔵(および相良家の蔵)から、不作の年でも減らぬ『定額の玄米と銀』を直接支給し、本人単身の軍役(郎党・陣夫の自腹動員免除)へと切り替える。

「ご、五十石以下の我らは、郎党を養う借金から解放され、単身の奉公で定額の米と銀が貰えるのか……!」

広間の後方に座る小身の地侍たちの間に、先日知覧の寄合所で起きたのとまったく同じ衝撃と安堵のざわめきが広がった。

「では深水殿! わしらが手放す郎党や、どうしても球磨の山を離れたくないという老いた百姓、杣人(きこり)たちはどうなるのじゃ!? 島津は『全員雇う』と言うたらしいが、何千人もいる者を本当に養えるのか!?」

東長兄の鋭い問いに、長智は三頁目の『球磨・八代開発ならびに城番採用枠目録』を掲げた。

「無制限になんでも雇うという空手形ではない! 島津の蒲生又八郎殿と伊集院忠棟殿は、すでに球磨と八代で必要となる『人数と賃金の枠』をきっちり算盤で弾いておられる!」

長智は指を折って読み上げた。

* ① 球磨川水路開削・山林伐採事業(博多商人・飯隈工兵共同出資):屈強な旧郎党・山番・川船頭を中心に、最大六百名を「日当・玄米二升と白塩」で期間雇用。

* ② 八代・人吉・水俣の三城警固(新納忠元指揮下):武芸に秀でた旧郎党・足軽のうち、球磨・八代に残りたい者三百名を「島津宗家直属の城番足軽(年五石扶持)」として新規採用。

* ③ 球磨・八代の直轄農地:残る百姓や下人たちは、年貢率を五公五民に据え置いたまま「島津直轄地の百姓」として従来の田畑の耕作権を安堵し、希望者には高須の塩と唐芋の種芋を貸与する。

「つまり、南薩へついてくる家臣団とその家族がおよそ二千二百人。球磨に残って島津の城番足軽や川普請の職人に転じる郎党・家族がおよそ九百人。……合わせて三千人の行き先と扶持の出処が、一人の漏れもなくこの帳面に割り振られておるのだ!」

漠然とした「全員救う」という美辞麗句ではなく、事業ごとの予算と定員(六百名・三百名・耕作安堵)に裏打ちされた冷徹なまでの実務計画を突きつけられ、武頭たちはぐうの音も出なくなった。

そして、これまでずっと黙って目を閉じていた猛将・犬童頼安(休矣)が、重々しく口を開いた。

「……皆の者。長智の帳面に嘘はない。わしは古麓城で、かつて島津と血で血を洗う戦をした大隅の禰寝重長殿と直接顔を突き合わせてきた。……あのお方も、わしらと同じように最初は島津を疑い、そして今は大隅の海運で一族郎党を豊かに養うておられる。もし我らがここで意地を張って籠城すれば、来年には塩が尽き、北からは島津の重臣となった旧友・甲斐宗運殿の軍勢が攻め寄せてくるのだぞ。……わしらのちっぽけな意地のために、相良の三千の女子供を冬の山で干上がらせるわけにはいかぬのじゃ……!」

武闘派の筆頭であった頼安が畳に拳をついて涙をこぼす姿に、広間の強硬論は急速に萎んでいった。

だが、理屈と算盤で納得しても、最後に残るのは「三百七十年守ってきた球磨の土を捨てる」という感情の痛みである。

その時、上座の相良義陽が、静かに立ち上がった。

「――皆の者。顔を上げよ」

義陽の凛とした声が、広間の隅々まで澄み渡った。

「お前たちがこの球磨の山川を愛し、先祖の墓を置いていくことを恥じる気持ち、わしには痛いほど分かる。わしとて、十八代の家督を継いだ身として、人吉の城を明け渡すのは身を切られるよりも辛い」

義陽は一歩前に進み出ると、壁に掛けられた初代・相良長頼の古い肖像画と太刀を指し示した。

「だが、思い出してみよ。我らの遠祖・相良長頼公は、最初からこの球磨の土から生まれたお方であったか? ……違うはずだ。長頼公はもともと、東国の遠江国相良庄の武士であられた」

家臣たちがハッと顔を上げた。

「元久二年、長頼公は住み慣れた遠江の故郷を離れ、一族郎党を引き連れて、言葉も通じぬこの九州の山奥へと移り住まれたのだ。なぜか? 『相良の家と、家臣たちの命を繋ぎ、大きく育てるため』である!」

義陽の瞳に、強い光が宿った。

「遠江から球磨へ移って四百年。今、時代が大きく回り、この球磨の谷は袋小路となった。なればこそ、わしらは遠祖・長頼公に倣い、もう一度海辺の新天地へと根を移すのだ! ……よいか、相良の家とは、この人吉の石垣や球磨の土くれのことではない! ここに並び座るお前たち一人ひとりの命と、お前たちの女房子供、そして受け継がれる相良の血脈のことだ! 土地にしがみついて一族を飢え死にさせることこそ、遠江より下られたご先祖様に対する最大の不孝と知れ!」

「お、御屋形様……ッ!!」

「人吉の願成寺にある歴代当主の墓石と遺骨、ならびに青井阿蘇の御分霊は、わしが責任をもってすべて船に乗せる! お前たちの先祖の位牌と墓の土も、一握り残らず持参せよ! わしらが生き、わしらが旗を立てる場所こそが、これからの相良の故郷なるぞ!」

「おおおぉぉぉ……っ! 御屋形様ぁぁッ!!」

東長兄も、宮原景晴も、そして百余名の武頭たち全員が、一斉に畳へ額を擦り付けて号泣した。

「土地を手放すことは先祖への裏切りではなく、遠江から移住して家を興した開祖の精神に還ることである」――名君・義陽が魂を絞って紡ぎ出したその言葉によって、相良家臣団の未練と誇りは完全に救済され、家中は一つにまとまったのである。

それから十日後の八月上旬。

人吉の盆地から球磨川を下り、八代湊から薩摩半島の山川・知覧へと至る街道と水路で、戦国史上類を見ない「相良家二千二百人の大引越しオペレーション」が幕を開けた。

だが、理念で合意することと、実際に二千二百人の人間と家財・位牌・墓石・馬を険しい山奥から海路で移送することは、まったく別次元の戦いである。

「おいッ! そこの川舟、墓石を三つも片側に積んだら急流でひっくり返るぞ! 墓石は一艘に一つずつ、必ず船底の真ん中に縄で縛り付けろ!」

「弥三郎様! 東様のお屋敷の奥方様が、先祖伝来の味噌樽を十個全部持っていくと泣いておられます!」

「ええい、腐りかけた古い味噌樽など船に積めるか! 代わりに知覧の新屋敷に、高須の白塩で仕込んだ極上の三年味噌を二十樽用意してあると伝えて納得してもらえ! 割符に『東家・味噌二十樽引換』と書いて渡すんだ!」

人吉の川湊では、輸送総責任者として乗り込んだ蒲生弥三郎清忠が、喉から血が出るほど声を張り上げ、汗だくになって走り回っていた。

日本三大急流である球磨川は、そのままでは大型船が遡上できない。

そこで崇清と工兵頭・猪之助が敷いたのは、「三段階のバケツリレー輸送網」であった。

第一区間である人吉〜球磨川中流の難所の手前は、地元の球磨の川船頭たちつまり今回、島津の川普請事業に日当玄米二升で雇われた男たちが操る百艘の浅底川舟で、荷と老人・子供を少しずつ下す。

第二区間である岩礁が牙を剥く急流の難所・約二里では、一度荷を陸揚げし、猪之助の工兵隊が川岸の崖に沿って仮設した「木道(コロ付きの丸太レール)」と「滑車」を使って、重い墓石や長持を人力と牛で一気に迂回させる。

そして第三区間である八代河口〜薩摩・山川湊では、八代湊にずらりと待機する高須水軍・能野甚五郎と茂平次の「大型平底輸送船・三十隻」へと積み替え、不知火海を南下して薩摩半島の南端へとピストン輸送するのだ。

「はあ、はあ……若君! 人吉城の武器蔵にあった槍・具足・鉄砲三百挺の封印と荷札付け、終わりましたぜ! ですが、相良の若侍どもが『先祖伝来の槍を手放して丸腰で船に乗るのは不安だ』と渋っております!」

猪之助からの報告を受け、八代湊の差配所にいた崇清は即座に判断を下した。

「無理に取り上げるな、猪之助。相良家は降伏した捕虜ではなく、島津の『準家老格』として移る味方だ。各家の当主が持つ表槍一筋と大小の刀は、本人が携えたまま船に乗ることを許せ。残りの具足箱には、弥三郎と深水長智殿の『両判の封印』を貼り、相良の武頭から各船に一名ずつ『荷番』を同乗させろ。そうすれば『途中で武器を奪われるのではないか』という疑念は消える」

「なるほど! 相良の武士自身を荷番として船に乗せるんでやすね! すぐ手配しやす!」

征服者として武装解除するのではなく、あくまで「同盟者・重臣の引越し」として相手の面子と安心感を守る細やかな配慮に、同行していた犬童頼安も「……そこまで我らの顔を立ててくれるか」と深く頭を下げた。

さらに、移動する二千二百人の相良の家族たちの不安を溶かしたのは、道中の宿場と八代湊の乗船場に設けられた蒲生島津の「兵站炊き出し所」であった。

大釜から立ち昇るのは、大隅の豚骨と根菜をじっくり煮込み、たっぷりの「高須の白塩」と麦味噌で味を調えた熱い豚汁の湯気。その隣では、蒸篭でふかしたばかりの黄金色の「唐芋」と、清潔な白湯が惜しみなく振る舞われていた。

「お、おっかあ……! このお汁、お塩がしっかり効いてて、お肉がいっぱい入ってるよ……!」

「この黄色いお芋、お砂糖みたいに甘い……! 薩摩へ行けば、こんなお芋が毎日お腹いっぱい食べられるのかい……?」

ここ数ヶ月、塩の暴騰によって味気ない薄い雑炊ばかりを食べさせられていた相良の幼子や老婆たちが、温かい豚汁と甘い唐芋を頬張って顔をほころばせる。

「薩摩へ行けば冷たい目で蔑まれ、ひもじい思いをするのではないか」と怯えていた女房たちの目から、張り詰めていた涙がこぼれ落ちた。

*

そして八月中旬。

第一陣の輸送船団に乗った相良義陽、犬童頼安、深水長智ら五百名が、薩摩半島の南端・山川湊から陸路を経て、新天地たる知覧の城下へと足を踏み入れた。

彼らを出迎えたのは、見事に掃き清められた武家屋敷群と、青々と広がる二期作の水田、そして丘陵を埋め尽くす茶畑と唐芋畑の緑であった。

ひと月前までここに住んでいた佐多源左衛門ら大身十八家はすでに大隅の鹿屋へ笑顔で移り、小身二十家は「俸禄侍」となって宗家の下代官として整然と村を管理している。

知覧の仮本陣に入った義陽と長智の前には、すでに約束された「白塩五十俵」「鉄地金百貫」、そして小身家臣たちに配るための「初年度の蔵米と銀」がうず高く積まれていた。

「……御屋形様。ご覧くださいませ」

知覧の高台から、遠くきらめく東シナ海の青い海原と、開聞岳の美しい稜線を見渡した深水長智が、震える声で呟いた。

「風通しの良い広い屋敷に、霜の降りぬ暖かい土。そして、すぐそこには世界中と繋がる湊がある……。球磨の深い霧の底で息を詰めていた我らが、まるで日の光の下へ出たようにございます」

「うむ……」

相良義陽は、人吉から自らの手で抱いてきた初代・長頼公の位牌を胸に当て、潮風に目を細めた。

「長頼公。……相良の船は、四百年の時を経て、再び広い海へと漕ぎ出しましたぞ」

こうして、肥後南部で四百年の歴史を誇った名門・相良家は、一人の戦死者も、一人の餓死者も出すことなく、島津宗家の「準家老・南薩相良家(一万二千石)」として見事な再生を遂げた。

一方、相良家が去った直後の肥後・八代古麓城には、三千の精兵を率いた島津家随一の猛将・新納武蔵守忠元が威風堂々と入城を果たしていた。

忠元の背後には、内城の伊集院忠棟が送り込んだ二十名の算用役人と、球磨川の岩礁を砕くべく槌と火薬を担いだ飯隈の工兵隊、そして現地で再雇用された九百名の旧相良郎党・川船頭たちが控えている。

「ガハハハハッ! 又八郎め、本当に矢の一本も射ずに八代と球磨の二万石を空けおったわ!」

古麓城の天守台に立った新納忠元は、北に広がる肥後平野――そのさらに北、筑後・肥前の空を覆う不気味な黒雲を睨みつけ、大槍の石突をドンと鳴らした。

「これで東の矢部には阿蘇の甲斐宗運殿、西の八代にはこの新納武蔵守が並んだ! ……さあ、いつでも降りてこい、肥前の熊(龍造寺隆信)め! ここより南へは、蟻一匹たりとも通さんぞ!」

天正五年・秋。

阿蘇と相良という肥後の二大難所を「神道」と「国替え・俸禄制度」という前代未聞の知略で無血統合した島津の視線は、いよいよ九州最大の怪物・龍造寺隆信と、豊後で狂信の炎を燃やす大友宗麟の二つの戦線へと向けられようとしていた!


相良義陽さん……結構ネットでも人気のある武将ですよね。


家臣団にも個性があり、深水長智と犬童頼安という二本柱もしっかりしている。家を支える文官と、武を担う猛将が揃っているあたり、主人公になりうる素質は十分にあると思うのです。


ただ、いかんせん相手が悪かった。


北には大友、東には阿蘇、南には島津。そして肥前には龍造寺隆信。


九州の勢力図を眺めると、相良家が生き残るための選択肢は、どんどん狭まっていくんですよね。


だからこそ、もし義陽が、家臣団と領民を守りながら生き残る道を選べたなら?


そんなIFを考えてみたくなりました。


今回の物語では、土地を守ることだけが家を守ることではない、という選択を義陽にしてもらいました。

これだと盟友の甲斐宗運と戦うこともなくなります…

四百年守ってきた故地を離れても、人が残り、家が残り、次の世代へつながっていく。


史実とは異なる道ですが、こんな相良家の未来があってもいいのではないかと思っています。


さて、次回更新は明日7時です。

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