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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第6部 「血を流さない南九州制覇」

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第100話 薩摩への凱旋と五兄弟の算盤

 天正五年、夏。

 肥後・宇土の湊を出た島津使節団の関船三隻は、天草の島々を抜け、薩摩半島の南端・山川の湊を経て、ついに鹿児島・内城の浜へと白い帆を滑り込ませた。

 出立の折には春の残り香を含んでいた錦江湾の潮風も、いまや南国の強烈な陽光を照り返し、むせ返るような夏の熱気を孕んでいる。

 波止場に降り立った崇清が、久しぶりに踏む薩摩の黒い火山灰の土の感触を草鞋の裏で確かめていると、城門の方角から砂煙を上げて駆け下りてくる一団があった。

「おーい、又八! 左馬頭兄者! 帰ったか!」

 太陽よりも暑苦しい大声を張り上げ、大股で波止場を踏み鳴らしてきたのは、日向・佐土原から一時帰還していた四男・島津又七郎家久であった。その背後には、飯野から駆けつけた次兄・兵庫頭義弘の魁偉な姿と、大口の城将・新納武蔵守忠元の姿もある。

「無事で何よりじゃ、歳久、又八。……して、都はどうであった! 織田信長とやらの首根っこは引っ掴んできたか!」

 義弘が豪快に笑いながら、崇清の細い肩をバシンと叩いた。鉄板のように分厚い掌の衝撃に、崇清の肺から「うぐっ」と空気が押し出される。

「あ、兄上……私は軍勢を率いて討ち入りに行ったのではありません、朝廷と織田への御使者に行ったのです……」

「はっはっは! そうであったな! じゃが、お前と歳久が揃って手ぶらで帰ってくるはずがあるまい。さあ、大殿(義久)が奥の広間で待っておられるぞ!」

 *

 内城・奥政庁の評定の間。

 上座の中央には、島津本宗家の当主・修理大夫義久が静かに座し、その左右を義弘、歳久、家久、そして末弟の崇清が固めていた。下座の筆頭には、帳面を膝元に置いた筆頭家老・伊集院忠棟と、新納忠元が控えている。

 歳久の命を受けた崇清が、黒漆塗りの文机箱から『大隅国肝属郡獅子目、若一王子神社・神階正一位口宣案』と吉田家の神階執奏状を取り出し、義久の御前へと恭しく捧げ持った。

「――以上が、京および近江・安土、ならびに帰路の肥後・阿蘇にて調えてまいりました顛末にございます」

 崇清の淡々とした報告が終わると、広間にはしばし、蝉の声だけが響く深い沈黙が落ちた。

 最初に声を漏らしたのは、下座で口宣案の写しを睨みつけていた伊集院忠棟であった。

「……正一位。まことに、あの獅子目の社に、朝廷の極位が下りたというのか」

 出立前、あれほど「公金の無駄遣いだ」「公家に毟られるだけだ」と猛反対していた忠棟の指先が、微かに震えている。

「しかも、烏丸の茶屋はすでに黒字に転じ、近衛前久公と吉田兼見卿を完全に抱き込んだのみならず……その正一位の宣旨を餌にして、帰り道に肥後の阿蘇惟将と甲斐宗運まで無血で傘下に収めてきた、と……?」

 忠棟は算盤を弾くことすら忘れ、呆然とした目で崇清を見た。

 もし阿蘇を武力で攻め落とそうとすれば、島津の軍勢を二万は動員し、数年の歳月と莫大な兵糧、そして数千の死傷者を覚悟せねばならなかったはずだ。それをこの十四で元服したばかりの末弟は、都の土産である紙切れ一枚と、塩と硫黄の交易条件だけで、一兵も損なわずに丸ごと呑み込んで帰ってきたのである。

「……見事じゃ、歳久、崇清」

 上座の義久が、ゆっくりと口を開いた。その穏やかな双眸の奥に、底知れぬ覇者の光が宿っている。

「一滴の血も流さず、都の朝廷と肥後の阿蘇を同時に我らの味方につけたか。……阿蘇の甲斐宗運が我らの重臣格として北の抑えに回り、阿蘇谷の神領が我らの背後を保証するとなれば、もはや南肥後の相良義陽に抗う術はあるまい」

「はい」

 崇清は静かに頷いた。

「阿蘇が島津の神道秩序に入ったという報せは、すでに球磨・八代の相良殿のもとにも届いているはずです。後ろ盾であった大友が崩れ、頼みの阿蘇まで島津と結んだ今、相良殿は完全に袋の鼠となりました。……遠からず、あちらから和議と降伏を申し出てまいりましょう」

「うむ。相良が降れば、八代から宇土に至る肥後の海路はすべて我らのものとなるな」

 義久が満足げに頷いたその横で、ウズウズと身体を揺らしていた家久がたまらず身を乗り出した。

「おい又八! 阿蘇の爺さんを丸め込んだのも凄えが、俺が聞きてえのは安土の織田信長だ! 左馬頭兄者から聞いたぞ、お前、天下の織田右大将を相手に一歩も引かず、大友の悪行を理詰めでまくし立ててやり込めたそうじゃねえか!」

「おう、俺もそれを聞いたぞ!」

 義弘も獰猛に目を輝かせ、膝を乗り出した。

「比叡山を焼き、畿内を武力でねじ伏せた魔王のような男と聞いておったが、さすがは我が弟よ! 薩摩隼人の肝っ玉を天下に見せつけてやったのだな!」

 新納忠元までが「いやあ、若君の度胸には鬼武蔵も形無しでござるわい!」と豪快に笑い声を上げる。

 だが――賞賛の嵐を浴びた当の崇清は、なぜかスッと視線を逸らし、遠い目をして自分の胃のあたりをそっと押さえた。

「……いえ、その。信長公は確かに凄まじい覇気のお方でしたが、筋道と算盤が通じるお方でしたので、さほど恐ろしいとは」

「ほほう! 信長すら恐るるに足らずと申すか! ならば都や安土には、お前を怖がらせるような武者は一人もおらなんだというわけだな!」

 家久が得意満面で胸を反らした、その時だった。

「……いえ。二人ほど、今思い出しても胃がねじ切れそうなほど恐ろしい化け物がおりました」

「なに?」

 義弘と家久の眉がピクリと動いた。

「信長以上の化け物だと? 誰じゃ。柴田勝家という猛将か? それとも明智光秀という男か?」

「……いえ。一人は、広敷の廊下で人の良さそうな愛想笑いを浮かべながら、草履の裏のようにペコペコと頭を下げていた、猿面の羽柴筑前守秀吉という男とその軍師。……そしてもう一人は、信長公の茶室の隅で、借りてきた猫のように背中を丸めて自分の爪を噛んでいた、徳川三河守家康という男です」

 ピタリ、と広間の空気が止まった。

 義久も、義弘も、家久も、そして忠棟や忠元までもが、一斉に「……は?」と間の抜けた顔で崇清を見つめた。

「……おい、崇清」

 歳久が白檀の扇子で口元を隠しながら、肩を震わせて笑いを堪えている。

「またその話か。兄上、聞いてくだされ。この男、安土の城でその羽柴と徳川にすれ違った時だけ、まるで幽霊でも見たかのように真っ青になって冷や汗を滝のように流し、帰りの舟では胃を押さえてのたうち回っておったのですぞ。なのに、当の織田信長公の目の前に出た途端、ケロリとして堂々と舌戦を繰り広げおったのです」

「……わけが分からんな。なぜ主君の信長が平気で、その家来の猿や同盟相手の三河守の方が怖いのだ?」

 義弘が心底不思議そうに首を捻る。

「あ、あれはですね……! 信長公は『今、目の前にある合理』で動くお方ですが、あの猿と狸は、底が見えないと言いますか、なんと言いますか……!」

(言えるか! 『あいつらが将来、信長が死んだ後に天下を全部かっさらって、島津を関ヶ原と九州征伐でボコボコにする張本人だからです』なんて口が裂けても言えるわけがないだろうが!)

 崇清が一人で脂汗をかいてしどろもどろになっているのを、四兄弟と重臣たちは「……まあ、又八にも妙な好き嫌いがあるのだな」「高所の風でも当たったのじゃろう」と、生温かい目で見守るしかなかった。

 ひとしきりの笑いが収まると、崇清は咳払いを一つして居住まいを正し、本来の冷徹な実務家の顔へと戻った。

「――大殿。笑い話はさておき、安土にて信長公より取り付けた約定は、我らにとって極めて重い意味を持ちます」

 崇清は広間の中央に広げられた九州全図の東――豊後国の府内を指差した。

「信長公は、表向きには我らに『勝手な私戦は許さぬ』と釘を刺されました。ですが、その裏の茶席にて、『毛利への海路を塞ぐこと』と引き換えに、『南蛮に土地を売り、神仏を焼く大友を内側から解体し、京の名家(高家)として棚上げすること』を完全に黙認されました」

 義久の目が細められ、忠棟がゴクリと唾を呑む。

「私戦はせず、刃も交えず、大友を滅ぼす。……そのための準備は、すべて整いました」

 崇清の指先が、日向の細島から豊後水道、そして佐賀関へと至る海の道をなぞった。

「第一に、高須と細島の船団をもって、豊後水道の海上検問を今日よりさらに一段階引き上げます。南蛮船はもちろん、堺や博多から府内へ向かう商船もすべて細島へ誘導し、塩・鉄・硝石・硫黄の府内流入を完全にゼロにします」

「干殺しの仕上げじゃな」

 歳久が静かに頷く。

「第二に、道純の楠行者衆を通じて集めた『宗麟公が南蛮伴天連に港の治外法権を売り渡した裏証文』と『宇佐・奈多の神官たちの血涙の訴状』を、筑前の立花道雪殿、高橋紹運殿、そして豊後の心ある家老衆のもとへ一斉にばら撒きます」

 崇清の瞳に、氷のような光が宿った。

「海から塩と銭を絶たれ、内からは神仏を焼く主君への叛乱と離反が噴き出す。さらに北からは、大友の弱体化を見た肥前の龍造寺隆信が、筑後と豊後境へと牙を剥いて雪崩れ込んでくるでしょう。……我ら島津は、一兵も豊後の土を踏む必要はありませぬ」

 広間の武将たちが、息を呑んでその絵図を見つめた。

「大友という巨木が、自らの狂気と飢えによって内側から腐り落ち、最後に『朝廷と島津の慈悲』に縋って都へ逃げ出すその日まで……我らは海を閉じ、肥後を固め、ただ静かに算盤を弾いて待てばよいのです」

「――よし」

 義久が重々しく頷き、軍配を膝の上に立てた。

「すべて崇清の絵図面通りに運べ。家久は佐土原に戻り、日向境の備えと細島の船手を固めよ。義弘と忠元は肥後境へ睨みを利かせ、阿蘇の甲斐宗運と連携して相良の降伏を受け入れよ。忠棟は高須と飯隈の物資を差配し、一粒の塩も豊後へ漏らすな!」

「「「はっ!!」」」

 四兄弟と重臣たちの力強い唱和が、内城の大広間を揺るがした。

 天正五年夏。

 京都・安土・阿蘇を巡る大航海を終えた島津の歯車は、いよいよ九州東半の覇者・大友宗麟を無血のまま歴史の表舞台から引きずり下ろす、最終局面へと回り始めたのである。


いつも『蒼溟の覇王』をお読みいただき、本当にありがとうございます!

本日をもって、正伝(本編)通算「第100話」を迎えることができました。

泥の谷の捨て石から始まり、ここまで崇清の泥臭い兵站と帳簿の戦いを描き続けられたのは、毎日読んでくださる皆様の応援のおかげです。

もし「100話完走おめでとう!」「この先の九州統一戦も楽しみ」と思っていただけましたら、画面下部にある『☆☆☆☆☆』をタップしての星評価や、ブックマーク登録にて、お祝いの補給物資を投げていただけますと幸いです!

(皆様からの評価ポイントが作者の兵站線となり、日間・週間ランキングの棚を守る最大の防壁になります)

いよいよ物語は九州の総決算へ向けて加速していきます。

引き続き、蒲生島津家の航跡をお見守りください!


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